21 ああ、ハイテク貧乏
ワープロをはじめとして、いろいろなハイテク機器がわが家に入り込んでき
た。いまや数えるのがいやになるくらいたくさんの機械が身のまわりにある。
わたしは或る種の「コクピット症候群」にとりつかれているらしくて、様々
な電子機器をまわりに置くのが楽しいと感じるほうなのだが、ときどきいまま
での投資額のことを思って愕然(がくぜん)とすることがある。
確かに便利だ。というか、かつては考えられなかった生活がわたしのものに
なっている。
自宅でコピーマシンが使える。自宅でファックスが使える。自宅で・・・
どの価格も、ほんの五年前だったら何倍もしただろう。それが、どうやらわれ
われでも手が届く価格になって来ているのだ。電子ネットワークにしても、い
ままで想像もできなかったかたちのコミュニケーションが可能になって来てい
る。或る意味で夢が実現しつつあるのだ。
ところで、夢にはコスト意識が欠けている。欠けているから夢なのだが。
ささやかな電子機器に囲まれた生活が実現してみると、やはり気になるのは
お金のこと。わたしの場合しごとと個人の趣味的な領域があいまいなので或る
意味では救われているが、よく考えてみるとずいぶんな額を注ぎ込んで来たも
のだ。こわいから計算したこともないけれど。
趣味的な見方からすると、対費用効果は言ってみてもはじまらないのだが、
それにしてもワープロやパソコンやその周辺機器は金を食う趣味の筆頭ではな
いかと思う。
先日十年ぶりに一眼レフカメラ(ニコンF801AF)を買って、その値段
が安く感じられてびっくりした。決して安くはないのだが、ワープロやパソコ
ンの価格からするとカメラは安い。日本の経済の発展と所得の上昇に対して、
カメラの価格は相対的に低下してきたと思う。二十万円もあれば一応のシステ
ムが揃えられる。
一方、パーソナルワープロはまあ使えるもので十万はするしある程度の水準
を求めれば二十万を越えてしまう。わたしの買ったニコンに匹敵するマーケッ
ト内での位置を占めるワープロを買うとしたら、とても二十万では済まないだ
ろう。おまけに、周辺機器というのがある。パソコンは当然として、ワープロ
でもオプションを揃えることで能力が随分アップするが、その価格が無視でき
ないくらい高い。
それにもかかわらずパーソナルOA機器がどんどん売れて行くのはなぜなの
だろうか?
カメラを買って思ったのだが、やはりワープロやパソコンにはなにか「とき
めき」を感じる。それが、大枚をはたいてワープロを買ってしまう理由なので
はないだろうか。
その「ときめき」の理由はうまく説明できないけれど、なにか「知の領域」
にかかわることであるように思われる。
「知の領域」・・・・なんというか、いままで自分にできなかったことがで
きるようになるような期待感とでも言えばいいだろうか。
カメラを買っても自分が変わったとは思えないが、ワープロやパソコンを買
えば自分が変わって行くとでも言えばいいのだろうか。
しかし、そうした知的な刺激はうれしいけれど、その代償は小さくない。
貯金をはたき、長いローンに苦しみ、周囲の偏見に耐えて、それでも「とき
めく」ことのできるひとたちは、やはり時代の先駆者と言うべきだろうか。
89/03/02
22 CRT幻想
わたしが使っているオアシスにはグリーンの14インチCRTがついていて
明朝体を表示できる。CRT上での明朝体表示が、オアシスを気に入っている
理由のひとつでもある。
ワープロに向かっているといつも思うのだが、CRTの中には深い闇があっ
てその闇の中に文字が浮かんでいるような気がする。
その文字はもちろん手書きではないが、情緒の欠けた機械文字とも思えない。
機械の情緒とでも呼ぼうか、すくなくともわたしにはワープロが綴る文字の列
からもさまざまな書き手の息遣いが感じられる。
もともと、手書きの文字に過剰な情緒を感じていて、それがいやだった。ワ
