41 ネット繰り返しの法則
       
 ネット人口は増加している。
 ニフティだけとってみても、会員数は五万を超えて急増しつづけているとい
うことだ。会員数が十万を超えるのはまもなくだろう。
 その先にどれほどの規模のネットワーク社会が待ち受けているのか、わたし
には想像もつかない。

 集団の規模が拡大してゆくと、いろいろな変化が起きるのは当然のことだ。
いまのネットが村社会だと言い切る自信はないけれど、規模が拡大してゆけば
「ネットの都市化」みたいな現象は起きるかもしれないし、ふるくからネット
にかかわってきたひとたちから見れば現在の状況だってすでに「都市化」して
いると言うだろう。

卑近な例をとってみると、こんなのがある。
 ネットではいろいろな質問をするひとがいる。
 かつて一度は質問があり、答えがあった同じ質問がまたまた出てくる。もち
ろん「またまた」と思うのは以前同じ質問があったことを覚えているひとたち
だけだ。最近ネットに加入したひとにとっては貴重な情報にちがいない。
 そうして、ネット人口が増加の一途をたどった場合、この「繰り返される質
問」というのは、どうなるのだろう?
 ネットの記録である「ログ」はいまだに情報の集積としての有効利用法がみ
つかっていない。だとすると、「同じ質問」はきりなく繰り返されるのだろう
か? そうなのかもしれない。それがネットの成長のあかしであるのはたしか
だが。

 議論のパターン化というのもある。
 ネット上での議論は、それほどユニークであるわけでもない。言い出すひと
があり、反対するひとがあり、ちゃかしを入れるひとや、ひとりで激高するひ
とがいる。仲裁に入るひとがあり、総括するひとがあり、終了宣言をするひと
がいる。
 ネット上ではじめて議論らしい議論に遭遇して、すこしでも発言したなら、
それは忘れられない体験になることだろう。議論ていうのはまるで格闘技みた
いだな、と思いながら。
 二度目の議論。自分のレベルが高くなったわけでも、あたまがよくなったわ
けでもないのに、なにか余裕みたいなものが生まれる。悪い余裕だ、そういう
のは。しかし、議論が繰り返されるたびに議論そのものよりも、その構造のほ
うに好奇心が湧くのをどうすることもできない。
 議論の内容も、同じようなテーマで同じような経過をたどる場合さえある。
こうなると、自分が歴史家になった気さえするぞ。

 そうしてネットへのアクセスを続けて、だんだんスレていくような気がする
けれど、しかし、これだけはスレたといえないもの。それは、絶対にひととの
出会いだと言い切れる。
 これに飽きたら、もうおわりだ。ネットにではなく、人間にさようなら。

89/06/07


42 書くひとへ、読むひとより
       
 (今回はちょっと趣向をかえて、フィクションです。)

 わたしがネットにアクセスしはじめてから何ヵ月か過ぎている。
 ほぼ毎日アクセスしている。おそらく熱心なネットワーカーといっていいと
思う。しかし、わたしは発言したことがない。

                 ○

 毎日アクセスしていると、よく見る名前は覚えてしまう。
 ほとんど親友並みに性格とか仕事とか、住んでいる場所とかも知っている場
合さえある。

 あ、あなた、またきょうも書いてるの。きょうのコメントは少し不調ですな
あ。しかし、言いたいことは伝わってくる。わかるよ、あなたの気持ち。
 気に入らない書込みの主もいる。あー、あいつの書込みを読むなんて時間と
金のムダだ。それなに、また書いてる。まだまだ論旨があいまいだよ。ほんと
に懲りないんだから。オレだったらあんな言い方はしない。

 これはわたしの個人的な見解だが、発言しないネットワーカーのほうが、思
慮深いのだと思う。
 わたしは発言しないけれど、発言は注意して読んでいる。興味のある部分は
プリントアウトしてきちんと綴じてある。
 言っておきたいのだが、わたしも会議には参加している。会議に参加して発
言を控えているといってもいい。
 つまらない書込みにはブーイングし、面白い書込みにはモニターの前で拍手
を送る。会議室ではいろんな話題が現れては消えてゆく。それがネットという
ものだ。わたしの前をスクロールしてゆく見知らぬひとたちの会話や議論に割
り込んだりはしないが、わたしもまた同じ流れに身をゆだねている。

