Short Stories
 
1
 海に降る雨
 

 生まれてからきょうにいたるまで、ぼくは太陽を見たことがない。
 ぼくが生まれる以前から雨は降りつづいていて、一日たりとも止んだことがない。毎日バケツの水をぶちまけたように降りつづける雨。ぼくの住む人工の島を雨がすっぽりと囲いとっているように見える。
 おとうさんもおかあさんも、太陽の輝く風景について繰り返し話してくれる。
 夏の太陽はとてつもなく強烈で、こどもたちは麦藁帽子をかぶらないと日射病にかかったりした、特に浜辺なんかでは。
 浜辺に寝そべって、目をつぶっていても、まぶたはじりじりと熱くなる。そして、まぶたの裏にも太陽のオレンジ色のまぶしさが棲みはじめるんだ。汗が額に湧き出てきてそして一筋の流れとなってみみたぶに届く。
 砂浜を走るこどもたちの声が波の音に消されて、その波の音がだんだんにおおきくなって。
 
 学校から帰ったぼくは、じぶんの部屋の窓ガラスを洗う雨粒を見ながら、この雨はいつになったら止むんだろう、と思った。
 島は陸地とは隔絶されたひとつの小さな国みたいなもので、そこの空気は陸地とは違い、規律だって他とはちがう。ぼくらはチューブのような通路を通って傘をささずに家と学校をあいだを往復できるけど、傘はぼくらがかならず持たなければならない、しかし一度も使ったことのない道具だ。
 ぼくの住む高層住宅からは、雨脚にさえぎられて海は見えない。しかし海はすぐそこにあり、ゆるやかにうねっている。雨は海を叩き、海に溶け、海そのものとなる。
 ぼくは窓ぎわをはなれ、テレビのスイッチを入れる。画面がゆっくりと明るむと、やがて地平線に最初の光が射し始めた……。
 
90/07/09
 
2 砂の回廊
 
 あたしがときどき散歩にいくのは、古代都市の遺構のあたりです。
 あのへんはときどき奇妙な声がしたりするのですが、まあ静かだし、昼寝をしている何人かの男たちをのぞいてはひとに会うこともまれなので、あたしのお気に入りのコースになっています。
 
 特に都市の核心部ともいうべき王宮の、そのまた中心に位置する玉座のあたりには、数千年をへた今でもある種の霊気のようなものが漂っているように思えます。
 あたりはただの草の原で、ここに柱があった、ここに倉があったと建物の位置をしめす標識がそこかしこに立っているだけです。でも、その標識の燃え立たせる想像力はどんなに忠実に再現された建築群よりもリアルにあたしを古代にひきもどします。
 
 あたしはよく晴れた午後にはその玉座のあたりを巡りながら、いままでにさよならした何人かの恋人のことを思いおこします。
 最初の恋人を失ったのはいつのことだったでしょうか。ずいぶん前のことになります。あたしは嫉妬から毒を盛ったのでした。彼は墳墓に埋葬され、埋葬の終わった夜には墳丘を巡って数知れぬ松明が燃えていたのをおぼえています。
 
 二番目の恋人を失ったのはそれから三百年ほどたってからです。三番目のこいびととは、生き別れでした。いまから二百年ほど前のはなしです。
 憎むでもなく悔いるでもなく、あたしは彼らを思いだしながら歩きます。そして、いつも辿り着くあたしの記憶のはじまりには、砂の舞う光景があります。
 あれはどこなのだろう? 莫大な量のこまかな茶色の砂が、長大な石の回廊を移動していくのです。それは象の大きさのナメクジのようでもあり、匍匐前進する兵士のようでもあります。あまりにも古い記憶なので、年代も場所も定かではないのですが。
 
 記憶をたどるのに疲れると、あたしはひとつちいさな伸びをして礎石のひとつに腰を下ろし、羊の群れのような雲を眺めます。
 天気さえよければ、あしたもここに来ることでしょう。
 あたしの未来は、なんとなく過去に続いているような気がしています。
 
