017 沢田教一とカンボジア(沢田サタさん) Sata Sawada: Memory of Kyoichi Sawada, Photographer
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収録:2003年12月9日、青森県弘前市内 取材:波田野直樹


沢田サタさんは現在、青森県弘前市にお住まいです。
 
沢田サタさんは著名な報道カメラマンであった沢田教一を、妻として間近に見てきた人である。1956年に結婚。沢田とともに1966年から1968年にかけてサイゴンで過ごし、その後沢田の死ぬ1970年まで香港に住んだ。
現在は青森県弘前市内にお住まいの沢田サタさんを訪ね、最晩年のカンボジア取材の時期を中心に沢田教一の思い出をうかがった。

(沢田教一略歴)
1936年、青森市で生まれる。
1956年、田沢サタと結婚。
1961年、上京。UPI東京支局に入社。
1964年、はじめてベトナムに行く。
1965年、2月、休暇をとりベトナム入り。取材活動が認められ、取材を継続。12月、世界報道写真展でグランプリ受賞。ハーグの授賞式に出席。
1966年、婦人同伴でサイゴンに戻る。4月、アメリカ海外記者クラブ賞受賞。5月、ピューリッツアー賞受賞。
1968年、9月、香港支局写真部長として転勤。
1970年、1月、サイゴン特派員として赴任。8月、プノンペン入り。10月28日、プノンペンの南約30キロの国道2号線上で殺害される。34歳だった。

(沢田教一と私)
夕食のあとで、背後にテレビの軽薄なノイズを聞きながら一冊の写真集を開く。書名は「SAWADA」。沢田教一の写真を集めた大きく重い本だ。この高価な本をなぜ買ったのかは忘れてしまったが、たぶん沢田が好きだったのだと思う。奥付の2刷の日付は1999年になっている。私がアンコール通いを始めた頃だ。
写真という表現技術が生まれ、やがて写真機が小型化していき、ライカ判のカメラが登場するに至ってその機動性は大幅に向上した。戦場にカメラを持ち込むことが可能になったのである。そして戦場カメラマンが生まれた。この戦場カメラマンという職業は、ほとんど根源的で運命的な職業だ。死を「見る」ことが課せられた仕事なんてそうあるものではない。それも意思を持って、だ。戦場カメラマンという属性の前では、その国籍はあまり意味を持たない。撮った写真だけが重要で、撮った本人すら忘れられて写真の真実が一人歩きし始める。死の瀬戸際になるたけ長く留まり、強く世間にアピールする瞬間を切り取って、そして有名になるのだ。そして彼らは最終的に戦場で死ぬことによって自己完結する。
戦場カメラマンといえばキャパが有名で、彼もインドシナで死んだが、そういえば私はもう一冊の戦場カメラマンに関わる写真集を持っていた。ランダムハウスから出版された「REQUIEM」の日本語版である。この本は「ヴェトナム・カンボジア・ラオスの戦場に散った報道カメラマン遺作集」という副題が示す通り、欧米・日本のみならずアジア人、解放戦線のカメラマンをも含む多くの戦場カメラマンの作品を収めており、沢田の代表的な写真も含まれている。それらの作品の持つ事実のすごさは、見るたびにある種の虚脱感と自分の無力を私に味わせる。ああ、なんて平凡で安全で無為な人生を私は送ってきたのか、と。
ベトナムのフランスに対する独立戦争からカンボジア内戦の終末であるポル・ポトの死まで、インドシナは長い戦乱の中にあった。その時代、世界中から有名無名のカメラマンが集まり、沢田もそのひとりだった。無名だった沢田はベトナムで撮った写真で瞬く間に有名になり、いくらもたたない間にカンボジアで撃たれて死んだ。報道カメラマンとして認められ、生き、死ぬ。その全てがインドシナの地で展開された。その当時、職業として報道するというだけではなく、競争心と功名心とが多くの戦場カメラマンの心を捉えていたに違いない。そのこと自体、実に人間臭くほほえましい。
命を賭けて写真を撮って賞をもらって有名になる。そういう単純で真摯な動機のもとに、インドシナでは何人もの日本人カメラマンが死んだ。沢田の他に、カンボジアのアンコールで死んだ一ノ瀬泰造、ベトナムのユエ近くで死んだ峯弘道、ラオスで死んだ嶋元啓三郎などが有名だが、それ以外にも数名の日本人ジャーナリストが無名のまま死んでいる。1965年に世界報道写真展グランプリ、1966年に「安全への逃避」でピューリッツアー賞、死後にロバート・キャパ賞を取った沢田には写真の才能があり、取材の幸運に恵まれていたというべきだろう。
沢田は戦場カメラマンとしてのその短い人生の大半をベトナムで過ごした。沢田がUPIプノンペン支局で活動を始めたのが1970年8月で、その死は10月28日、タケオ州のチャンバク付近の国道2号線上である。クメール・ルージュによって殺害されたといわれている。ロバート・キャパ賞を取った写真はこの短いカンボジア滞在の間に撮影されたものだ。
言い古されたことばだが、やはり「死の誘惑」について考えないわけにはいかない。戦争を目撃するには、危険に身を晒さなければならない。あらゆる状況と同様、危険に関してもある種の学習が働き、慣れが生まれるものだ。危険の察知とか回避には一定の技術が必要で、その技術の未熟なものは容易に死ぬ。一方で、危険に慣れるにつれ、より危険に近づきたいという欲求も高まる。そうしてすこしづつ、死に近づいていく。戦場の死を予期しつも、本当のところは誰も知らない。
戦場カメラマンということばは、戦場が存在するという意味を内包している。どういうことかといえば、ある時期から、戦場(ないしは戦線)があいまいになっていったように見えるからだ。戦場カメラマンは後方で準備を整え、前線に向かった。今のわれわれにとって、戦争は遠い戦場を意味しない。今も古典的な戦場は存在するが、戦場は拡散し、あらゆる場所で不規則に現れたり消えたりするようになった。前線も後方もない。私が歩く東京の盛り場の午後が突然戦場になり、人々が撃たれて倒れる。それは白昼の夢ではなくて、いつ起こるかもしれない現実だ。戦場カメラマンという職業はスパイという職業と同様、国家間のパワーゲームの一時代を背景にした特異な存在であったのかも知れない。

(取材を終えて)
沢田サタさんはあと数年で80歳になる。大変に元気で闊達な方とお見受けした。現在は自宅で客をもてなすという面白いスタイルの「レストラン」をやっておられる。弘前市内の住宅地にあるサタさんのご自宅にうかがった日は、前日にかなり降ったという雪が残っていた。室内には沢田教一の思い出が写真集や賞状といったモノとして残されている。静かな室内でサタさんの語る私が会ったことのない戦場カメラマンの記憶は、死者を介在して我々が得ることのできるものの大きさについて、私に改めて考えさせた。私の死は誰かと誰かのコミュニケーションを媒介することができるだろうか。
(波田野)

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