ープロを使い始めた理由のひとつは「過剰な情緒を絶つ」ということでもあっ
た。だからはじめてワープロのCRTをのぞきこんだ瞬間から今にいたるまで
拒否反応を感じたことがない。
最初にCRTの画面上の文字を見たとき、それは米国製のパソコンからテレ
ビに出力されたにじんだアルファベットだったが、不思議なつぼの中を覗き込
んでいるような気分になったものだった。
その後ワープロを使い始めて、マイオアシス2SのちいさなCRT画面ワー
プロの精緻な表示画面それ自体を愛好している自分に驚いた。
深夜。CRTの緑色に輝く文字を見ながら提案書や企画書や私信や、ネット
へのコメントや電子メールや、ありとあらゆる「作文」をする。
キーボードをとつとつと叩く。その文字が瞬時に画面に表示される。文字列
が複写されたり消えたり、移動したりする。
もうあたりまえになってしまった「作業」だ。
それらの作文は、緑色のインクを使っているのではないけれど、すべて緑色
の文字で書かれる。紙に書かれはしないが、背景は黒い。考えてみると奇妙で
はある。
背景の黒さは、わたしには闇、すなわち空間のように思われる。
空間、それも夜の闇に文字が浮かんでいる。その文字にキーボードを通じて
語りかける。文字は現れたり消えたりする。巻物のように流れ過ぎて行く。
考えてみると、これはなんて凄いことだ。紙と鉛筆でなく、キーボードとテ
レビで文章を書いているのだ。そのテレビは百万もの点で構成されていて、そ
れらの点のひとつひとつが明滅して文字を映し出す・・・。
いまさらそんなことに驚いてもしかたがないのかも知れない。でも今は機械
で文字を書く時代のはじまりで、歴史のひとつのエポックに立ち会っているの
だぞ、とひとりでつぶやいてみる。
89/03/08
23 歩くように考え、走るように書く!
ネットへのアクセスをはじめてずいぶん長い間、オンイラインでの書き込み
が不得意だった。
オンラインエディタの使い勝手がそれほどよくないこともあるが、どうも言
いたいことがまとまらない気がして、いつも別に作成した文章をアップしてい
た。その理由は、オンラインだとつい、きつい表現や不適当な表現を使ったり
してあとで後悔しそうだったから。
ネットにアクセスしはじめて1ヵ月くらいたった時だろうか、はじめての発
言をした。オフラインで作った文章をアップする方法がよくわからなかったの
で、オンラインだった。
はじめてということであがってしまい、内容がどんどん過激になっていった
・・・なんとなく歯止めが効かず、そのままアップしてしまった。
その後はオフラインで書こうと決め、そうとうつまらないコメントでもオフ
ラインで書いてアップしていた。はじめての発言の失態が効いた。
それが、ほとんどをオンラインで書くようになったのは、このフォーラムが
出来た昨年の12月からだ。
なんといってもコメントの量がオンラインでないと追いつかない程だったか
らだが、オンラインでの書込みを続けるうちに「オンラインでの書込みの楽し
さ」が分かった気がした。
その最大の理由は「鮮度」だと思う。
ネットのコミュニケーションはとても対話的で、漫才ではないけれど、対話
の醸し出す密度や雰囲気や緊張感が実に多様な場面を瞬時に作り出す。
書き込まれたばかりの発言はまだ湯気が立っている。
即座に気のきいたコメントがつくと、その場は一挙に活気づく。そうした場
には書込みが集中し、ひとりの思いつきと別のひとりの気分とが接触して爆発
して、まったく見たこともない世界が出来上がったりする。
また、ネットで誰かの発言にコメントしようと思った時、その発言のあとに
続く他のひとの発言の行数が距離として意識されるのも面白い。仮に二百行も
まえの発言にコメントしようと思うと、「オーイ!聞こえる?」というような
感じになる。みんなもう忘れてしまっているだろう。それをヨッコラセと堀り
起こし、ほこりを落として、さてコメントを付けようか、というような気分に
