31 古瀬幸広さんのこと

 あるとき電話が鳴って、受話器をとると聞き慣れない声が聞こえてきた。そ
れが古瀬幸広さんだった。
 前世代のような前置きもなしに、話題は核心へと一挙に迫る。
 軽いフットワーク!
 わたしは鈍重な恐竜が哺乳類に出会ったときのように驚き軽いめまいさえ感
じていた。
 彼がそのときオフラインに誘ってくれなかったら、多分わたしはいまだにオ
フラインと呼ばれるネットワーカーの集まりに出たこともなく、あまり書込み
をすることもなしにアクセスを続けていただろうと思う。
 いろんなことにきっかけというものがあるけれど、ネット再発見の理由のひ
とつは彼だったように思う。

 あるネットで書込みをつづけていたものの、いまひとつ燃えなかった。
 ヨーロッパへの長期の旅行に出て、帰って来てみるとなんとなく意欲が失せ
ていて、それから数ヵ月間はリードオンリーの生活だった。
 その頃彼と出会った。
 その後、ネットでの友人関係は急に広がっていったが、彼が(結果的に)引
き合わせてくれたひとたちも多いことに最近になって改めて気がついた。

 彼はわたしよりひとまわりも年下だが、そんなことは普段あまり考えたこと
もなくて、ただただ彼の見識に感心したり情報収集能力に驚いたりしている。
 わたしのほうがずっとこどもだと感じるときもある。
 評論に優れ、ファンも多いが、そのために敵ができるのは世の定めだ。
 知識と知性が青くない。
 少年ぽさとしたたかさ、理想の追求と現実の理解が同居している。
 相反する要素を兼ね備え、そのアンコントロールに身を委ねるひとはときと
して魅力的だ。

 彼を見ていると、人生にもマーケティングというものがあるな、と思う。
 ワープロやパソコンの世界はまだ幼くて、既成のジャーナリズムもこの分野
にはうとい。そうした間隙をついて、急成長を続けるパーソナルOA分野でい
ちはやく評論活動を開始し、ペーパーメディアを得て、電子メディアとの連携
を試みた。

 彼が七十才になるのは二十一世紀の三分の一が過ぎようとしている頃だ、と
考えるとき、目のくらむような技術の進歩に対する彼の優位性は彼自身の年令
である、とわたしは信じてしまう。
 なぜなら技術の進歩に関して言えば、現代に十年余計に生きるということは
今世紀のはじめに五〇年余計に生きることであったかも知れず、更に前の時代
にはそれこそ何百年に匹敵するだろうから。
 そうして七十才になった彼がどんな場所でどんなことをしているのか、でき
たら見てみたいものだと思っている。

 人間には寿命があり、八百年生きて時代の変遷を見守ることはできない。し
かしわたしはときどき思う、コンピュータの出現によって変わる世界の有り様
を見届けてみたい。始皇帝が不死の薬を求めたのは永劫の権力を願ったためだ
ろうが、わたしは百年後二百年後の世界がコンピュータによってどう変わるか
が見たいのだ。
 そう、彼のほうが未来に近い。そんなことを言うわたしは老人のようだが、
そう言わせるのはわたしの中の老人ではなくて単なる嫉妬だ。彼の方が(単純
計算すると)十年以上余計にコンピュータとつきあえるのだから!

89/04/07


32 電子ネットはおかねがかかる?

 電子ネットワークに加入してから、わが家の電話料金は十倍になった。
 電話代のことでもはや怒られる立場ではない。わたしがいいといえばいいの
だ。そうは言っても、請求書が来るたびに懺悔(ざんげ)の気持ちが起こるの
を否定することはできない。
 長電話にはある種の罪悪感がある。昔から長電話をしているとはやく切れと
怒られた。それは電話代がかかるからというだけではなく「むやみに使っては
いけないもの」だからだったように思う。それはある種の倫理とか道徳みたい
でもあった。
 それがいまではどうだ。それこそ湯水のように電話を使い、電話漬けになっ
ている。はじめの何ヵ月かは電話代の請求に驚いたが、いまでは何も感じなく
なっている。

