a daytrip to Royal Road
王道への旅

APSARAのイム・ソクリティーが「王道を見せてやろう。スピアン・プラプトスより大きい橋があるぞ」という。2003年5月初旬のある日曜日の朝7時半、アンコール・コンサベーションで待ち合わせて国道6号を西に向かった。その日は快晴であり、日差しが朝からきつい。 ソクリティーのバイクは大型で強力だが私の乗る(モトドライバーのソイの運転する)バイクは非力な小型である。私たちはせいいっぱいのスピードではるかかなたの大型バイクを追った。
クラランで国道6号から離れ、北に向かう。空が大きい。10キロほど進むと十字路 に出た。コンクリート造りのトマサラがある。日本のテレビ局が建てたらしい。そこが王道への出発点だった。 この十字路は現在の過去の交差点でもある。私たちは休むのを惜しんで王道に乗り入れた。
この王道はアンコール都城から北西の方角にのび ている。
王道というのは響きのいい呼び名だ。これもアンドレ・マルローが小説「王道」にそう書いたために一般化した。呼び名としてそれほどの歴史があるわけではない。
道はでこぼこの土の道だ。ただしそこが王道であるという意識が私を高揚させる。
王道は堤防状に盛り土されており、両側には水路がある。北側、 すなわち向かって右側の水路には今でも水が通っている。「低い土地では水路を設け、そうでないところでは一定間隔で溜池を作った」とソクリティー。
王道北側の水路をふさぐように小さな水門が見えてきた。クメール・ルージュが作ったものだという。彼らはこれによって水の流れを変え、コントロールしようとした。この水門が作られたのはほんの25年前のことだが、まるで遺跡であるかのような印象があった。そして不気味さを も感じた。
次に出会ったのは橋の遺構である。スピアン・メーマイといい、道がおおきく湾曲した湾のような地形のところにラテライトの残骸だけが見える。かなりの長さの橋だったのだろう。「メーマイというのは未亡人のことだ。水流が変わって取り残されてしまった橋がそう呼ばれる」とソクリティー。
北方には広大な平原が開けている。雨期にはおそらく湖のような景観に一変することだろう。
スピアン・メーマイの先にもクメールルージュの作った水門が あった。こちらはかなり崩れ、板を渡しただけの危なっかしい「橋」がかかっている。そこをバイクがそろそろと渡る。
水門の上から北西、すなわち王道の伸びる方向を見る。広い平原の只中を、小高く土を持った幹線道路が一直線に伸びている。その両側には水路がいまだに残っている。私には絶景といっていい。
ここが今日の我々の目的地、スピアン・スラエン だと聞かされても最初はぴんと来なかった。橋はどこにもなかったからだ。しかしここが確かにアンコール期最大のある場所なのだ。奇妙に平らな地面が橋の路面である。長さ140メートル以上。長さも高さもコンポンクデイにあるスピアン・プラプトスより大きい。現存する最大の橋だという。しかしこの橋は実はほとんど不可視である。橋全体が土で埋められているのだ。クメールルージュはこの橋を埋めてダムとし、灌漑に利用しようとした。現在 も橋は埋まったままで、その左右は緩傾斜の土の斜面になっている。ここが橋であったと想像させるものはひとつだけ残ったナーガの欄干の一部だけである。
橋の西側のたもとにはトマサラがあった。ひとびとが休んだりする伝統的な休憩所みたいなものだ。 大きな木の木陰でしばらく休憩した。村人もそのあたりにたむろしている。ソクリティーは彼らにインタビューを始めた。
橋の東側のたもとにはネアック・タがあった。 その姿は兵士のようにも見える。このネアック・タなるものの正体について、すこし詳しく知りたいと改めて思った。
橋のたもとにはクメールルージュが建てた記念碑があった。橋を埋めてダムを作る工事の記念碑だ。この工事によって数百人の死者が出たという。 それにしてもこの死臭のする記念碑が破壊されることなく今も立っているのはなぜなのだろうか。
帰路。国道6号上は圧倒的な快晴だった。旅の中の小さな旅が終わろうとしている。

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