11 CD−ROMの衝撃

 わたしがオアシス100シリーズを評価する理由のひとつは、システムが成長することだ。わたしが100Hを発売直後に使いはじめた時の機能と現在のそれとは、別のキカイだと思えるくらい違っている。

 ワープロを買おうと思っていた。マイオアシス2Sを使っていたが、はじめから上位機種を買うつもりだったから100シリーズの全部をチェックした。
 ハードディスク付きでないと使えないだろうという結論を得て、当時ハードディスク付きで一番安かった100Hにした。ワープロとしての機能はあらゆる面でマイオアシス2Sをしのぎ、わたしは大いに満足した。
 その後、ソフトがエディションアップする毎につぎつぎと機能が向上するのに「ずいぶん得な買物をしたな」と思った。特にMS-DOS文書が扱えるようになったことで、世界が一挙に広がったし、もっと驚いたのはパソコン通信ネットへのアクセスができるようになったことだった。孤独なオアシスはここで一挙におしゃべりなキカイに変貌した。

 CD-ROMとの出会いも、まったくオアシスのおかげといっていい。
 CD-ROMについては雑誌などでその驚異的な記憶容量とメディアとしての可能性について多少の知識を仕入れてはいたものの、それが自分のそばに来るのはすこし先だろうと思っていた。ところが、CD-ROMドライブとソフト「広辞苑」の発売がアナウンスされたのである。
 アナウンスと同時に注文し、ひたすら待った。夢の実現!
 おおげさだろうか? 昔読んだSFのこんな一節をおぼえている……どこかの遠い星。ひとり取り残された探検隊員は背中に生命維持装置を背負っている。その中には、何千篇もの小説が記憶されていて、ひとりぼっちでもう地球に帰ることもできない彼に読んで聞かせる、尽きることもない物語を。
 CD-ROMについて聞かされたとき、わたしの思い出したのはこのおはなしだった。

 CD-ROMの記憶容量約550MBといえば、単純計算で原稿用紙70万枚ちかく。千枚の小説約700冊が1枚のCD-ROMに収まる計算になる。
これはわたしが読んだSFの中の「おはなしの機械」の実現といっていいのではないか。わたしはCD-ROMではなく夢を買ったのかも知れない。どの時代にもこういう馬鹿者がいて、技術の進歩と普及のために自腹を切るのだ。

 さて、肝心のCD-ROMだが、オアシスのシステムにうまくなじんだすばらしいつかい心地だと言える。文書作成からなんの違和感もなくCD-ROM検索に移行できるし検索結果の複写なども普段の文書作成時と同様の操作で行なえる。条件付きで検索もできるし、検索語がまちがっていても、一番近いことばを探して来てくれる。CD-ROMはオアシスの文書作成機能のひとつとして慎ましく働いているといっていい。
 時々は「広辞苑」の森の散歩を楽しむこともある。次々と関連することばを繰って、連想とことばの発見を楽しむのだ。
 「広辞苑」の文字情報はおよそ30MB。最大記憶容量のなんと5%しかない。実際にはインデックス情報130MB、図版200MB(図版数二千)、外字他で5MBをあわせて365MBを使っている。

 CD-ROMソフトがつぎつぎと出版されることがわたしの希望である。
 文字情報だけなら「近代日本文学全集」なんて1枚のCD-ROMに収まるだろう。将来はそれを読むCD-ROMリーダーなんてのが出来るかもしれな
い。そこまで行かなくとも、まずオアシス上で検索できるデータが増えることを望んでいる。オアシスがますます知的生産の道具に近づくためにCD-ROMは大きな役割を果たせると思う。

89/02/08



12 限りなくケンカに近い議論の研究

 ネットでの議論の中には、限りなくケンカに近いものがある。こうした議論
は周期的に起こり、しかも理性的な結末を迎えたためしがない。
 ネットには論客が多く、ちょっとしたきっかけで言い合いがはじまるとまさ
に蜂の巣をつついたような騒ぎになる。そして、発言するひとの何倍もの野次
馬がウンカの如く集まってくるのも見慣れた光景ではある。

 その種の騒ぎが始まると、正直に言ってワクワクする。いけないとは思いな
がらも、読みに行ってしまう。ミーハーなわたし。
 で、そのような議論はどうも議論が目的でないことが多いようだ。