なるのだから不思議だ。
じっくりと続く討論を否定するつもりはないけれど、ふつうネットで交わさ
れる会話?はそれほど深刻でも複雑でもないから、ようは「鮮度」ということ
になる。
オンラインで書くと、いままでことばを選びながら書いていたのが、むしろ
「いかに自分の気持ちを素直に表現するか」と考えるようになる。
もともと、ネットで書込みをつづけると、そのひとの性格とか考え方などは
隠しようがない。だからカッコつけてもしょうがないと諦めてしまうのだが。
そんなわけで、反射神経のにぶいわたしもようやくオンラインで書き、読み
笑うようになってきた。
課金が増えるのはつらいけど、オンラインで書いていると大袈裟に言えばオ
ンラインコミュニティの内側で発言している気がする。
そこではいかに連続的にコミュニケーションするかというようなことも大切
な要素になり、適度な間隔でのコメントのやりとりはそうとうの親和力を生む
ことになる。
オンラインで書くようになると、オフラインで書く内容も変化して来た。
オフラインでは時差があるから、ある瞬間にある場でしか感じとれないおか
しさなどには追いつけないけれど、もっとじっくりと書くことはできそうだ。
オンラインの書込みでは素早くその場にふさわしいニュアンスを求めて、オ
フラインではじっくりとまとまった内容を求めて!
言っていることとは裏腹に、オンラインでは外してばかり、オフラインでは
まとまらない思考に自己嫌悪の日々ではあるけれど、それでもわたしの電子ネ
ットワークにおけるスローガンは、
歩くように考え、走るように書く!
89/03/12
24 ネットではみんな有名人
ずっと前、まだキャンディーズが現役だったころ、或るホテルのロビーで蘭
ちゃんに出くわしたことがある。
といっても、蘭ちゃんはこっちを知っているわけではない。
だから彼女はわたしを視野の中に入れてはいても、わたしをひとりの人間と
しては見ていてくれなかったに違いない。悲しい。
ネットで誰かの書込みを読んで、ファンになってしまう。
そのひととはなんの関わりもないのに、書込みが少ないと心配になったりす
る。
会ったこともない年令も住んでいる町も知らないひとだけど、いいひとに違
いないと決めてしまう。
発言にはかならず発言者名(或いはハンドルネーム)があるから、その名前
をたびたび見ているうちになんだかそのひとが有名人であるかのように思えて
くる。
ところで、わたしがネットの中の架空の社会を見渡して抱く感慨は、程度の
差こそあれほかのひとも持っているだろうと考えてみる。
するとネットでは誰でも発言の権利(というか可能性)があるから、みんな
が有名人になれる可能性を持つし、ごくたまにではなく或る程度発言を重ねる
ネットワーカーは、必然的に「有名人」だということになる。
はじめてオフラインに出て、そうしたネット上の有名人諸氏と会ったとき、
実のところほんとうの芸能人に会ったときのようにドキドキした。
へんなはなしだけど、みんな普通の社会人なのに、特別なひとに見える。有
名人というのはわれわれがこころのなかで作り上げた虚像なのだとあらためて
納得したものだった。
みんなが有名人。ではネットは芸能界かと言えばそんなことはなくて、自分
は非有名人、他のひとは有名人だと皆が思っているところが芸能界と違うはず
だ。こころひそかに「あ、あのひとはあのフォーラムでいつも楽しい書込みを
しているひとだ!」と思っていると、相手も同じように思っているかもしれな
いというわけだ。
芸能界では「わたし有名人、あなた有名人」という意識なんでしょ?
わたしは芸能人ではないので、これは想像である。
ひとの名前は、繰り返し見ていると妙になじみ深いものになっていく。
ひとの名前に限らず、どんな名前でも、繰り返しが伝説を生むのだ。
そうして、ネットの「有名人」はかなりのところまで晒されている。何が?