 いつも会議室に書込みをしているひとたちにとっては、書込みなんて御茶の
子さいさいだろう。しかし、いまはなぜか書き込む気にならない。
 人間関係も場の雰囲気も、みんな出来上がっているように感じる。たまにな
にか言いたいと思っても、なにか場違いな気がして、迷っているうちに話題が
遠ざかる。
 ただし、こうは思う。出来上がっていない電子空間ってやつがあったら、わ
たしも突然書込みをはじめるかも知れない。そこでは誰でも平等だから。

 しかし、意識しすぎなのだろうか。ネットでの書込みなんて、雑誌の投書欄
くらいに思っておけばいいんだぞ、とささやく声も聞こえてはくるが。

                 ○

 というわけで、六月のある夜、いつものようにアクセスしながらのわたしの
ひとりごとは終わる。
 わたしがいつかどこかの会議室にメッセージを書き込む日が来るのかどうか
・・・わたしにもわかりはしない。
 でも、最初の書込みがひとつの出会いであり、なにかの始まりであるのは確
かだと、わたしも思う。
 それはいつなのか。ま、決してあせらない。

89/06/10


43 ネットは知のポトラッチ
       
 ネットでは、発信する作業は大切だと思う。
 発信とは、ようするに書き込むこと。
 そしてここが肝心なのだけど、発信すると自分の発言はもはや自分だけのも
のではない。たくさんのひとが読み、考え、反応し、共有する。
 どんなひとが読んでいるのかわからない。だから発言は読者を特定するわけ
にはいかない。読者に向けて発信するのではなく、自分と他人のあいだあたり
に向けて発信するような気がわたしはしている。

 発信ってなんだ。
 すくなくともなんらかの情報をふくむことが、ネットにおける発言に要求さ
れているんだな、と思いはじめている。
 情報といっても、別にたいしたものではない。
 技術的な情報やユニークな視点も大切ではあるが、雑談めいた書込みにも情
報が潜んでいるように感じることもある。だからネットにおける発言の情報性
というのは、情報の外観ではなくて本質に基づいているのだと思う。
 情報の本質とは、・・・よくわからない。
 しかし一次的な情報であれば、その発言には興味が持てるような気がする。
 ほんとに自分で感じたこと。自分が目で見たこと。事実。

 ネットは情報の宝庫だという言い方がある。
 潜んで情報を収集するひとや企業だってあるだろう。
 ネットのメリットのひとつが自分に役立ついろんな情報を得られることであ
ることは間違いない。自分が使っているコンピュータやワープロについての新
鮮な情報が飛び交い、そうした情報のシャワーを浴びているだけで自分のなか
に有益な情報が蓄積されていく気がする。
 「有益な情報」ということばの意味を拡大すれば、個人にとってはなんらか
の影響を自分にあたえる他人のことばすべてがそこにふくまれるだろう。では
どうやってそうした「有益な情報」を入手するのか?

 見知らぬ他人に向けて情報価値のある発言をすること。
 それが、自分が有益な情報を手に入れるための唯一の方法であるような気が
している。潜んで情報を搾取することはできる。でも、そうした情報は生きて
いるか?
 発信し、その対価としての新鮮な情報を受け取ること。そうした情報の授受
が繰り返され、相互に流通する情報の質が高まり、また量が増加してゆくこと
・・・これは、正確な言い方ではないけれど、「知のポトラッチ」と呼べるの
ではないか。

 かつて、宇宙空間に向けて電波を放つ実験計画があった。どこかにいるはず
の宇宙人に向けてメッセージを放とうというのだ。実験はおこなわれ、電波は
宇宙空間への長い旅に出た。
 われわれがネット上でメッセージを放つとき、応答を期待している相手は宇
宙人よりも確実に存在する。一見不確かな作業ではあるけれど、そのへんは楽
観しなければ生きてはいけない。読んでいるかもしれない他者への淡い期待を
捨てずに、無駄に終わるかも知れない発信作業をつづける夜は、結構冒険的で
あるとわたしは思う。

89/06/17


44 ノードとしてのわたし

 最近、ソニーのIT−V1200というミニホスト兼モデム電話を買った。 簡単にBBSを開局できるという点でおそらく革命的な機械だ。このちいさなパソコン通信センターは蓄えられたメッセージを遠くにある同機種に転送できるのだが、そうした機能はいままで抽象的にしか理解できなかった「ノード(結節点)」という概念を実感として教えてくれているような気がした。