 「あいつが気にいらない」

というのがほんとの理由のように思えるケースが大部分。
 しかし、一応は議論(論争)のかたちをとらなければならない。そこで、い
かに紳士的に相手を罵倒するか、がひとつのテクニックとなる。
 妥協点を見出す努力など見たことがない。ひたすら攻撃するばかり。
 相手が間違っていると確信した時には、ほとんど正義を執行している気にな
っている。相手のことばを自分のことばでねじ伏せなければならぬ! ことば
の選択はエスカレートし、自分のことばに酔ってしまう。
 ところで、そんな時相手も同じように思っているらしいのだ。
 古いアメリカのマンガ映画で、相手を叩く武器がどんどんエスカレートする
おなじみのギャグがある。あれと同じ。限定核戦争など、夢のまた夢だ。

 同じ意見のグループが形成されると、グループ内の団結は運動会の赤組白組
のように強い。何といっても、団結の原理は共通の敵を持つことだ!
 敵味方の発言の引用が繰り返される。引用は枝葉末節に及び、言葉尻とり合
戦は果てしない中傷消耗戦に突入する。
 消耗戦の結果はだれの目にも明らかだ。
 熱するのもはやいが白けるのもはやい。観客も気がついてみるとほとんど消
えてしまっている。

 ことばだけの世界だから議論に向いていると思われるかもしれないが、どっ
こいそんなことはない。
 まず、論旨よりもことばそれ自体が浮き出してみえる。普段の議論の時より
も、反論しないと損のような気がする。ちょっとした語尾とか、些細な表現が
神経を逆撫でする。瞬間湯沸器のようにムカッと来る。
 そして、ミサイル発射ボタンに指がかかる。
 オンラインで書くか、ゆっくりオフラインで書くか。ここでオンラインを選
択したら、全面戦争はほぼ間違いない。

 ネット上の戦争に戦死者はいない。
 古いアメリカのマンガ映画の悪役のように、ネットワーカーは決して死なな
い。バクダンをくくりつけられても、崖から落っこちても、包帯だらけになっ
て松葉杖をついて起き上がってくる。

 わたしは自分の至らなさを棚に上げて「ネットは感情的なメディアである」
と規定している。
 ひとつの理由は、ネットがレスポンスのはやいメディアであること。
 「売りことばに買いことば」で双方の血圧が上がりやすい。同じ原因があっ
ても、手紙をやりとりしてのケンカなら大したことにはならないに違いない。
 もうひとつ、画面で見る相手の意見と紙に印刷した意見は、違って見える。
 プリントしたもののほうが冷静に読めるような気がする。

 ・・・・双方ともにくたびれ果てた。議論は結論を見出せないままに消えか
かる。これですこしの間、静かな日々が続くはずだ。

89/02/10



13 ネットワーカーを育てる3人の賢者たち

 普通、ネットに加入すると、はじめは歩くこともおぼつかないカルガモの雛
みたいなもので、会議室で発言することも容易ではないという状態である。
 気後れがして、うまく話せない。
 ま、なかにはいきなり書込みをはじめるひともいるけれど、わたしの意見で
はこういうタイプは心臓が強いわけではなく、意外に自分の置かれている状況
に無頓着なのだと思う。
 閑話休題。
 電子ネットワーク上で日々を送るひとは変化していく。
 どう変化していくか? アクティブになっていく。課金が増える。知り合い
が増える。書込みのレベルが低下する。これは冗談。

 しかし、自然に変化していくわけではない。変化のきっかけは、ひととの出
会いだとわたしは思う。以下に述べる3人の賢者に出会えば、だれでも自分の
変化に気がつくだろう。

  1 書込みにコメントをつけてくれるひと。

  2 ほめてくれるひと。

  3 オフラインに引っ張り出してくれるひと。

 では、ひとつひとつ解説してみよう。

 「その1」
 ネットで書込みをしてなにがうれしいといって、自分の書込みにコメントが
ついたときが最高だ。皆が見ていてくれるんだ、という気になる。一方、かな
り自信を持って書いたのに、丸一日くらい放っておかれると、「オレは孤独だ
 。・・・」というような気分になってしまい、ネットなんてひとっこひとりいな
い荒れ野みたいなもんだ、と悲嘆に暮れる。
 それが、もう一日たっておそいコメントがついたりすると、いや、やっぱり
ネットも捨てたもんじゃないな、と急に「ネットワークの築く未来」について
考え始めたりする。ああ。
 ことほど左様に、コメントはネットワーカーを育てるのだ。しかし、書込み
することに何の感動もおぼえない常連さんは除く。