90/07/10
 
3 雲海の果て
 
 雲の中に隠れていると、そりゃ安全だった。
 と、煙草を持つ手すらおぼつかない老人は急に語りはじめた。
 
 戦闘機というものはな、つばめみたいに身軽じゃなきゃならん。そして鷹のような目で三百六十度に気を配り、どの方向から忍び寄ってくるかわからない敵機に一瞬でもはやく反撃しなければならんのだ。俺たちのそのころの任務といったら、よたよたした爆撃隊の護衛だったから、毎日がそれはそれはじりじりと鉄板の上で焼かれるような日々だった。敵は俺たちを見つけるとゆっくりと料理にかかる。分厚い装甲に守られたやつらは、俺たちの放つ機銃弾をものともせずに接近し、一撃を与えると一気に離脱していく。そのはるかな軌跡は戦いの最中でも結構美しいものだった。
 
 ある日の戦闘で、気がつくと俺たちの護衛していた爆撃機の編隊はすべてが消えていた。下方に目をこらすと、黒煙を上げながらきりもみ状態で落ちていく味方機があった。それが最後の一機だったに違いない。落ちていく先には完璧に美しい海があり、その只なかに細い眉のような珊瑚礁が浮かんでいた。緑色の弧を白い砂浜が縁どっている。そこにはひとは住んでいない。もっぱらヤシガニの王国だ。
 
 敵機はアブのようにあたりを飛びかっていた。
 劣勢はおおうべくもない。撤退は不可能に思えた。瞬間的な判断の連続で、絶望感にひたる余裕もなかったそのとき、俺の目には巨大な雲がまじかに湧き上がってくるのが見えた。それはずんずん膨らみ、意思を持った巨人のように腕をのばし、あたりを睥睨していた。仁王様だな、と俺は思ったよ。複雑ないくつもの螺旋を組み合わせてどんないぢわるな教官も感心するような航跡を描いた末に敵機の追跡を振り切ると、俺はその雲の中につっこんでいった。
 
 ふいにあたりが静かになった。敵も味方も見えない。濃いミルクのような雲の中を飛び、俺は何秒くらいで突き抜けるか計算していた。おそらく、三十秒かそこいらで、またおっかけっこがはじまるだろう。
 しかし、なにかがへんだった。そのまま数分飛びつづけて、雲は途切れず、むしろもっともっと濃くなっていくようだった。その雲は操縦席にまで滲み通り、俺自身にも滲みていくようだった。なにもかもが白くなり、俺の乗る機体も俺自身も、次第に雲に溶けていった。
 
 そのあと、どうなったかって? それを話さなくちゃならんな。
 俺は飛び続けている。
 あんたは俺がよぼよぼの年寄りで、五十年前の昔ばなしをしているというふうに見えるだろうね。しかし、あんたの目にみえる俺は、俺ではない。俺は操縦席にくくりくけられたまま、途切れることのない雲の中を飛んでいる。
 そこは真昼でも真夜中でもない曖昧な空間だ。時間が流れているのかさえさだかではない。俺はひとりの老人に今の瞬間だけ宿り、そして語るのだ。
 
 ……そんなことを言う老人に会ったよ。ぼけてんじゃないのかな。話し方にはほんとかなって思わせるところもあったけど、そんなはずもないし。
 あ、でも、ひとつだけ奇妙なことがあった。
 その老人の声、いまから思いおこすと、不思議なくらい若々しかったな。
 
90/07/13
 
4 周回軌道にて
 
 ひと呼吸する間に夏雲を突き抜け、急に浮かんできた痛い思い出を束の間追いそしてあきらめるまでに成層圏をも通過していた。窓から見える空は漆黒へと変わり、いくつもの星と唯一の太陽の輝きが真空と対峙しはじめる。
 地球の周回軌道に乗ると、つかの間の静寂が訪れた。乗客は数えるほどしかいない。わたしはテーブルを引き出すと、手帳を取り出した。
 