そのひとの性格とか信条とか、生活感覚とか、いろんなこと。
これはこわい。
虚心坦懐、正直をモットーにするほかはないようだ。
89/03/17
25 ワープロをめぐる小物たち
いろんな文章を作成するにしても通信をするにしても、ワープロがわたしの
「しごとシステム」の中心であることに変わりはない。
ワープロでの作業の前後にはワープロを使わない(使えない)作業があるわ
けだが、わたしを取り巻く小物たちとは・・・。
まず、メモのたぐいがある。
ほとんどは移動中に書き留めるからいま現在はシステムダイアリ用のリフィ
ルが多い。それを書いた分から外してビスで止める。メモの厚さが五センチく
らいになまるまでビスを継ぎ足しながら綴じていく。A6やA5のリーガルパ
ッドも時と場合に応じてよく使う。
作業中の印刷文書はいろんなクリップでとめている。クリップは実にいろい
ろなかたちや大きさのものがあって楽しい。文具店に行くと、つい必要以上に
クリップを買ってしまう。実に簡単な道具じォクリップで挟んで机の上を整理
していくときなど頭のなかも整理されていく気がするから不思議だ。
ガチャックもクリップがわりに頻繁に使う。
面白い綴じ方としては、 Paper Welder がある。四〜五枚の紙ならこれで綴
じると紙と紙を噛み合わせるようにして綴じることができる。針もなにもいら
ないのがいい。
筆記用具も無駄づかいのもとだ。
○・九ミリのシャープペンシルばかりを使っている。気に入ったのがあった
ので、生産中止を恐れて十本以上も買ってきた。いまでも目につくとつい買い
込んでしまう。
ハサミやカッターも実にいろいろな機能を追求していて興味がつきない。
左利きなので、ハサミは左利き用を探してくる。
カッターの売場では、造形の楽しさで時間を忘れるほどだ。
実際には楽しげな造形のカッターは特殊用途のものなので、ごく普通のもの
で満足しているけれど。
ワープロでの作業の後を引き受けるものとして、ステープラーがある。
エトナという会社のでっかいステープラーを持っていて、これは針の長さが
何種類もあって二、三センチの厚さの紙の束でも楽に綴じることができる。こ
うして綴じたものに自作の表紙をつけて簡単な報告書を作ったりする。
製本機も必要なのだろうが、ステープラーが意外に安くて便利なので取敢え
ず満足している。
わたしのホームオフィス環境は未だに貧しいものなので、なんでも小さいも
のが必要になる。「音」はソニーのディスクマンにまかせている。ラジオもカ
セットテープ大。
電卓も必需品だ。
たいした計算もしないのに昔からヒューレットパッカードの電卓がほしくて
たまらず、去年ようやく手に入れたときはほんとうにうれしかった。この電卓
にはミニ・アドベンチャーゲームを入れてある。
その他に「役に立たないもの」がある。
机の上には小さな木製のおもちゃがある。十二個の正方形のブロックを細い
ゴム紐で繋いだようなもので、いろんなかたちにすることができる。片手で握
れるほどの大きさだ。
どういうわけか、登山用のガソリンストーブもある。
かたちが面白いのと、「また山へ行くぞ!」という実行されない約束のため
に置いてある。
・・・まだまだあるけれど、きりがない。
気がついてみるとずいぶん沢山のものに囲まれている。これでは仕事場と言
うより、遊び場ではないか。
89/03/18
26 森の中の電子ネットワーキング
わたしは都会で育った人間なので、都会がとても好きだ。しかし、自然も好
きだ。わたしが理想的なライフスタイルとして思い描くのは「森の中の電子書
斎」と都市生活空間との往復である。
かつてNHKが放送した「第三の波」で、アップルII用にすばらしいプログ
ラムを書いていたポール・ルータスが紹介されていた。
彼の仕事場は人里離れた森林地帯の湖の岸辺にあって、いわゆるログハウス
である。まちに出るには自家用の水上飛行機で。通信手段は衛星通信。ログハ