「その2」
 だいたい、ほめられるのが嫌いなひとなどいるわけがない。
 ネット上では、おおぜいのひとがいる「広場」みたいなところで話し合った
り、ひとりでつぶやいたりしているわけだから、ほめられたときのうれしさは
「教室でほめられるうれしさ」に似ている。
 おだてりゃブタも木に登る。ほめれば、ひとは成長するのだ。

「その3」
 ネット上での交流は未来的である。しかし、やはり直接会ってみたい。
 はじめてオフラインに出てみると、「ああ、やっぱりみんな普通の人間なん
だ」と安心することができる。会っておけば、まずケンカにならない。
 オフラインに出るのも勇気がいる。オフに誘ってくれるひとは貴重である。
 しかし、「会う」ことにひとつだけデメリットがある。
 ネット上で知り合ったひとと会ってしまうと、そのあとはもうネット上では
まじめなはなしができなくなる。おまけにふたりのあいだの会話は第三者にわ
かりづらくなる。つまり、ネット上でのコミュニケーションにふさわしくない
関係ってことか。
 知っているようでしらない奇妙な関係、それがネットで知り合った友人たち
の不思議な魅力だ。
 もし、いつも会っているのに、ネット上でまじめ(?)な議論をしている連
中がいたら・・・・それは相当なタヌキにちがいない。

89/02/11


14 神田泰典さんのこと
       
 オアシスの開発者である神田泰典さんには一度おめにかかったことがあるだ
けである。
 富士通という大企業のなかでかなりえらいひとらしいが「神田さん」と呼ん
で別に違和感はない。わたしがはじめて「オアシスフォーラム」にアクセスし
たのは1987年の6月頃だったが、こんなえらいひとがなぜシスオペをやっ
たり、繰り返される同じような質問に飽きもせずに答えたりしているのかなと
いうのが第一印象だった。
 開発した本人がひとつひとつの質問に答えていることが驚きだった。
 そして、誠意は感じられるもののかなり無愛想な返答もあって、それにもび
っくりした。
 そしてこの偉大かつぶっきらぼうなオアシスの開発者の書込みだけを見続け
ていると、オアシスというシステム自体が開発者の人格の暗喩であるようにも
思えて来た。

 ガンコである。一見保守的に見える。しかし、先端的なものを自然なかたち
でとりいれることもする。あまりファッショナブルではない。しかし、スタイ
ルには気をつかっている。宣伝が下手である。とっつきは悪いが、使い込むに
したがって愛着が湧く。敵も多いが、愛好者には絶対的な人気がある。
 わたしが感じている「オアシスという機械の性格」はこんなところだが。

 はじめて神田さんにおめにかかったときの印象は、「ずいぶん背の高いひと
だな」というものだった。
 写真で見ていたし、オアシスフォーラムであまり人気のないイメージデータ
もダウンしたことがあったから、お顔から受けるショックはなかった。
 早口ですこし分かりにくい話し方で、しかしたぶんユーモアを込めて、いろ
いろ話してくださったが、わたしには全部は聞き取れなかったことを白状しよ
う。
 そのときもFROM9MDをお持ちだったが、持って歩いている姿を見て、
「神田さんがチビだったらFROM9ももうすこし小さいキカイになっていた
かなあ」と残念に思ったことだった。

 その後おめにかかる機会がない。
 だから、ここに述べた神田さんの印象のもととなっているのは、わずか2時
間ほどの座談(それも神田さんとわたしとの間の会話というのはごくわずかだ
った)と、あとは1年半ほどのオアシスフォーラムのリードオンリーメンバー
としての印象に過ぎない。

 オアシスユーザーフォーラムができかかっていた1988年の秋のある晩、
オアシスフォーラムにいると SEND メッセージが飛んできた。 SHB00052 から
である。
 その晩、彼は御機嫌のようだった。リアルタイム会議に行き、すこしの間な
んということもない雑談をした。

 「実はいますこし飲んでいるんですよ」と、文字が流れた。
 「実は、わたしも」とタイプする。
 「乾杯しましょう!」
 「乾杯!」

 そして、オアシス100HのCRT上の緑色の文字を眺めながら、わたしは
20キロメートルほど離れてやはり通信画面をみつめているはずのオアシスの
開発者を思い浮かべて、缶ビールをぐいと飲んだ。

89/02/12


15 二百行空間のひそかな楽しみ

 電子ネットワークは、ある種の空間として意識される。
 わたしのわずかな経験から言うと、ニフティ・サーブの電子空間は「短い」
ではなく「狭い」と感じられる。わずか512のメッセージで一杯になってし
まう会議室は、その発言可能な数の少なさが議論あるいは雑談の質をも規定し
かねない。