 「……空港は真夏の陽光に焼かれ、いく筋もの陽炎をたちのぼらせていた。気温はおそらく四十度以上だろう。日の光を遮るものもない空港の分厚いコンクリートの上では、乾燥しきった空気は燃え上がる寸前のような殺気さえ感じさせる。」
 
 飛行を繰り返していると、搭乗前の緊急脱出についての説明にも飽き、巨大な有翼機の美しいというほかない流線型にも感動しなくなるものだ。ところが今日はすこし違っていた。滑走路に向けてゆるゆると灰色の巨体が動き出したとき、窓から外を見ていたわたしの目に映ったのは一群の地上勤務員だった。彼らは一列に並び、われわれに向かって敬礼すると、一斉に手を振った。
 
 いままでの飛行のたびに、彼らの姿は目に入っていたはずだったが、わたしにはなんの記憶もない。しかしたしかに彼らは砂漠の砂の上に生きるもののように立ち働いている。そこには完成された手順があり、それにしたがって彼らは出発を整え、整列し、手を振って星へと旅立つひとを見送る。
 日常のしごとの中に、別れることが組み込まれていて、それを淡々とこなす。
 なかなかいいもんだ、とわたしはひとりでうなづいた。
 
 「ひとには二種類あって、ある種のひとたちは自分で制御できない架空のシステムにつきうごかされるようにして切符を買い、家のドアを閉める。そしてまたあるひとたちは毎日同じ場所に行き、そこでいつものひとたちと顔を合わせ、繰り返しているために言わないと落ち着かない種類の冗談を言い、決められたいくつかの手順を片づけて、やがて、太陽が斜めに射して来ているな、と気がつく。」
 
 わたしは小さな窓から彼らを追った。やがて機体がゆっくりと向きを変えて、その姿は見えなくなった。しかし、そのときわたしには彼らがつぎの手順に向けて、燃えるように熱いコンクリートの地面をゆっくりと歩きはじめたことが分かっていた。
 
90/07/29
 
5 海から来るもの
 
 グラスは持ったかい?と尋ねる声がした。
 誰もがしんとして、黙りこくって、膝をかかえて、待っている。
 待つってことは、人間に許された数少ない美徳のひとつだ、と誰かが言った。
 クスクス笑う気配。
 
 しかし、待ち過ぎるのはまずい、と別の誰かが言った。
 待ちすぎると、いろんなことを考えた末に、もとの思いつきに戻ってくる。そうすると、もはや他には行けない。じっと、その、ひとつのことを思いつづける……ああ、俺たちはなにを待っているのだろう。みんな、ひとつの思いから出発して、いくつもの世界を遍歴して、そして、戻ってきたかい?
 ああ。戻って来たぜ。おれたちがかんがえていることは、ひとつだ。
 
 そう。と、女の声がした。
 わたしたちはひとつのことを思ってる。それって、素晴らしいことなのかも知れない。人間がひとつになり、だれもが他人を謗(そし)らず、反目せず、目が会えば微笑むような世界が現れたのだわ。
 
 だれかが溜め息をついた。
 しかし。皮肉なもんだ。そんな理想の世界、この五千年くらいのあいだ夢見られて来た世界が今ここに現れて、そして、その世界はカゲロウのようにあっと言う間に息絶えてしまうなんて。
 
 いや。決まったわけじゃない。おれたちが生き延びて、そして、あたり一面の瓦礫の山を手を使ってかきわけ、ひとつひとつをゆっくりと片づけて、また粗末なまちをつくり、こどもを生み育て、街を再びにぎやかにして、そしておたがいが憎みあったり陰口をきいたりする世界を、一刻もはやく造ろう。おれはそう思ってる。
 低い笑い声。
 