 電話代だけではない。アクセスにかかる費用は、東京都内に住んで直通でア
クセスしているわたしにとっては電話代よりも高い。
 アクセス料金というのはいわば新しい概念だ。酒を飲みに行ってこれだけ使
ったというのはわかりやすいけれど、「ネットにアクセスしてこれだけの金額
を使った」というのは知らないひとには実に説明しにくい出費だと思う。
 ネットへのアクセス中、一分ごとに十円玉が落ちてゆく。はじめのうちは、
その落ちてゆく音が聞こえていた。気が急いてもいた。しかし、これもやがて
聞こえなくなった。

 日常的なコミュニケーションの費用としては、いまの電子ネットワークへの
アクセス料金は高い。しかし、日常の枠をぬけ出したコミュニケーションの創
出のための費用と考えるとこれは安い。
 趣味と考えると、決して高いものではない。しかし、時間の浪費という意味
ではずいぶん高くつく。
 個人にとっての情報価値のみを求めた場合、この新しいメディアはいまだ割
高で効率が悪い。極私的な発見や刺激が得られるのなら、考えようによっては
安い投資だ。
 わたしとしては、「メディア・シャワー・ルーム」としての電子ネットワー
クの利用代金は決して高くないし、特に商用ネットワークの場合は料金が安す
ぎないことも必要だと思っている。
 電話代はかぎりなく安く、アクセス料金はサービスに応じて・・・というの
が、いまのわたしの希望である。

 現在の電子ネットワークにアクセスするひとは、意識するしないにかかわら
ず或る目的を持っている。その目的は実に多種多様であるはずだ。
 同じ電子空間にアクセスしながら、見たいもの見ているものがまったく違っ
ているかも知れず、それがまたこの空間を面白くしている。
 高い安いの意識も、そのひとの関わり方や得るものの質や量によって大きく
異なってくるだろう。
 新しく出現した費用だから、ひとによって比較するものが違う。ひとりひと
りが違うものと比較して納得したり不当に高いと憤慨したりしている。
 あるひとは本代を削ってアクセスしているかもしれない。飲み代をアクセス
費用に回しているひとや、食費を回しているひとだっているかも知れない。
 ネットにかかわる前とあとで、どの出費が変化したかを見ると、そのひとに
とってネットが何であるかがの手掛かりが得られるかもしれないと思う。
 ちなみにわたしの場合は飲み代がアクセス費用に化けた。

89/04/13


33 わたしはプロフィール愛好家

       
 もうずいぶんたくさんのひとのIDナンバーをおぼえてしまった。
 IDを見るだけでそのひとを見ているような気がするほどだ。
 見知らぬIDを見ると、すぐに PROF コマンドを打ち込んでしまう。すると
いろんな「自己紹介」が出てくる。
 しゃれた一行だけの自己紹介があるかと思えば長文で住所や電話番号まで書
いているひともいる。いたずらをしかけているひともいる。プロフィールを登
録していないひとがいると、ちょっとさびしい感じがする。

 プロフィールに対する態度は両極端であるようだ。
 書かないひとは別として、書く人はプロフィールを不特定多数へのくわしい
自己紹介と考えているひとと、短い文章で最低限の情報を提供しようとするひ
とに分かれてる。後者はベテランに多いかもしれない。

 だれでも、はじめてのひとたちに会うときは自己紹介をする。
 自分の生まれた土地のこととか趣味とかを話して、親しみを持ってもらおう
とする。あるいは自分の学歴やキャリアをアピールして、自分を認めてもらお
うとする。
 いずれにしても、自己紹介は世間一般では果てしなく繰り返される儀式では
ある。

 一方、電子ネットワーク上ではまだ自己紹介は約束事になってはいないよう
である。
 現在の電子ネットワーク上では、匿名性に魅力を感じているひともいるしプ
ライバシーの公開に慎重なひともいる。ただ単に自己紹介がめんどうだと言う
ひともいるだろう。議論に参加したいのではなく、のぞき見したいというひと
もいるかもしれない。
 そういったいろんな考え方のひとを、電子ネットワークは特に制約を設けず
に受け入れてきている。
 実名登録もそうだが、プロフィールを通じての自己紹介には反発するひとも
いる。そして実名登録やプロフィール登録に対する態度がそのひとの電子ネッ
トワークに対する態度であると言ってはいいすぎだろうか。