 しかし、ここに超ミニ電子空間が出現した。
 全部でわずか二百行である。
 「ホームパーティ」について知ったとき、二百行でなにができる?とわたし
は否定的だった。
 しかし、すぐに「ホームパーティ」開設の通知が来るようになり、実際に行
ってみると、二百行という制約自体が奇妙な面白さを生んでいるように思えて
きた。
 文明というものは、厳しい自然の挑戦に対する応戦として生まれてきたので
ある・・・などと声を張り上げてもしかたがないので、ここでは単に二百行の
制約からうける印象についてだけ述べる。

 二百行空間にアクセスすると、いままでいかに「飽食の電子空間」に生きて
来たかがわかる。資源は二百行しかない。フォーラムではふつうの発言でも三
百行使えるのだから、ひとつの発言行数にも満たない。
 で、このほとんど四畳半のような狭さの部屋に、わいわいガヤガヤとおおぜ
いのひとがやって来る。そしてみんながなにか口々に言うのだ。
 ひととひととの距離が近い気がする。
 電子ネットワーク上でややかしこまった議論などをする場合のひととひとと
の距離に比べて、この超ミニ電子空間ではひとと肩が触れ合いそうになる。い
やそれどころか、押し合いへしあいしている感じさえする。

 書込みは行数を意識して改行が少なくなり、内容も簡潔になる。何番にコメ
ント、というやり方もできないし、タイトルも発言者名も、いわば自分の手作
りとなる。ようするに不便だ。
 しかし、その不便さがまた「挑戦に対する応戦」の意欲をかきたてる。ここ
でなにかできないか? ひとり1行のリレー小説ができそうだ。「サラダ記念
日」じゃないが、短歌をつくるのもいい。
 フォーラムは半ば公開された場所だが、「ホームパーティ」はCUGのミニ
版でもあるから、いわば親しいもの同士の「路上の立ち話」といったおもむき
がある。二百行を越えると、はじめの部分は消えていってしまうから、きっち
りした議論をするのには向いていないようだ。

 システムをつくるひとは神ではない。
 「ホームパーティ」のデザインはそれほど深い意味があったわけではないだ
ろう。二百行空間というサイズも簡略化された機能も、純粋にビジネスの視点
から決められたものだろう。しかし、いったん「ホームパーティ」というシス
テムが動き始めると、利用する人間の意図や思惑が「ひとのにおい」をしみつ
かせる。つまらないシャレから内緒のデートまで、ありとあらゆるひとの営み
の断面。

 「ホームパーティ」は面白い。しかし、心配になってきた。
 五十も百も「ホームパーティ」ができたらどうしよう。知り合いの家をつぎ
つぎに訪ねるように、飲み屋のハシゴをするように、「ホームパーティ」を巡
回する。どうも電子ネットワークが未来的コミュニケーションであるとは言え
なくなってきたようだ。

89/02/13


16 ネットワーカー老いやすく・・・

 電子ネットワークの中では、特殊な時間が流れている。
 とても時間の経過がはやいのだ。

 はじめて電子ネットワークにアクセスしてみると、いくつかの電子会議シス
テムがあるのに気がついた。なにか刺激があるように思える。おおぜいがガヤ
ガヤと会議をしているらしい。
 自分の興味と重なりそうなところに行ってみる。中身は千差万別だ。深刻な
議論をしているフォーラムがあるかと思えば、雑談のゴミがうずたかく積み重
なったフォーラムもある。看板と中身がどう考えても一致しない不思議なフォ
ーラムもある。

 でも、とにかくタンポポの種子が根を生やす土地を求めるように、とりあえ
ず着地しようと思う。
 ひとつのフォーラムを選び、会議室を読み始める。
 電子会議型コミュニケーション(フォーラムのこと)の場合にはいわゆる常
連というのがいて、彼らのあいだではよくわからない隠語みたいなものが飛び
交い、話題はつぎつぎにジャンプしてどこに行き着くとも知れず、そしてコミ
ュニケーション自体の運命すら定かではない。
 どんなふうに、この議論とも雑談ともいえない不思議な雰囲気に参加してい
けばいいのだろうか。
 縄飛びしていて、飛び込むタイミングをはかる、そんな感じ。