ウスの脇には衛星通信用のパラボラアンテナが立っている。
テレビの映像を見ながら、これが理想だな、とわたしは感じていた。
彼のライフスタイルはすこし過激だが、決して理解できないものではなかっ
た。それどころか、自分の生活も彼の方法をとりたいと思ったものだった。
それから長い間、電子ネットワークとは無縁の生活だったから、ポール・ル
ータスの生活はひとつの理想として頭の隅にしまってあるだけだった。
しかし、サラリーマン生活をやめようと思ったとき、まっさきに浮かんでき
たのはあの森の中のログハウスと数々の電子機器の奇妙な取り合わせだった。
わたしには自家用の水上飛行機もログハウスもなかったけれども、ひとつの
象徴としての「森の中の電子書斎」はその後も決して消えることがなかった。
そうして電子ネットワークというものに出会ったとき、わたしのイメージの中
の「森の中の電子書斎」はにわかに現実味を帯びはじめた。
「森の中の生活」というと隠遁の生活を想像するのが自然だろう。誰にも会
わない、誰とも話さない。
ところが、現代の「森の中」では、電子ネットワークを通じて世界の果てと
でもコミュニケーションができるというわけだ。
都会には自然と呼べるものはいくらもない。森のなかには都会的な利便性が
ない。それが普通だった。
電子ネットワークはこうした既成の概念を崩してしまう。現実の仕事の性質
やひとりひとりの考え方が「森の中の生活」をまだ現実とは遠いものにしてい
るけれど、仕事のしかたはどんどん変化してゆくし、ものの考え方もそれにつ
れて激しく変わって行くはずだ。
あとすこしししたら、八ヶ岳の裾野あたりに電子化されたログハウス群が出
現しないとも限らない。
通信の発達ですごいことが起こりつつあるのは間違いない。
その結果、われわれは自然により親しむことができるかも知れない。
森の中の夜、風の音におびえることはもうなくて、外には木の枝がすれる音
がしていてもあたたかい部屋の中ではコンピュータのファンの音とキーボード
をタイプするカタカタいう音だけが響いている、そんな生活が特別なものでな
くなる日も遠くないのではないだろうか。
森林と高層ビルの森。
隔たったふたつの環境の間を行ったり来たりすると、そこから受ける刺激と
いうものは創造的なエネルギーに転化するのではないかとわたしは楽観的に思
っているのだが。
89/03/20
27 複眼の視点
ネットにアクセスし、いろんな電子会議室に行ってたくさんのひとの書いた
文章を読む。これは考えてみると、新しい体験だ。
雑誌や単行本として出版されているものは「プロ」が書いているのであって
しろうとはせいぜい投書欄にようやく採用されるにすぎない。
ところが、電子ネットワークでは(ほとんど)みんなが文章を書くしろうと
で、いわばしろうとの雑文が洪水のように流れているのだ。
いろんな文体があり、いろんな意見やものの見方がある。
当然のことだ。
電子ネットワークにアクセスしているひとたちは年令も職業も、生活史だっ
てばらばらの「均質でない集団」だから。
いや、かなり似たもの同士が集まっているよ、という意見もあるだろう。そ
れはそうだけど、ネット人口が増えるにしたがっていろんなひとが加入してく
るはずだから、集団の多様性は保証されているとわたしは思う。
わたしだけの現象かもしれないけれど、ネット上の他人の意見が自分の意見
のように思えてくることがある。
同様に他人の持つものの見方、体験、趣味など感慨が自分のもののように思
えてくることもある。
たんなる錯覚にすぎないのだろうが、いろんなひとの発言を繰り返し目で読
むうちに、それらがだんだん自分の内側に入ってくるような気がする。
「ふつうの人々」の体験を追体験する。思考の経路を辿ってみる。話し方(
書き方)のクセをまねする。
中学生や高校生のごく親しい仲間のなかでなら、そうしたことがあったよう
な気もする。ちょっとした言い回しがみんなとても気に入って、その数人の集