 いくつものホストをつないだコンピュータネットワークと相似のかたちをとって、ネットワーカーの個人個人もまたネットワーク上のノードとして考え、情報を受信し発信しまた転送することができる。
 他人と交信しつつ他人を変え、また自分もゆるやかに変化してゆく存在でありつづけること。それができるなら、そのひとはノードとしての機能を果たすことができるだろう。

 ノードであるということは、情報をせき止めないということでもある。
 情報の独占と秘匿とはまったく遠いところに、ノードの概念はある。情報の自由な通過を許すこと。しかし、これは意外にむずかしい。

 電子ネットワークと個人との関係を考えてみると、いくつかの図式が浮かびあがる。
 受信して、受信した内容を自分の中で消化し操作して別のものを作り出すような作業をする。
 頻繁に発信し、貪欲(どんよく)に受信し消化する。
 受信よりも発信に熱心で、受信した内容の消化をおろそかにしている。
 受信ばかりで、しかも受信した内容を未消化のままにしている。
 まだまだあるかもしれない。しかしどちらにしても、自らがノードであるためには少なくとも受信と発信のふたつの作業を日常的におこなわなければならない。

 ノードでありつづけることは、実際のところ大変だ。
 なにしろ、多量の情報(というよりもおしゃべり?)がノードである個人の頭脳を通過するのだから。
 いつもアクセスしていることも必要だ。
 本来の意味から言えば、線路上のポイントみたいなもので、ただノードでありさえすればいい。しかし、このノードは人間だからそうはいかない。いやな情報には目をおおいたくなるし、ひとのうわさには尾ひれをつけたくなる。まあ言ってみればかなりインチキなノードではある。

 ノードである個人の目に見える電子ネットワークは、自分自身から他人に向けて伸びる数えきれないほどの数のコミュニケーションの糸だ。
 その糸を伝わって、情報や感情や体験や思想や冗談や挨拶や、ありとあらゆるひとの営みがやってくる。自分もまたそれらに対して反応し、共感したり反発したりする。すこしの時差があるけれど、今度はそうして取り込んだものを吐き出すことになる。
 ノードとしての個人はすごい速さで情報を交換する。思考が加速され、結論が一挙に近づく。その思考のかたちは、基本的に「他人の思考との往復」だ。じぶんが考えたことをひとの考えとぶつける。意見は違っていたり一致したりする。また考える。そして発信する。
 どっちにしても、他人と対峙(たいじ)するかたくなな観念であることをやめた時が「ノード(結節点)としてのわたし」のはじまりだ。

89/06/30


45 パラダイム・シフト

 先日、「パソコン通信」についての説明会に行った。
 主に企業にとって「パソコン通信」とはなにか、普及させるにはどうしたらいいかといった観点からの講演だった。
 講演したのはわたしがネットを通じて面識を持った方で、著名なネットワーカーであると同時に企業に「パソコン通信」をはじめとする非音声系通信サービスを普及させようとしているビジネスマンでもある。
 手慣れてわかりやすい講演だった。同行したネットワーカー仲間も決して退屈していなかったし、わたし自身はいままであまり理屈っぽく考えたこともなかったネットワーク社会の鳥瞰図(ちょうかんず)を見たようでなかなか楽しい時間だった。
 講演の中でのキーワードは「パラダイム・シフト」だった。
 電子ネットワークおよびそれによって実現される社会がまったくあたらしいものであり、価値観の転換なくしては実現できない、という主張である。
 たしかに、「知の枠組みの変換」や「社会構造の枠組みの転換」の場にわれわれが立ち会っているのだという自覚は、ちょっとゾクゾクさせるものがあった。
 しかし一方で、よくこなれたユーモアもある講演が「パソコン通信」を知らない聴衆にどれだけインパクトを与えたか、どれだけ「パソコン通信」によって垣間見られるネットワーク社会を具体的に理解させたかといえば、やはり疑問が残った。

 電子ネットワークによるコミュニケーションについては、解説書を読んでもわかりにくい。
 むしろ説明しようとすればするほど、わかりやすく説明しようとすればするほど、わかりにくくなっていくように思える。
 知っている(体験している)ひとには理解できるが、体験していないひとには多くのことばを費やしても理解させることがむずかしい。・・・これはあたらしいことが始まっている証(あかし)ではないか。

