一ノ瀬泰造の真実

フリーカメラマン一ノ瀬泰造は1947年佐賀県武生市に生まれた。
日大芸術学部で写真を学んだ後、197年にカンボジアに入国し、翌1973年11月にアンコール・ワットへ単独で潜行を試みて消息不明となった。クメール・ルージュに拘束され、その後処刑されたと言われている。
カメラマンとしての経験が浅く、戦場経験も少なかった泰造は、しかし今でも若者に圧倒的な人気があり、ほとんど熱狂的な「泰造ファン」さえいるようだ。

彼ら「泰造ファン」の類型はだいたい次のようなものだ。
まず映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」で泰造と出会う。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」は一ノ瀬泰造を主人公とする映画である。浅野忠信主演で1999年に公開された。
この映画を見て、自分の夢を実現するために身を挺して危険の中に飛び込んでいった彼の情熱やエネルギーに感動した彼(彼女)は次のように語る。
「私は現在彼と同じ年齢ですが、何という違いでしょうか。彼が何かに向かって精一杯生き、それに命を賭けていたということがすばらしいです。」
「泰造に憧れて写真を始めました。彼の生き方に惹かれるものがありました。」
「泰造さんを知ったのは、人生に迷っている時に映画(地雷を踏んだらサヨウナラ)を見てからです。この人のように自分に素直に生きたいと思いました。」
彼らは要するに泰造の生き方に惚れている。
どういう生き方かといえば「目標をしっかり持って、その目標に近づくために命をも賭けて、懸命に生きそして死んだ、短いが鮮烈な人生だった」という生き方だ。
そこで彼(彼女)は「泰造に会いに」カンボジアに行き、泰造の足跡をたどってシェムリアップ郊外プラダクの村はずれにある彼の「墓」を訪ねる。
あるいはまたアンコール・ワットに行って「泰造の菩提樹」に線香を手向ける。
さらには泰造が通っていたというバンテアイ・スレイ・レストランを訪ねる。こうした巡礼の道をたどる若者は決して少なくないはずだ。

私はといえば、沢田教一に対しては感じたことのない反発を泰造に感じていた。
その理由のひとつに私と泰造が年齢的に近かったということがある。
泰造は私より一歳年長である。泰造が私の家からそれほど遠くない大学に入って写真を撮っていたとき私は登山に熱中していた。
泰造がはじめて海外に旅立ち、バングラデシュを経てカンボジアに入国した頃、私は合宿で韓国の山中にいた。
泰造がクメール・ルージュに処刑された翌年、私はひとりでインドに向けて旅立った。
私にとって泰造の印象が今ひとつだった理由は他にもある。泰造現象ともいうべき彼の偶像化の過程を見ていたからだ。

志半ばで早死にした者は若者の神になる。
スペイン内戦時に国際旅団の一員としてファシストと戦い、戦死したジャック・白井、夭逝した四季派の詩人立原道造、第二次世界大戦末期に出水から片道分の燃料を積み敵艦への体当たり攻撃を目指して離陸していった無名の兵士たち、時代時代に若者の神がいる。
泰造は若者の神であると同時に現代における人生論的なロマンチシズムのシンボルである。
泰造の偶像化にまつわるエピソードはシェムリアップにもある。
シェムリアップ郊外プラダクには「泰造の墓」があって、やってきた日本人は彼らにとってはいくらでもないが「墓」の土地の持ち主にとっては大きな金額を置いて帰る。
ところでそれは「墓」なのだろうか。泰造は確かにそのあたりに埋葬されていたが両親によって遺骨は日本に帰った。その後になって誰かが「墓」を作った。
泰造への共感、観光名所となった「墓」、思考停止にも見える墓参り、それらに私は違和感を抱いていて、シェムリアップを訪れる回数は年を追って増えていったが、私は泰造の「墓」にもバンテアイ・スレイ・レストランにも行くことはなかった。

未完成で死んだ泰造を見る人々の目は感情的情緒的である。
彼が死んでしまったために時の流れの中で伝説化と偶像化の作用が起き、それが今も進行していて、私たちは青年の偶像をひとつ増やす現場に立ち会っている。
泰造には情報が不足していて、それが彼の死の本質的な原因だったと私は考えていた。
彼の情報収集能力が低かったのは何の組織的な後ろ盾もなく戦場に飛び込んでいったからで、更に情報そのものに興味がなく感性で動いていた。
こういう人間が戦場に行けばその結果は明らかだ。
沢田は違っていた。
沢田の背後にはUPIという巨大組織があったし、三沢時代に培った米軍とのコネクションがベトナムに行っても有利に働いた。
それに加えて沢田自身が慎重な人間であり、当然、情報収集も熱心に行っていたはずだ。
私には沢田の未亡人サタさんの「沢田はいつも必ず帰ってくると信じていた」ということばが印象に残っていた。しかし結局、向こう見ずな泰造も慎重な沢田も共に銃弾に斃れた。
それだけカンボジアでの戦争が複雑怪奇であったということができるかもしれない。
当初、カンボジアにおける政府軍との戦いを担っていたのは主にベトナム軍だった。その後クメール・ルージュが取って代わるが、こういう状況の変化は歴史となった今だから言えることで、当時現場にいる人間には実に分かりにくかったに違いない。

彼ら戦場カメラマンの生涯を見るとき、言い古されたことばだが「死の誘惑」について考えないわけにはいかない。
戦争を目撃するには危険に身を晒さなければならない。
あらゆる状況と同様、危険に関してもある種の学習が可能で、その結果慣れが生まれるものだ。危険の察知とか回避には一定の技術が必要で、その技術の未熟なものは容易に死ぬ。
一方で、危険に慣れるにつれ、より危険に近づきたいという欲求も高まる。そうしてすこしづつ死に近づいていく。戦場の死を予期しつも本当のところは誰も知らない。
死のすこし前、泰造は「アンコール・ワットが撮れなくともいい」と書き残している。
サタさんが語ったように、泰造の功名心は戦場での時間をすごすうちに少しずつ変化していったのだろうか。
しかし私はそのまま受け取ることはできなかった。たしかにそうも思っただろうが、それ以上に戦争と戦場というものに魅入られていたのではないかと思えてならなかった。


[一ノ瀬泰造リンク]

一ノ瀬泰造オフィシャルサイト

映画「TAIZO」オフィシャルサイト

戦争写真家 一ノ瀬泰造
 

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