団の中でだけ通じるダシャレや警句になったりもした。
電子ネットワークでは、同じクラスの数人の仲間とではなく、寝台列車で一
晩かかる遠いまちに住んでいる会ったこともないひととそうした親しさを共有
する体験も可能だ。
しかし、ひとつの発言だけでは、なかなかそういう感覚は起きない。
あるひとの発言をそんなには意識しなくとも時間を追ってつぎつぎと読んで
いくうちに、自然にそのひとの考え方とかものの見方とかが理解できるような
気がしてくる。
こうしたかたちでのひとの理解は強いられるものではないが、結果的にネッ
トというものは「ひとを理解する装置」だと言うこともできる。
ネットはひとつの思想や観点に凝り固まった意見もあるけれど、いろんな発
想や諧謔(かいぎゃく)に満ちてもいる。
肩肘張った発言をすればするりと逃げられたりするし、ごまかし発言はピシ
ャリとやられる。
そうしたやりとりをしながらたくさんのひとの意見を目で追っていると、そ
の全体がわたしに影響を及ぼしてくるような気がするというわけだ。
むずかしい議論をしているときにつまらないコメントを付けても、その議論
全体に自分が関与しているような気がして自分がやけに高級な知識人になった
ような気がすることもある。
幻想に過ぎないのだろうか。
いろんな広告媒体には西洋人の美男美女が登場する。それを見続けていると
あたかも自分が広告の中の西洋人であるかのような気がしてくる。
あれに似ているかも知れない。
しかし、多種多様な価値観の中に身をおくことで自分もまたしなやかになり
複眼的な視点を獲得できたらと、きょうも見知らぬひとたちの感性と思考のシ
ャワーを浴びながら思う。
89/03/21
28 ユーザー、メーカーに出会う
ネット上でみく見かけるのは、パソコンやワープロの新製品にたいする毀誉
褒貶(きよほうへん)である。
かつては政治が毀誉褒貶(きよほうへん)の対象だった。といっても「けな
し」の方が多かったけれど。
いまは、「不当な価格設定、理不尽な商品政策」をとるメーカーが代役をつ
とめているというわけだ。
それにしても、メーカーに対して「けなし爆弾」を投下するユーザーが異口
同音に「わたしはそのメーカーが好きだから、そのメーカーの製品が好きだか
ら敢えて言う」という論理で一貫しているのは面白い。
可愛さ余って憎さが百倍、といっては話をまぜかえすことになるが、こうし
た「メーカー大好きユーザー」の心理は研究に値するのではないかと思う。
そうしたユーザーは恐らくオピニオンリーダーでもあり、身近なひとたちに
自分の意見を吹聴しているに違いない。いわば町の評論家である。彼らの影響
力は相当なものがあるだろう。
ワープロやパソコンはオピニオンリーダーの影響力が大きい商品のひとつだ
と思う。雑誌や小売店の店員からは有効なアドバイスはほとんど得られない。
まったく知識のないひとにとって、すでにワープロ/パソコンをつかいこなし
ている知り合いは最も信頼できる相談相手だろう。
どんな知り合いを持つかで、彼のワープロ/パソコン人生はまったく違って
しまう・・・。
ユーザーとメーカーの関係は、電子ネットワークの出現によって対立から対
話へと変化しつつあるとわたしは思う。
電子ネットワーク上で、メーカーの担当者が実名でユーザーの質問や批判に
答えるというシステムをはじめて知ったときなど、ほんとうに驚いた。
おたがいに顔が見えてきた。これはおおきい。
いままでは商品はメーカーが開発してきたし、メーカーはいろいろな調査手
法によってユーザーのニーズを探ってきた。
いわばもの言わぬメーカーでありユーザーだった。
ところが電子ネットワーク上でユーザーとメーカーの対話が始まると、一転
してかくも騒々しいコミュニケーションチャンスが生まれた。
今度は「喋りすぎるユーザー」と「喋りすぎるメーカー」が出現したことに
なる。(笑い)