 電子ネットワーク上のある会議(あるいはフォーラムあるいはSIG)に行
ってみて、居心地がよさそうだと思ったり役にたちそうな情報があると思える
ならば、そこに居座りたくなるものだ。
 ここで自己紹介をするかどうかはひとりひとりに委ねられている。だれも強
制はしない・・・自己紹介などせずに会議室のログをえんえんとダウンロード
した上でじっくりと読んでもいい。発言せずに画面をみつめ、面白い発言に声
を立てずに笑ってもいい。
 いわばどんなスタイルだって許されている。
 しかし、見知らぬひととコミュニケートしてみたいと思いはじめたら・・・
自分のことをすこしでも晒してみる必要があるだろう。
 その場合、プロフィールが登録してあれば、基本的には自己紹介をしたと言
っていい。もちろん会議室で発言して「こんにちは」と言うのがそこに溶け込
む早道ではある。
 わたしのプロフィールは六十行もあってひんしゅくを買っている。自己紹介
というのは、文章のなかにやはりそのひとの人柄がにじみ出てくる。見知らぬ
ひとと新しいコミュニケーションを生むきっかけになるような、そんなプロフ
ィールを書きたいものだといつも思っているのだが。

89/04/14


34 ネットワーカーの肖像

 オフラインに集まったひとたちを見ながら、いつも考える。
 年も職業もばらばら。目をこらしてみても、共通項は見つけられない。
 ネットワーカーって、どういうひとたちか?

 外見からはそのひとがネットワーカーかどうかはわからない。
 概してファッショナブルとは言えない。服装にはどちらかというと無頓着。
 字がへた。しかしみんな字がへたになりつつあるから、ネットワーカーが特
に字がへたとは言えない。
 ネクラの人嫌い型もいなくはないだろうが、わたしはあまりおめにかかった
ことがない。むしろふつうのひとが多いように思う。
 しかしそうした印象とは別に、やはり「ある特殊な、変わった」ひとたちだ
という感慨も否定することができない。

 おとなになりきったひとがいるのかどうかはわからない。だが、ネットでみ
かけるひとたちというのは、どちらかというと「おとなとこどもの中間」にい
るように見える。
 電子ネットワークでは、年令にほぼ関係なく、しかも会ったこともないひと
とも「親しい仲間」の関係ができていくそうしたとき、ネットにおけるコミュ
ニケーションは、子供っぽい「遊び仲間の関係」を模して電子空間の抜け穴を
くぐり塀を乗り越えて縦横に走る!

 もう決して若くないひとたちにとっては、ネットは「若返りの妙薬」でもあ
る。
 自分の年令を気にするひとにはやりきれない時もあるだろう。
 でも年令が若くないことをあまり意識せずにネットでの交友を重ねるなら、
年を経て自分が負って来た甲羅のようなものが溶けてなくなるような気がする
かも知れない。
 実年令にかかわりなく、なんらかの若さを保ったひとにネット上でのコミュ
ニケーションの扉は大きく開かれているし、またなんらかの若さを与えてくれ
るように思える。

 「わかい老人」と同時に「老いた青年」に会うこともできる。
 実年令が若くとも若さを感じられないひとに出会うと、もう若くないわたし
はある反発を感じると同時に、自分はどうだったかと軽い後悔の苦みも味わう
・・・

 ネットワーカーは、短い時間に遠く旅してきたひとたちでもある。
 一年前のことですら、懐かしまれる過去だ。
 彼らはネット以前とネット以後で自分が変わったと自覚している。
 アクティブなネットワーカーには、電子ネットワーキングによって生活が変
わり思考と行動の様式が変化してゆく例が多い。
 いまだかつて体験したことのない電光石火のコミュニケーション、会ったこ
ともないひとたちとの密度の濃い会話、時間と空間と疎外感の克服、よろこび
と失望、ありとあらゆる感情と知性が詰まったワンダーランド。
 つまり電子ネットワーキング自体、個人の取り組み方次第では単なる趣味以
上のものになる可能性を秘めているということだ。わたし自身も趣味を聞かれ
て「電子ネットワーキング」と答える勇気はない。
 趣味でないとすれば、ではいったい何か?