 われわれが通信について知らないひとに話すとき、とても熱心に話しているのにもかたかわらず冷たい反応が返ってくることがある。
 自分が理解していて、楽しくてしかたがないことを相手が理解してくれないもどかしさ。
 こちらが熱くなればなるほど相手が冷めていく、蟻地獄みたいな構造。
 電子ネットワーキングに夢中になると、だれでもそんな事態に出くわすことだろう。
 われわれ自身は電子ネットワークについて論ずるよりも前に電子ネットワークの中で雑談し冗談を言い合い、たまには真面目に議論する。
 ここにはまず実践があり、その実践そのものが言ってみれば伝説の時代を創りつつある。
 やがて電子ネットワークはあたりまえになり、誰もそのことについて熱くなって語ることのない時代がくるのだろう。
 だとすれば、今のように熱中できる時代というのは、願ってもない幸運だ。 西部開拓のころみたいに、そこに集まったひとたちがいろいろなことを決めたり、インディアンの襲撃に備えたり、勝手に砦をつくったり柵をはりめぐらせて土地の所有権を主張したりする、そんな時代だ、いまは。
 こんな時代は長く続くはずがない、だからしっかり楽しんでおく。

 ・・・著名なネットワーカーであると同時に「パソコン通信」を企業に普及させようとしている企業のトップであるスピーカーが演壇を降りる。
 彼の姿はまるで宣教師のように見えていた。

89/08/11


46 シスオペはつらいよ

 電子ネットワークの中での特徴ある役割として、システムオペレータ(略してシスオペ)あるいはモデレーターというのがある。(電子会議の)議長と呼ぶ場合もある。これらの役割は同じではないが、いずれにしてもコミュニケーションの場を維持管理し、そこでの議論や情報交換が円滑にすすむようさまざまな気配りをする立場だと言える。

 ここではシスオペと呼ぶことにするが、シスオペのしごとは一言でいって実に大変だと思う。
 朝から晩まで会議室の発言状況を見ていて、コメントをつけたり反論したり新しいメンバーには歓迎メッセージを書いたりする。
 質問の電子メールがくれば返事をしなければならないし、会議室が低調ならみなが興味を持つ話題を探しだして発言のきっかけをつくったり盛り上げたりしようと試みる。
 いわばシスオペは休暇のないコンビニエンスストアの店長みたいなもので、1日24時間1年365日勤務である。いまはまだ深夜から早朝にかけての休止があるけれども、ネットは近いうちに不眠のコミュニケーションチャンスを提供するようになるだろう。

 シスオペということばにはシステムの管理人のような印象があるけれど、ネット上では単にシステムの管理にとどまらず強い権限を持っている。
 アクセスするメンバーの発言を削除することができるし、コミュニケーションの場の雰囲気やコミュニケーションの形態などあらゆるところに自分の意思を反映させることができる。
 いわば三権をひとりで握る権力者であると言える。

 しかし一方このネット上の権力者は、アクセスするメンバーに強制力を持つことがむずかしい。
 シスオペが常にプレゼンテーションしている電子会議の運営方法や議論の流れへの介入のしかた、彼自身の性格や思想などはアクセスする側から常にチェックを受けているといってもいい。
 これは結構しんどい。
 シスオペのやりかたが気にいらないと、アクセスをやめるメンバーが現れるだろうし、糾弾発言だってないとは限らない。
 そう考えると、このネット上の権力者は意外に弱気なのかも知れない。
 それではシスオペなんて苦労ばかりでなんの見返りもないかといえばそんなこともないだろう。
 わたしの想像では、シスオペのひそかな楽しみは自分の小世界をつくってその小世界の変転を見続けることではないかと思う。

 現在の大型商用ネットのシスオペは、ボランティアとして自分の自由時間の大半を費やしてシスオペ業務にあたっているに違いない。
 シスオペの大部分はアクティなメンバーがシスオペとなったものであり、一般会員との距離は近いといっていいだろう。
 シスオペもアマチュアだから、電子ネットワーク上の電子会議の雰囲気というのもまだそれほど厳しくはない。
 シスオペはまだ職業として認知されてはいないが、ネット人口が増加していけばやがてプロのシスオペが登場するだろう。
 そのとき、電子ネットワーク上のコミュニケーションの場もまた変質していくに違いない。プロのシスオペに対する要求はより厳しくなっていくだろう。それに対してシスオペの管理手法がより強力になっていくような状況を今はあまり考えたくはない。