ユーザーとメーカーとの対話がすすむと、製品と情報の流通を担う中間の組
織は危機にさらされるかも知れない。
相手の顔が見え過ぎると文句が言いにくいのも事実だ。
ついつい批判のことばも遠慮がちになるし、「あれだけがんばっているんだ
から・・・」などと納得したくなったりする。
そうなると純粋ユーザー(?)とは言いにくい。
と言ってメーカーサイドに立てるわけもない。もしかすると、そういうユー
ザーは不幸なのかも知れない。ユーザーとメーカーとの間に発生する軋轢(あ
つれき)を自分で抱え込んでしまい、ひとりで悩んだりしかねないから。
ユーザーにとってはなにもメーカーの直面する諸問題を一緒に考える義務は
ないし、仮にそんなことをしてみても一文の得になるわけでもない。
ところが実際にはそうした一文の得にもならないことをするユーザーがいる
のだ。不思議な情熱・・・。
たんなる商品にすぎないワープロという道具の仕様や使い勝手についてあれ
これ苦情を言ったり改善提案をしたりし、がっかりしたり感激したりしながら
その行く末を期待を持ってみつめているひとびと。
一部のひとであれ、ユーザーにそうした行為を誘うワープロやコンピュータ
といった商品、そしてまたそうした対話の試みを可能にする電子ネットワーク
というシステムとは、なんと不思議なものだろうかと思う。
これはなにかのはじまりなのだろうか?
89/03/24
29 メーカー、ユーザーに出会う
一般にメーカーとユーザーとの間には流通の厚い壁があって、おたがいに話
ができない状態が長くつづいて来た。中間には複雑な流通機構があって、そこ
が情報の流通をも担っているはずだったが、商品が販売を専門とするひとびと
にとって理解しがたいものになってゆくと、効率的なはずの流通機構は逆に情
報の流通をさまたげるようになってきた。
メーカーには一般消費者に対応する部門があって、だれでもそこに電話をす
ることができる。しかし、企業における消費者対応は仮想の人格としての企業
の枠を外れることはない。ようするに、「お客さまは王様」という建前と裏腹
の、公式見解しかわれわれは聞けない仕組みになっている。
電子ネットワーク上で、ユーザーと最初に直接接触しようとしたメーカーは
はじめてキノコを食べた原始人に匹敵する勇気の持主だと思う。
そこではメーカーはまず評価されない。ありとあらゆる悪口雑言が浴びせら
れる。なにをしても批判的な意見が集中する。批判のほとんどは自分だけが正
しいという確信と自分はメーカーのために言ってやっているんだという恐ろし
い善意に満ちていて、そうした連中に言えば言うほど「分かっていない」意見
が返ってくる。むなしい。連中は技術的なトレードオフってものが分かってい
ないんだ。
ネット上でメーカーに要求し批判し攻撃するユーザーにとって、メーカーは
巨大な組織でありそれ故に重装甲の戦車のように見える。一方ユーザーは自分
がか弱い肉体をそうした重戦車に晒しているような気がしている。いわばユー
ザーは自分の弱さと相手の強さをよりどころにして議論しようとする。
ところが、ネット上でのコミュニケーションを望むメーカーのひとたちはユ
ーザーと同じ立場、すなわち生身の肉体を晒すつもりでいるから、ユーザーの
攻撃(すなわち重戦車に対する攻撃)は強力すぎる効果をもたらすことになり
かねない。これは滑稽だが悲劇でもある。
もちろん、メーカーのひとたちにもふたつのタイプがあって「自分を晒す」
のを好まないひとたちもいる。今の世の中ではこっちのほうが普通だろう。そ
して、このタイプはネットでは不評を買い勝ちである。
巨大な企業の中の奇特なごく少数のひとたちが、ウンカのように押し寄せる
ユーザーたちと言わば肉弾戦を繰り広げている。
ネット上のユーザーはみんな教えたくてしかたがない。どうしたらいい商品
がつくれるか、どうやって売り込んだらいいか、どう改良したらよりユーザー
を満足させる商品になるか・・・まったくもってお節介!