 はじめての発言。
 どうもうまく議論にのれない気がする。だれかの発言へのきつい批判になっ
てしまったのでアップロードはあきらめた。つぎのは無難にまとめようとした
ので何をいいたいのかわからない。自己嫌悪。その日はアップロードをあきら
めた。
 つぎの日。なんでこんなにがんばらなければならないのか。自分でも不思議
だ。とにかく、息もたえだえでひとつの発言にコメントをつけた。あがってし
まって主旨がはっきりしない。
 その晩は1時間おきにアクセスして誰かがコメントしてくれないかと待って
いた。しかしだれのコメントもつかない。落ち込んだ。

 じぶんの発言にコメントが付く。これが、ネットワーカーの成長の第一段階
であると言っていい。自分の書込みにはじめてコメントがついたときのうれし
さ! コメントがほしい。その一心で書込みをつづける。そのうち、ウケを狙
いたくなる。これが意外にウケない。再び落ち込む。
 慣れてくると、書込みをしたり、ひとの発言にコメントをつけたりすること
が自然になってくる。ゴミが増える。調子に乗ってしまい、あたり構わずゴミ
を撒き散らす。
 そのツケがまわってくる。筆禍、いや舌禍だろうか? 軽い気持ちで書いた
コメントにおおげさな反発が返ってくる。大変なことになってしまった。わた
しはネットの中で孤独だ。アクセスするのはやめようか。
 ネットの中では、時間は十倍もはやく過ぎる。幼児はあっという間に反抗期
に入り、またたく間に成人する。
 そう、傷が癒えるのもはやい。時間が傷を癒すなら、ネットの傷はすぐ癒え
る。

 ・・・そんなこんなで一年も過ぎれば、背中に苔の生えた大きな亀みたいな
気分になってくる。浦島太郎を乗せてはいないが、浦島の記憶の断片のような
ものがフジツボそっくりに甲羅に張りついている。
 「昔はよかった」或いは「お前たちは昔を知らない」というような言い方を
するひとを老人と呼ぶなら、一年まえのことすら懐かしむネットワーカーは間
違いなく老人である。

 暗い映画館の映写幕に古いサイレントの映画が写っている。
 俳優たちは蒸気機関車に追いかけられたり自動車にはねとばされたりしなが
ら忙しく活躍する。悪人との立回りも美女との恋も、なにもかもめまぐるしく
過ぎてゆく。コマ落としの人生。
 ネットワーカーの人生は、もしかしたら、あれだな。

89/02/15


17 ネットことばの考現学−その1−

 電子ネットワーク上でのおしゃべりに参加してみると、ひとりひとりの持っ
ている言語感覚が千差万別であると実感できる。或いは、ことばの意味につい
ての解釈が違う、感覚が違うと言ったほうがいいのだろうか。
 過激な表現の割には論旨が過激でないと何だか薙刀(なぎなた)でタマネギ
を刻もうとしているみたいだし、看板に偽りありだな、と思ったりする。
 その逆に、あまりにも遠回しな表現の場合は、こちらが気がつかない。おそ
らくデリカシーのないやつだと思われているだろう。

 事実と言語表現のアンバランスは事実をパロディ化する。
 そのことが意識されていればいいけれど、そうでないときは本人は真剣、傍
観者は苦笑いということになる。

 いずれにしても、ネットはことばに始まりことばで終わる。
 電子ネットワーク上でのこうした感想は「じゃ、普段ひとと話している時は
どうなんだ?」という疑問を生む。
 そう、たぶん誤解はあるだろう。しかし、会話は一種の「総合芸術」であっ
て、ことばの他に相手の表情や身振り手振り、姿勢や視線、声の調子、話して
いる場所と時間、そのひととそれまでに過ごした時間の質と量などが情報とし
て与えられる。
 逆に言うと、そうした情報が十分でない相手には警戒心がはたらいて、話し
合うにしても遠慮したり隠したりしているのだと思う、普段は。
 また、会話では場面の転換もはやい。場面の転換の道具は、一本のタバコだ
ったりちょっとした冗談だったり、トイレの中座だったり。

 電子ネットワーク上では、与えられた情報はことばの意味と表現だけだ。
 おもしろい実験であると同時に「相手の表情や身振り手振り、姿勢や視線、
声の調子、話している場所と時間、そのひととそれまでに過ごした時間の質と
量など」が一切欠落している。
 情報が不足しているから、自分の思い込みが増幅されがちだ。
 悲劇の原因は情報の不足だ、と寺山修司も言っていた。
 そのくせコミュニケーションのための道具だけは整備されている。これは皮
肉だろうか?
 ひとつのテーマについてのおはなしの流れはなかなか方向を変えにくくて、
なんらかのトラブルがあったりすると「くらい影」がいつまでも尾を引いたり
する。おお、こわ。