89/08/20


47 はやおきネット

 アクセスの時間帯を朝にかえた。
 早朝、眠い目をこすりながらモデムのスイッチを入れ、オアシスを起動して一日がはじまる。
 電子メールを読み、ホームパーティを巡回し、いくつかの会議室に行って深夜に書き込まれた発言を一気に読む。
 終わってしまったパーティに遅れて行ってもう誰もいない会場にひとりでいるような感じがすることもある早朝アクセスが、なぜか気に入っている。

 理由はいくつかあるけど、アクセスするひとがすくないのでシステムが軽くて気分よくアクセスできるのがひとつ。
 深夜の、亀のようなカーソルの動きについて行くのはつらい。
 また隠れた理由としては、すこし「外して」ネットを見てみたい、ということもあるのではないかと思っている。

 電子ネットワーク上のコミュニケーションは、深夜のパーティみたいにも見える。
 すくなくとも、外からネットを見た場合、深夜ひとり部屋にこもって密かにおこなう奇妙な趣味だと思われているに違いない。
 ネットを知らないひとたちから見ると、これは異様な光景だ。
 そして、多くのネットワーカーにとって、やはり夜が活動の時間であるのは確かだ。しごとを終えて帰宅し、夕食を終え、テレビを見て、家族が寝静まったあとでおもむろにモデムのスイッチをいれて深夜のパーティに出ていくひとたちは、こころだけが電子空間に遊んでいると言っていいのだろうか。

  夜11時を過ぎると、ネット上を行き来するひとの影が濃くなり、緑色のCRT上に喧騒の雰囲気が感じられる。
 深夜零時を回ればあちこちのフォーラムではリアルタイム会議に熱中するひとの数が増えパーティはピークに達する。
 あるフォーラムにいて、いろんなひとが来ては出ていくのを見ている・・・そこで白熱した議論が行われているのなら、書き込まれた発言をほぼリアルタイムで読むことができたり、対立しているふたりが同時に同じフォーラム内にいるなどというスリリングな(?)体験をすることもできる。
 SENDメッセージが飛び交う深夜は、リアルタイム・ネットワーキングのゴールデンアワーであるといえる。

 深夜にばかり育つたぐいの思いつきがある。
 いい思いつきがあるかわりに、へんにふくらみすぎた想像力やひとりで育てた誤解もある。深夜の魔界のなせるわざだ。
 こころがたかぶりすぎないように、キーボードを叩く指が昂揚しすぎないように・・・発せられたことばは取返しがつかないことだってあるのだから。

 一方、早朝のアクセスはなんとなく醒めている。
 深夜まで BYE を入力せずに書込みやチャットをつづけ、システムが束の間の眠りにつく瞬間を見届けてから自分もようやく眠ろうとしていたひとたち、彼らは今はまだ眠り続けているに違いない。
 わたしのアクセスのはじまりは彼らの眠りの上を飛び越して、彼らがさっき過ぎてきたばかりの過去へとわたしを運ぶ。

89/08/26


48 場を捨てよ、電子空間に旅立て


 電子会議型コミュニケーションの場には寿命があると思っている。

 電子会議はひとの集まる場であり、そこではひとの集合離散が激しい。
 ほんとうの広場の討論のように、聴衆すらとどまらない。ひとはやって来ては議論したり情報を交換したりする。喧嘩したり冗談を言い合ったりする。しかし、ひとつの場の雰囲気というのはそんなに長く続かない。

 場の雰囲気はそこに集まるひとによってつくられる。そこにいるひとたちが相互に影響しあって雰囲気をつくる。
 更に、集まったひとの気分や欲求などによって微妙に変化する。同じ顔触れが集まっても、雰囲気はいつも同じではない。とても流動的だ。
 そうして相互に影響しあいながら流れていく電子会議の時間というのは一般の社会を流れる時間よりもきわめてはやいから、電子会議というのは「老いやすいコミュニケーションスタイル」だと言うことができるだろう。