 わたしの実感として言えば、「電子ネットワーキング」とは或る種のライフ
スタイルなのだと思う。情報社会の変貌に対してひとりの個人がとり得る態度
のひとつだ。それも決して消極的ではない。しかし、では積極的かと言われる
と、あまり強く肯定もできないのがつらいところではある。

89/04/23


35 ワープロ原器としてのオアシス

 なぜオアシスが気にいっているのかと考えてみた。
 いろいろ考えた末にオアシスに決め、その後はオアシス一辺倒なので他の機
種についての知識はさっぱりだし、オアシスに決して満足しているわけではな
いのだが、前々からオアシスという文書作成システムに対して感じていたこと
をあらわすことばが見つかった。
 それは「オアシスはワープロの原器である」。

 新しい概念がかたちとなって現れると、それはすばらしい事件だ。
 ウルライカ(最初のライカ)が作られたとき、ライカが見習うべき先行者は
いなかった。ライカの設計者は自分の想像力を最大限に発揮して設計に打ち込
んだだろう。最初にオアシスを設計した技術者たちも、細部にわたる想像力を
試されつつ作業をすすめたに違いない。
 ・・・ゆりかごの中で声を上げようとする或る概念がある。それにどんな名
前をつけたらいいか? どんなかたちを与えたらいいか? そうした瞬間に立
ち会うことは、どんなしごとでも最高のよろこびだ。

 キーボードを叩いて文章を作り、自在に修正し、フロッピーにその記録をた
くわえて何回でも再利用できる、いままでなかった機械。それをつくるとき、
技術者は新しいひとつの世界を創造する神様みたいなものだ。彼らのひとつの
議論、ひとつの工夫、ちょっとした気紛れがその後の何万というユーザーの環
境を定め、よろこばせたりうんざりさせたりする。
 だから、創造的な技術者たちは「無邪気な神々」であると言っていい。
 いずれにしても初めてワープロという道具を作り出す作業に内在していた熱
気や冒険や新しい世界を作り出そうとする試みの歴史が、一貫した「オアシス
環境」を作り出している。「ワープロ原器としてのオアシス」の魅力はそこに
あるとわたしは思っている。

 創造の熱気というものはいつまでも続きはしない。
 やがて成熟と倦怠のときがやってくる。
 創造のエネルギーは維持のそれへと方向をかえねばならない。はじめは誰も
がはっきりとわかっていた目的や構想もやがて巨大化するシステムのはざまで
見失われがちになる。
 一ユーザーであるわたしには大それたことを言う根拠もないけれど、「現状
を創造的に乗り越えること」をひとつの目標にするならば「第二の草創期」が
やって来ないとも限らないと、一般論として思っている。
 ライカは電子技術を満載し量産技術に長じた日本のカメラに破れ、稀少なメ
カニカルカメラに徹することで生き延びようとしている。
 オアシスには、そうした「誇りある撤退」の道を歩んでほしくない。
 ワープロの長い歴史はさっき始まったばかりである。

89/05/02


36 毎日アクセスの功罪
       
 結論から言えば、現在の電子ネットワークというものは実に手間のかかるメ
ディアである。
 ネット上でコミュニケーションを続けるためには頻繁にアクセスしなければ
ならない。電子メールも電子会議も、時と場合によっては何時間というような
単位で状況が推移していくから、一日一回のアクセスでも少ないようなことが
ままある。

 一方、毎日のアクセスが可能なひとは決して多くないだろう。
 週末の夜、えんえんとセンターをコールして何十回も BUSY の文字を見続け
た末にかろうじて接続し、ようやく一週間分の未読を流し読みするのが精一杯
だというひとの方が普通だと思う。
 毎日三回も四回も接続して会議の推移に一喜一憂しているような連中、そこ
にはわたしもふくまれるのだが、彼らを基準にすべきではないのだ。

 しかし残念なことに、ネット上のコミュニケーションの速度は極めて速い。
 山彦の速度ではなく、卓球のスマッシュの応酬の速度で、コミュニケーショ
ンが繰り返される。
 だからアクセス頻度の低いひとは、議論の流れにすらついていけないことに
なりがちである。
 なんというせっかちなメディアだろうか!