 ネット上でわれわれは相手の「ことばの意味と表現」をなぞりながらひとつ
の人格をイメージし、その架空(?)の人格に向けてコメントしたりしている
のだろうか。

89/02/18


18 吉祥寺ワープロ日記

                 1

 去年の暮れ、はじめて持ち歩けるワープロを手に入れた。
 幻の名器?FROM9MDである。

 このプリンタ分離型通信ワープロの元祖はあまり売れなかったらしい。
 しかし、通信仲間にはこれをもっているひとがごろごろいる。やはり、異常
な世界なのだろうか・・・先日4人で会ったらそのうちのふたりがFROM9
MDを「持参」していて、わたしをふくめて3人が所有しているという恐ろし
さだった。

 FROM9MDについてはずっと前から知っていたが、買う気にはならなか
った。スペックが貧弱だと思われたし、その割に大きく、値段も高く、デザイ
ンが好きになれなかった。しかし最近になって持ち歩ける通信ワープロがほし
い、と切実に感じるようになってきた。条件は、

  親指シフトキーボード
  通信機能(モデムを内蔵できること)
  できるだけ軽いこと

の3つ。結果的に残ったのは、FROM9MDだけだった。
 この古い(!)キカイを手に入れるまでにはずいぶんと抵抗を受けた。
 販社は「もう作ってない」といい、押し問答を繰り返した。

                 2

 FROM9MDが到着すると、操作説明書など読まずにさっそくまちに持ち
出した。うれしい。デスクの上のワープロの前にいるときよりも持って歩くほ
うが楽しいのはなぜだろう。
 わたしも今日から「歩くワープロ」派なのだ。

 どこで「ワープロする」のがいいか?
 「歩くワープロ」の先輩たちは電車のなかでも喫茶店でも人目も気にせずに
ワープロしているようだが、わたしは気がちいさいのでそうはいかない。そう
かんがえると、意外にもワープロする場所がすくないのに気がついた。

 図書館。キーボードを叩く音が静かな閲覧室に響き渡るであろう。

 ホテルのロビー。ま、合格。都会的な無関心が素敵だ。

 公園のベンチ。冬はつらい・・・。

 新幹線。となりの席のひとの視線が気になるだろうな。

 山の手線。わたしには勇気がありません。

 墨田川の遊覧船。これはいけそうだ。しかしわたしは船に酔いやすい。

 デパートの階段に置いてあるベンチ。くらい・・・。

                 3

 吉祥寺はちょっと間延びしたような雰囲気のある東京西郊の盛り場である。
 学生も多い。ひとむかし前にはアングラっぽい店が多かったが、いまでは新
宿と渋谷を足して水で薄めたようで、大して特徴のない店ばかりだ。
 しかし、わたしの自宅からは最も近い盛り場なので、なんとなく出ていくこ
とが多い。あれこれ考えておもいあぐねて書店めぐりをすることもあるし、娘
を連れてデパートの屋上の遊園地に行くこともある。
 いまの場所に住んでまだ2年もたたないが、吉祥寺は何となく「わたしのま
ち」という気がしてきている。

 店はだいたいのんびりしている。客の回転だって決して早くはないだろう。
 そのことは、居座ってワープロを叩くのには好都合だ。

 わたしの自宅から吉祥寺までは京王井の頭線でほんの3、4分。吉祥寺にお
りると駅前のサンロードをぶらぶらと歩いていった。

                 4

 どうも気に入った店がない。ひとの視線が気にならない店を探していること
に気がついた。

 「歩くワープロ」の達人たちの話を聞いていると、ひとに見られることなど
気にしていないらしい。そうだ、彼らは自分の打鍵速度に自信を持っているん
だ・・・それにくらべて、オレは・・・。
 しかし、FROM9MDは手元にある。「歩くワープロ」を実践するぞ。

 結局「マクドナルド」にした。フライポテトとコーヒーを手に、2階に上が
る。女子高生のグループやこども連れの主婦たちの間に席を占める。テーブル
にFROM9MDを出すと、カタカタと打ち始める。照明の状態はグッド。

 落ち着かない。だれも見ちゃいないのに、自分ひとりで気にしてる。しかし
ここで気がついた。膝の上に乗せて打つのは実に気楽なのだ。
 だんだん調子に乗ってくる。こうなれば誰が見てようとかまわない。思考に
指が追いつかない。いくつかの思いつきがフラッシュのように光り、息がつま
るようになってくる。ああ、もっとはやく打鍵できれば。