 ひとつの場ができる。すこしづつひとが集まってきてコミュニケーションがはじまる。大きな声で話すひとがいる。まとめ役を買ってでようというひと。ひとの話も聞かずにひとりで演説しているひと。ケンカや議論。賞賛と非難。 やがて場は次第に成熟してゆく。常連とも言うべきひとびとができ、雰囲気が固定化し、特殊な言い回しや隠語のようなものが横行するようになる。
 ここまでは別に電子会議型コミュニケーションの終焉(しゅうえん)を意味しない。しかし、それらの現象は場の閉塞の原因にはなり得るだろう。
 場のタコツボ化、自家中毒現象・・・それらはまだマシな場であることの照明だ。そうでなければ単に空洞化し、書込みが減り、無人の廃墟みたいになっていくだけだろう。
 前にも書いたけれど、場の維持のためには植木に水をやりつづけるような細心の注意が必要であるように思われる。

 ある場が、寿命の最後の段階を迎えたように思える瞬間がくる。
 それでも尚、場を維持しようとするひともいるかも知れない。しかしわたしは思うのだが、まだ電子ネットワークにおいて、一度作り上げたコミュニケーションの場を守り維持することにそんなに意味があるのだろうか?

 現在の電子ネットワークにおいては、まだ「はじめて」物語があっていい。 いろんな実験をつづけて、成功したり失敗したりする。それでいい。
 コミュニケーションの場としての電子会議(フォーラム)についていえば、はじめから有期限のコミュニケーション・チャンスはより大きなインパクトを参加者に与えるはずだ。
 この場は一年たてば閉鎖します・・・そういって始めた電子コミュニケーションの日々は、忘れられないものになるだろう。
 みんな一度手に入れた環境を手放すのはいやなものだ。
 冗談の言い合える友人、真剣に議論できる雰囲気、貴重な情報を提供してくれる先輩たち。

 一度得た快適で安心できる環境を捨てること。そしてあたらしい環境、あたらしい友人たちを作り出すために再び電子ネットワークの放浪の旅に出ること・・・これは電子ネットワーク上のコミュニケーションの神髄を味わう為には必須の方法論のように思えるのだが。

89/09/14


49 場にとどまり、大樹を育てよ

 ほぼ一年前、このフォーラムをつくろうという動きがオアシスフォーラムで起こったとき、ハラハラドキドキの毎日だった。
 大勢の顔も見たこともないひとたちが会議室への発言だけで議論し、新しいフォーラムをつくるための話し合いをしていた。
 そうして数ヵ月が過ぎて新フォーラムを開設する朝の静かな興奮は忘れることができない。
 あのときのハラハラドキドキをまた体験してみたい。それは危険な誘惑だろうか。

 電子ネットワーク上のコミュニケーションの場というものは、常に沈滞の危険をはらんでいる。
 アクティブなネットワーカーは回遊性を持つようで、そのとき面白い場を求めてさまよっている。アクティブでないひとでも、面白い場とそうでない場があれば自然に選択の意思が働くだろう。
 面白いもので、書込みの質と量の低下はすぐにはフォーラムへのアクセス量を減らすことはない。しかし、多少のタイムラグとともに低迷の時期がやってくる。そうすると、今度は簡単に賑やかにはならない。いろいろな企画を具体化したりしても、効果が出てくるのはこれもタイムラグを伴っている。

 ハラハラとドキドキ。わたしがネットにアクセスする理由のひとつは、これだ。確かにネットは新鮮な情報を提供してくれたり、たくさんのひとと知り合わせてくれたりする。しかし、どちらにしてもハラハラとドキドキがキーワードになっているように思う。
 では、ハラハラとドキドキが失われつつあると感じたらどうするか?
 フォーラムを解体し、虚空に放ってやってもいい。
 しかし、もうひとつの選択肢がある。

 場を維持する力は地味で目立ちにくくしかも持続を求められる。しかも、失敗すれば目立つ。
 それにもかかわらず、持続する試みを選択する方法もある。
 集中的で過激な力ではなく持続的で安定した力がなにをなし得るか。これもまた実験といえる。
 そして、おそらく「持続的で安定した力」などはなく、持続もまた不安定な力の微妙なコントロールの結果として現れるのではないだろうか。

 フォーラムはひとが通り過ぎる場である。
 ひとはかわり、場の雰囲気は変転する。場を提供する側が取り残されることもあるし、通過するひとびとが持続すべき場の概念を壊していくこともあり得る。こわれやすい空間。
 そうしたこわれやすい空間の維持は、破壊と再創造よりもむずかしいかも知れない。