 面白い議論がネット上ですすんでいるとする。
 その議論に同時進行的にかかわる(あるいはせめてその場に立ち会う)こと
がいちばん面白い。議論の場に実際にいるような気がして楽しい。
 毎日アクセスしていれば、話の途中で割り込んでコメントを書ける。
 ようするに参加できる。
 一方で過去ログをダウンロードして読むのはお金がかからないけれどもこう
した「かかわっている」という実感に欠ける。
 毎日のアクセスでは、結果としてリアルタイムでメッセージを読み、それに
コメントを(これもオンラインで)つける作業をすることになる。

 ネットでの発言は生野菜みたいなところもあり、発言してあまり時間がたつ
とネット上での価値は薄れてくる。
 ことばの意味は保存されるとしても、ネット上でのいきいきとした感じ、前
後の発言のあいだでの存在感といった微妙なニュアンスは失われてしまう。
 そうした鮮度のいい発言に触れるためだけにでも、頻繁なアクセスにネット
本来の意味があると思うのだが。

 時間とお金。このふたつの要素はやはり大きい。
 毎日アクセスは、情報の授受という観点からは効率が悪いのは確かだ。
 時間がかかり、結果としてお金もかかる。自分自身が人間端末と化してしま
い、いつもネットへのアクセスを絶やさないような生活様式ができあがる。
 時間を浪費し人間端末と化して流れに乗るか否か。この取引きはどちらが得
か?

89/05/22


37 2001年のわたしとワープロ
       
 日本語ワードプロセッサとはもう誰も呼ばない。
 「ワープロ」というのが、かつての日本語タイプライター、将来の統合化さ
れた知的生産ツールの今現在の通り名である。
 名前が省略されてちょっと恥ずかしいような通り名をもらうと、その商品の
コンセプトは広く受け入れられたことになる。電卓しかり、CDしかり。
 日本語ワードプロセッサが「ワープロ」というニックネームをもらった日、
かつて存在したことのないこのあたらしい道具は、道具としての普及の第一歩
を踏み出したといえるだろう。

 ワープロは、あと十年たったらどんな姿になっているだろうかと、井の頭線
のプラットフォームで電車を待ちながらふと考える。
 技術的な成熟期はいずれ来るのだろうが、わたしにはずっと先のような気が
する。
 メモリーが大きくなり、処理速度が上がり、機能が増え・・・そうした予想
はできる。
 しかし、では、将来のワープロってどんなものであるべきか?と、いわゆる
長期的ビジョンというかコンセプトというかそんなものについて考えようとす
ると、ワープロの設計者でもなくメーカーの販売責任者でもない一ユーザーの
わたしはとたんにあいまいになってくる。

 うーん、むずかしい。
 しかし、ひとつのイメージとして語ればこんな具合だ。
 大学の授業風景。学生はみんなノートタイプのワープロを持っている。音声
入力で授業を大容量記憶媒体(シングルCDサイズの光磁気ディスクみたいな
ものかな?)に記憶させている。じゃなければ各自の机に入出力用のジャック
がついていて・・・。

 わたしは、2001年の5月の下旬にどんなワープロを使っているか?
 またそのワープロでなにをしているのか?
 ワープロということばは死語になっているのだろうか?
 それともパソコンということばが死語だろうか?

 2001年にはわたしは五十代になっている。
 そのわたしの手に、かつてパーソナルワープロと呼ばれたこともある個人の
ための電子文房具、21世紀の「電子のノート」があるに違いない。
 それはどんなかたち・どんな機能を満載しているのだろうか?