 いえに帰ると、ネットに接続して、さっきつくった文章をメールとして送信
した。儀式のようなものだ。わたしの「歩くワープロ」派になったということ
の確認の儀式。
 これからはFROM9MDで作った文章をネット経由或いはモデム直結で自
宅の100Hに吐き出すことになる。

                 5

 いつもの悪いクセだ。「歩くワープロ」というコンセプトなのだからと、ま
ずスタイルから入ってしまう。
 とにかくワープロは準備した。
 つぎには、芯の太さが0.9ミリのシャープペンシル。サインペン。メモ用
の黄色いコピー用紙少々。針の長さが25ミリもあるばかでかいステプラーで
綴じた資料本も。
 それに、そう、音だ。CDプレーヤーが欲しい。移動中のアイディアフラッ
シュ(なんてもんじゃないが)にはシステムダイアリで対応しよう。
 そして、それら全部を入れるカバン。アウトドア用のヘビーデューティーな
ものにした。

 というわけで、はじめてCDプレーヤーを買うことになった。ソニーのディ
スクマン。CD16枚組の「ビートルズ全曲集」とビリー・ホリデイのコンプ
リートコレクション、アマリア・ロドリゲスのファドも。

                 6

  ワープロの世界は進歩がはやい。
 もうFROM9MDなんて、みんな忘れてる。
 しかし実際に使ってみると、「持ち運べる文書作成/通信環境」としてまだ
まだ使えると感じられる。
 なによりも操作性が上位機種とほぼ同一であること、モデムを内蔵している
ことがすばらしい。
 見にくい液晶画面はだましだまし使う。デイスプレイを支える軸の部分はま
だ折れない。フタの押さえにはヒビが入ったがそれにも耐える。
 健気なユーザーだ、けなげなキカイだ。

 しかし重い。2.5キログラムの重さはそれだけを持つのはなんとかなって
も、他にすこしでも荷物があったら手が伸びて背が縮みそうだ。
 これは冗談ではない。

 こんなに重い「紙と鉛筆」は他にはないだろう。
 半分の重さの「歩くワープロ」がほしい。切実な願いだ。

                 7

 サンロードの喫茶店に入ると、ワープロを打っているひとがいて、ドキッと
した。
 彼はプリンタ付きのポータブルワープロをテーブルの上に置き、一心不乱に
キーボードを叩いている。その姿はちょっとドンキホーテみたいでもある。わ
たしもあんなふうに見られているのだな。

 喫茶店でワープロする彼はいまはまだ稀れな例だ。
 「喫茶店でワープロ」はどうも自然ではない。あとどれくらい経つと「喫茶
店で別ればなし」と同じくらい当たり前になるのだろうか。

 しかし不思議だ。ヨドバシカメラでも秋葉原でも、あれだけワープロが売ら
れているのに、まちを歩いているワープロは皆無といっていい。
 みんな家にこもりきりなのだろうか。いや、持ち歩いているほうが不思議な
のだろうか。

 「歩くワープロ」は軽快なコンセプト。
 むずかしい理屈は柄じゃない。
 歩き、思いつき、書きつける。スニーカーのようなワープロ。

 当然、わけのわからん飾り機能なんてひとつもいらない。
 なぜウォークマンは成功したか? ザブザブと洗って、無意味な化粧などみ
な流してしまえ。

89/02/19


19 わたしのシステム手帳遍歴

 御多分にもれず、システム手帳を所有している。
 最初に買い込んだのは、「ファイロファックス」だった。リフィルは手作り
でいこうと決め、当時使っていた My OASYS 2S でフォーマットをあれこれ作
っていた。
 次に買ったのは「タイムシステム」。
 ここではシステムとして受け入れようと試みた。
 で、いま最も愛用しているのは「システムダイアリ」である。

 「ファイロファックス」は高かったが、耐えた。ひとつのシステムであるこ
とが何よりも気に入ったし、リフィルが揃っていることも信頼感があった。し
かし自作のリフィルを主体とすることにし、「生涯カレンダー」や「諸経費支
払いチェックリスト」など、いろいろな時間尺によるリフィルを作った。
 またいろいろな資料の縮小コピーも綴じ込み、これひとつでなんでもやって
やろうと思っていた。
 喜んで使っていたが、だんだん不満がでてきた。
 やはり一覧性が低い。沢山リフィルを入れていると太ってきて持ちにくい。