ユーザーはメーカーと話したがっている。ユーザーとしての自分の(製品に
関する)感想や提案を聞いてもらいたがっている。製品の開発に参加したがっ
ている。
ユーザーの意見が開発に影響を与えるとは、じつのところあまり信じていな
い。メーカーのひとたちはユーザーに指摘されて気がつくほど不勉強ではない
と思っている。
ユーザーが鬼の首でも取ったように主張することでも、メーカー側から見れ
ば「いまごろ何言ってんの」というところかも知れない。
しかし、歴史上の一大事件は「メーカーにとってユーザーの顔が見えた」と
いうことだ。この事実に免じて、ユーザーのしょうもない「忠告」にも付き合
ってもらい、千にひとつもヒントが見つかれば良しとしてほしいと願うきょう
この頃である。
89/03/24
30 宮本千晴さんのこと
カナダ北極圏のオーロラについての素晴らしい描写を、電子ネットワーク上
を流れていくおびただしい文字の洪水の中に見つけた。
わたしは素直に感動してコメントした。
(いまはこのフォーラムのシスオペである宗和さんも、感激したとコメント
していた。なんという偶然だろうか)
すると、発言の主からメールが来た。それが宮本千晴さんとおつきあいする
ようになったきっかけだ。といっても、その後一回か二回、メールが往復した
だけだった。
それからすこしして、オアシスフォーラム上でユーザー主催のフォーラムを
つくろうという動きが起こったとき、宮本さんに再会することになった。しか
し再会といっても会議室上でのことで、直接にはおめにかかったこともなかっ
た。
はじめておめにかかったのはユーザーフォーラムが具体化しつつあった昨年
の秋だった。
わたしは宮本さんのことについてはなにも知らなかったといっていいのだが
ヒマラヤの高地やアラビアの砂漠で冒険的な活動をされたこと、知の領域の探
検についてもなみなみならぬ興味を持ち実践的に探究されていることなどをす
こしづつ知るようになった。
彼にとっては、電子ネットワークとその上でのひととひととのコミュニケー
ションのことについても、そうした知的好奇心の延長上でとらえらえるもので
あるようで、観察者であると同時に実践するひととして、真新しいメディアで
ある電子ネットワークの可能性を探っているように見える。
ユーザーフォーラムの生成にはたくさんのひとが関わっていたけれども、宮
本さんの立場は「知の後見人」とも言うべき独特のものであったように思う。
ものごとの生成にはある種の定型があるとするならば、彼の頭にはひとの集
団の始まりと活動と停滞と終結との記憶が詰まっているに違いない。
わたしと同様、彼も人生の出発の季節に電子ネットワークの洗礼を受けては
いない。わたしの貧しい経験とは比べることもできないくらいの多様で刺激的
な経験のあとで、彼は電子ネットワークに出会ったはずだ。
一方に二十歳かそれ以前で電子ネットワークへのアクセスをなんら違和感も
なしに日常生活の一部にしているひとたちがいて、もう一方に彼やわたしがい
る。その両者が同じネット上で出会う。
・・・適度に抑制された表現は膨大な経験に裏打ちされているとすぐに気づ
かされる。
しかし経験を押し売りはしない。ほどよく枯れている。
こうという決めつけはせず、議論を議論らしくするようなしかけを整え、し
かし整え過ぎて議論そのものの力が失われることを嫌う。
彼の目が鋭い光りを帯びるとき、どうもわれわれは彼の目のなかではフラス
コの中でさまざまに変化するある物質のように見えているのでは、と疑う。
わたしには不満もある。
彼がもっと生々しい表情を見せるのはいつか。彼自身が主人公となるのはど
んな場面か。
わたしはそれが知りたいと思っている。
しかしいまはなにを言っても軽くかわされるのが落ちだろう。わたしとして
は、せいぜい彼の観察眼と、経験から来る判断力を盗みたいと願っている。
89/03/28