 ま、それは十二年後のお楽しみ、ということかもしれない。
 「電子のノート」が手に入るまでのわたしの行動について、たしかだと思え
ることがふたつある。
 ひとつは、ワープロという道具を使いつづけるだろうということ。
 そしてもうひとつは、十二年後にわたしの手の中にある「電子のノート」の
実現のために、一ユーザーとしてできることはなにかを考え、そして実践して
みたいということ。
 こんな時代の流れの中で、井の頭線のプラットフォームで渋谷行きの急行電
車を待ちながらわたしは思う、あと20才若かったらなあ!

89/05/23


38 タイムスタンプの楽しみ
       
 なにげなく見過ごしていたけれど、タイムスタンプって奇妙なものだと思い
はじめた。

 日常生活では、わたしたちの行動は秒単位で記憶されるわけではない。
 たとえば、こんな感じ。鈴木さんは昨日お昼すぎに来た。1時半ごろだった
かな。ところがネットではこうだ、鈴木さんは1時32分15秒にアクセスを
開始した。

 電子ネットという世界に入ったとたんに、われわれの行動は逐一記録され、
その足跡が秒単位で残されてゆく。
 タイムスタンプはシステムから自動的に提供される情報で、たいした意味が
あるわけでもない。ユーザーがほしい機能というよりも、システムの都合で提
供されているようなものだ。
 だが、かんがえてみるとタイムスタンプというのは公証人みたいなもので、
われわれのネット上での行動をずいぶん正確に記録してくれる。
 たとえば自分のネット上での発言の一覧をとってみれば、ずいぶんオレって
宵っぱりなんだな、とか「この発言のあとで1時間も考えて次のこの発言をし
たんだな」とか思い出すきっかけにもなる。

 ネットの議論にしてもちょっとした雑談にしても、どんな時間の流れの中で
行われるかで雰囲気が違ってくる。
 数分あるいは十数分といった短い間隔で軽い雑談がつづいているのをみると
ふたりの雑談のとなりにいるような気がしてくるし、数日の間隔(あるいはそ
れ以上)でゆったりと意見の交換がつづいている時、こんなのもいいものだな
と思ったりする。
 タイムスタンプの間隔が短いとき、その場の印象は「そうぞうしい」「にぎ
やか」「明るい」。
 間隔がながければ印象は「静か」「のんびり」「さびしい」。

 なにかをしたとき、時間が(ほぼ)正確に記録される世界というのは、あま
り聞いたことがない。
 はやい朝のアクセスは徹夜明けなのだろう、とそのひとのしごとのしかたを
思い出しながら思う。
 午後の3時ごろのタイムスタンプのついた発言ならば、あれ、これは会社か
ら内緒でやってるな、とコソコソしながらキーボードに向かっている様子まで
想像できておかしい。
 ま、堂々とやっているひともいるでしょうが。

 電子メールを読むときもそうだ。
 送ったメールを読んでそのままオンラインで書かれた返信。翌日書かれた返
信。微妙にニュアンスは異なってくる。
 なにしろ、タイムスタンプはウソをつけない。
 いやーまだ読んでいないんで、返事はあとで・・・なんて言訳はできない。
 事実は事実。
 ネットでは素直にふるまうほかない。
 特にタイムスタンプの公証人のまえでは。

89/05/24


39 ワープロのデザインに思うこと

 いいデザインのものが好きだ。
 べつに理屈ではなく、良いデザインのコーヒーカップやイスやテーブルが身
のまわりにあることは気持ちがいい。
 よいカタチの獲得するひとつの名誉は、そのかたち自体が伝説的になること
だ。
 伝説的なかたちは気紛れに変化することはない。かたちに時間を超えるもの
があり、いつまでたっても陳腐にならず、むしろ魅力を増す。

 ワープロはながめて楽しむものではないけれど、どのメーカーのものにしろ
デザインについては「気持ちがいい」と思ったことがない。ただの味気ない機
械だ。
 コンピュータのデザインについて言えば、いまのところNeXTが相当の水
準にあるのは間違いないと思う。
 マッキントッシュにしても、かなり満足できるデザインだし、変な言い方だ
けど「デザインにお金をかけているな」「デザインに思想が現れているな」と
感じさせるものがある。
 どちらもそのデザインは、いきあたりばったりではなしに、道具としての機
能を追求した結果としてのひとつの必然であるように感じさせる。