 で、ファイロと並行して使おうとタイムシステムを買った。これはゾッとす
るほど高かった。しかし好奇心には勝てなかった。
 タイムシステムはリフィルがほぼシステム化されているので、自作ではなく
システムを理解しようとした。良くできたシステムで、そこに安住すれば不満
なくつかいこなして行けるように思った。
 タイムシステムを使っていて思ったのは、わたしのしごとと生活が分刻みで
はないことだった。すごく忙しくて毎日何人ものひととの打ち合わせをこなす
ようなしごとをしているひとにはいいだろうが、わたしが使ってみるとアポの
欄はがらがらになるのだった。
 しかしA5サイズというのは使いやすいと感じた。A4二つ折りを併用する
と、一覧性の問題はなんなくクリアできそうだった。

 ところで、ここで問題がひとつあった。
 ファイロにしてもタイムシステムにしても、なにせ大きい。それ自体がカバ
ンだと思えばいいが、重さはカメラ並みだ。そして、まちを歩いて見聞きした
ものからの発想を書きとめたり、読んだ本からの連想や感想などを書いたりと
いったスナップカメラ的な使い方をしたくなってきていた。

 そこで、三度目の手帳探しである。
 銀座の伊東屋に行ったり、渋谷の西武ロフトに行ったりしていろいろ探した
末に、結局選んだのは「システムダイアリ」だった。

 システムダイアリの役目は「スナップカメラ」に徹することにした。リフィ
ルは黄色無地だけにした。まちをぶらぶら歩きするときも、寝るときも、いつ
も手元に置いておくことにした。

 いまでは、ファイロとタイムシステムは「読む手帳」「参照する手帳」にな
っている。資料の縮小コピー、住所録、都内地図、電卓、カード型のFMラジ
オ(!)など。
 つまり、もはや手帳とは言えない。
 特にタイムシステムは完全にデスクトップで長期のスケジュール管理用にな
った。
 学生時代以来、試行錯誤ばかりだったわたしの手帳遍歴も、A5システムと
システムダイアリの併用で当分は落ち着きそうである。

89/02/20


20 女性ネットワーカーの研究


 アクティブな女性のネットワーカーはすくないようだ。
 電子ネットワークにおける男女の比率は知らないけれど、まだ圧倒的に「男
の世界」である。

 やっかみ半分で言えば、女性ネットワーカーはモテる。
 これは間違いない。
 ネットでは皆平等、などと言っているけど、女性のネットワーカーはかなり
「特別扱い」されているような気がする。日常生活ではあり得ないくらい。
 女性ネットワーカーの自己紹介に歓迎メッセージがウンカのように集まるの
を見ると、みんな懲りないな、といつも思う。
 女なまえと間違われやすいひとは、被害甚大だろう。わたしには経験がない
が、男からのお近づきメールは気持ちわるいだろうと思う。

 やってきたばかりの女性ネットワーカーがすぐにマドンナ的存在となり、親
衛隊ができ・・・という構図は、いい加減にしてほしいと思うが、あまりに普
遍的な出来事なので、言うのもはばかられる。
 では、自分はどうかというと、歓迎メッセージを書きたいが書けない気の弱
い二軍選手である。ああ。

 「文体美人」というものがある。
 なんとなくひきつけられることばづかい。おんなの雰囲気。素敵なひとだと
断定しかねない。ネットで特にモテるのは、こうした「文体美人」であるよう
だ。
 詳細に観察すると、文章表現におけるこうした「おんならしさ」は簡単にコ
ピーできそうでもある。

 女性ネットワーカーの実像はこうだと一言で言うことはできないけれど、わ
たしの会ったことのある女性たちはみな快活で理知的だった。
 はっきりと意見を言うし、さっぱりしていて楽しいひとが多い。
 わたしにははっきりとはわからないけれど、「モテすぎて」うんざり、とい
うひともいるのではないかと思う。メールや SEND でお誘いの連続ではたしか
に疲れるだろう。しかし、なにを頼りに誘うんだろうか?

 おとこたちの女性ネットワーカーに対する「特別扱い」は、西部劇の時代に
も似ていると言ったら言い過ぎだろうか。。駅馬車から下り立つ東部の婦人を
みつめるカウボーイたち・・・女が足りないからなあ。
 いずれにしても、ちょっとユーモラスな男と女の関係が、電子ネットワーク
上で繰り広げられる。

 しかしなにしろ、ことばだけの世界である。ここでの出会いは、賭け、です
ぞ。

89/02/23

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