 いずれにせよ、場の有り様はそこに留まるひとたちの意思に依存する。
 どんなかたちにせよ、意思が場をデザインし、維持し、変革する。
 老いやすい電子空間で日々を過ごし、意思を持続させ変革しつづけること! すごい冒険だ。

89/09/28


50 ひとを理解するための百の方法


 ネット上でのコミュニケーション手段を数え上げてみると、意外に多様であるのに改めて気がつく。

 電子ネットワーク上ではいろいろなテーマで電子会議が行われており、誰でも発言することができる。
 電子会議の他には掲示板があって、ここも自由な利用が可能だ。
 電子会議にはリアルタイム会議と呼ばれる会議室も設定されていて、タイピングによるほんとのリアルタイム会議(というか、おしゃべり)ができる。
 リアルタイム会議には複数が参加できるが、SENDメッセージなら特定のひとりに秘密のメッセージだって強制的に送り込むことができる。
 ホームパーティを設定すれば、何人かで内輪の相談をすることもできる。
 電子会議とは別に電子メールがあって、通常の手紙と同様に相手の電子メールボックスに投函することができる。
 電子メールは第三者に転送することもできるし、同時に複数のひとに同じ内容の文書を送り出すこともできる。
 ワープロやパソコンで作成した文書は、ネットにアクセスしないがファックスは持っているひとにでもネット経由で送ることができる。
 同様に相手の持っているポケットベルにもメッセージを送ることができる。 そしてもちろん、電子ネットワークに参加しているひとは、直接会って話をすることができる。

 そして、それぞれのコミュニケーション手段の基本的な属性を拡張して、更に多様な可能性を追求することもできる。
 たとえば会議室にほぼリアルタイムで書き込んで低速のチャットをすることもできる。メールでだって可能だ。
 会議とか掲示板とか名前がついていても、実際には硬軟ありとあらるコミュニケーションの可能性が内在している。
 これだけの多様なコミュニケーションのスタイルを駆使して、その先になにが見えるのか?

 ネットにアクセスするひとは信じられないほどのコミュニケーション密度を獲得することができる。
 かりに自分と相手が同じ(頻繁な)アクセス頻度を維持するなら、しごとであれ趣味であれ信じられないほどの速度ですすんでいくのがわかるだろう。
 三日あればひとが出会って恋愛して別れることができるくらいだ。
 また、それぞれの手段はそれぞれの雰囲気を持つ。
 会議室ならたくさんのひとが見ているというある種の緊張感があるし、仲間うちだけのホームパーティならえんえんとおしゃべりを書込みつづけても誰も文句は言わない。
 そうした多様なコミュニケーション手段を目的と気分にあわせて組み合わせて作り上げるコミュニケーション環境の全体は、いままで見たこともないほど豊かであり得る。

 「パソコン通信」とか「電子ネットワーク」とかさまざまに呼ばれてまだ名前すら定かでないわれわれの共有空間はやがてコミュニケーションのための当たり前の社会的基盤になっていくだろう。
 そして、われわれが今現在見ている電子空間がより便利により確実なものになっていく過程で、あらゆるこころみにかならず潜む果てしない夢はしぼみ、権威が生まれて自己増殖をはじめ、ボランティアスピリットみたいなものも変質していくに違いない。

 いまが電子ネットワークにとって「素晴らしい時間」なのかどうかはわたしにはわからない。もっとふるくから電子ネットワークにかかわってきたひとたちは、商用大型ネットワークの出現以前の草の原こそが本当の意味で「素晴らしい時間」だったと言うかもしれないし、あと何年してもその時々でいまが最も「素晴らしい時間」だと言い張るひとがいることしても不思議ではない。
 仮にそうであるならば、電子ネットワークが日々更新され生まれかわってより高度に変質していることの証と思っていいだろう。

 電子コミュニケーションの未開の沃野は、自己と他者とのコミュニケーションのこころみの沃野でもある。
 手段は提供された。
 あとは、ひとだ。
 誰とどんなコミュニケーションをこころみるか。そこからはもはやシステムに依存することはできない。
 いろいろなひととの出会いや別れ。かぞえきれないほどの個性との遭遇。それこそが電子ネットワーク上でネットワーカーが出会う最大のドラマではないだろうか。

89/09/30


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