 一方、日本のコンピュータやワープロは、どうもデザインが貧弱だ。
 そのかたちの生まれた理由がわからない。
 かたちの意味が伝わって来ない。
 かたちがどんどんかわる。かたちに歴史が刻まれていない。

 デザインだけでなく、触感も良くない。
 いつも思うのだけれど、日常使うものは触れて操作すること自体が不愉快で
は失格だ。
 開閉するたびにガタピシ言うドアなんて、ほんとうにいやなものだ。
 ワープロにしたって基本的に「触る道具」であるのだから、キーボードの感
触はもちろん、いろんなボタンやスイッチや可動部分の全て、それに指が触れ
る部分の表面の仕上げなどは大切だ。
 それなのに、なんでこうなるのか?と首をかしげてしまうようなデザインの
機械や、可動部分がなんとも心許ない機械などが氾濫している。

 ワープロはいまやとても個人の生活に近く、仲のいい友達になりつつある、
それもいつも身近にいる友達に。
 だからデザインが大切だ。
 機能はどこまでも進化しつづけることが運命づけられている。
 だから、デザインにこころをこめてほしい。

 生活の道具のひとつとしてのワープロのデザインに、頑固な思想を持ってほ
しい。思想を持ったら変えないでほしい。じっくりと熟成させて、思想をすこ
しづつ具体化させてほしい。
 意味のない曲線や飾りはいらない。
 デザイン自体に主張と宣言をこめ、その主張と宣言を守りながらつぎつぎと
直系の子孫たちを生み出していってほしい。

89/05/30


40 宗和英志さんのこと


 宗和英志さんというよりも、AKIというハンドルのほうがなじみが深い。
 彼はかなり古手のネットワーカーであり、オアシスユーザーフォーラムのシ
スオペである。

 わたしがはじめて彼をネット上でみかけたのは、わたしがまだネットにアク
セスしはじめて間もない1987年の夏だったが、彼の書込みは目立った。
 なぜかと言うと、そのころ漢字かな混じりが普通になっていた電子ネットワ
ークにあって、彼は半角カナでアクセスしていたのである。

 読みにくい、けしからんという反応もあり、いやわたしは好きだ、個性があ
っていいという擁護論もあった。いずれにしても、わたしの彼に対する印象は
まずあの半角カナの短いメッセージからはじまった。
 半角カナの印象も手伝って、とつとつとした文章だと思った。
 どんなメッセージだったかは忘れてしまったが、画面を流れていった半角カ
ナのメッセージの残像は忘れない。
 ニフティでまた彼をみかけたのは、昨年(1988年)だった。彼はもはや
半角カナのメッセージを書いていなかった。

 あるフォーラムで、彼の印象をこんなふうに書いたことがある。
 あっち側へ落ちたらヤバイんじゃないか、というような際どい塀の上を走っ
ているような感じ。・・・・

 オアシス・ユーザーフォーラムができる過程でまた彼に出会い、日常生活で
は信じられないくらいの文章が行き来した。
 ガンコである。寡黙である。ネットワーカーが寡黙というのは矛盾であるよ
うな気もするが、彼のメールやメッセージからは寡黙でしかし内心ではいろん
なことについて語りつづけたい青年のイメージが湧いてくる。

 フォーラムを運営するといったって、たいしたことをしているわけじゃない
けど、すくなくとも時間だけはかけてきた。半年にわたって彼とわたしをふく
めたメンバーはひとつのフォーラムのことを考えてきた。一日のうち何時間か
は。
 すると、ひとの考え方がすこしづつわかってくる。同時に、よくわからなく
なってくる。
 なんて因果なことだ、一銭ももうからないのに、なんでああだこうだと議論
したりしているのだろう。

 シスオペってなにか、と考えると、いまだ日本ではめずらしい地位であるの
はたしかだ。
 彼はおそらく「シスオペってなんだ?」と自問自答しているに相違ない。
 そのこたえが出たとき、彼はどう変わっていくだろうか。
 わたしはそれに興味がある。

89/06/05

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