 あと五分もすると。すこし震える声が聞いた。どんなものが来るんだろう。ぼくには想像もつかない。どこにいても逃げようもない、そんなおそろしいことってあるのだろうか。突然海が壁のように立ち上がり、それが音の早さで大洋を渡り、湾に侵入し、そしていままでの何倍もの高さになって深い山奥にまで駆けのぼっていくなんて。
 
 ああ。自然てのは、全部を知り尽くしたと思っても、実はそうじゃない。あきらめて、待つんだね。いたるところで海水が何十メートルも何百メートルも盛り上がり、それが水平線の向こうから現れるのを。そついはなにもかも破壊するだろうが、洪水のあとに生き残るやつがひとりやふたりいると仮定してもいいだろう。
 
 窓の外を見ていたひとりがつぶやいた。あ。やってきた。何分かすると、あたらしい創世記がはじまるのだね。束の間の理想郷に、乾杯!
 
90/07/29
 
6 ジギジギ、黄昏にかえる
 
 きのう学校から帰ってきたとき、ジギジギがアトリウムの床を這いまわっているのを見かけて、すこし元気がないなと思っていた。
 彼は最初にぼくが設定したアトリウムの一隅の領域から決して出ることなく、あたりを這い、銀色の触覚を細かく動かしながら緑の植物に触れたり、その陰で眠ったりする。ぼくが学校に行く時は身をすりよせてくるが、自分の領域から出られないものだから、その境界ぎりぎりに身を乗り出してふたつの目をいっぱいに見開いて悲しそうな素振りをする。そしていつまでもぼくのうしろ姿を追っている。かわいいやつだ。
 
 ジギジギはぼくが足を棒にして探した部品のコレクションの最良のを集めてつくった自慢の作品だった。銀色の完全な半球形の甲羅と短い首、そしてその上に乗ったちいさなヨーヨー型の頭を持つ虫とも動物ともつかぬ生き物。足は六対の節足にした。触覚は思いっきりながく、針のように細くした。
 亀のように愛嬌のある胴体、想像の宇宙人のような奇妙な頭と大きく輝く目、ぼくの好きな甲虫そっくりの足を持つこの地球上に1匹しかいない生き物にぼくは「ジギジギ」という名前をつけた。そいつはぼくの幻想の手触りであり、すりよってくる金属製の友情だった。
 
 ぼくが「工房」であいつを造り出したのは、ほんの半年ほど前。入学試験が終わり、合格の喜びにひたり、そして新しい学校に行くのを待つだけの弛緩した春の午後のことだった。「工房」はぼくの城であり秘密工場であり夢を捏造する悪い場所だ。
 ぼくは自分の好きなかたちを集めて、最高に好きなかたちをした生き物をつくろうとした。好きで好きでたまらない細部を集めると、もっとも好きなものができあがるなんていう考えは、思慮が足りなかったと、いまになって思うのだが。
 
 できあがった生き物はどう控え目に見ても美しいとは言えない代物だったが、しかしぼくはすごい愛着を感じた。なにもしゃべることはできないが、ぼくのそばをいつも離れようとはしない。
 そいつがきょう死んだ。同じ部品をまた買い集め、組み立ててジギジギと寸分ちがわないのを作ったとしても、そいつはジギジギじゃない。
 ぼくは泣きながらジギジギを分解して部品に戻していった。ぼくが死んだら父親と母親はぼくをこんなふうにして部品に戻していくんだろうか。そして、その部品をながいこと見つめつづけるのだろうか、と思いながら。
 
90/08/08
 
7 サイオンの背に乗って
 
 卒業式のさびしさは、これから出会うことへの期待よりもちいさい。
 校長先生が卒業証書といっしょに渡しているちいさな箱。あの中には、ぼくがもうひとつの世界に出会うための道具が入っているはずだ。
 
 地面に半ば埋もれた竜の化石の、脊椎のひとつひとつを知り尽くしている。熱い太陽の下で白く輝く巨大な生物の骨格はぼくの最良の遊び場だった。その古代の竜の場所はぼくらの成育拠点から息せききって走ったなら三分のところにあって、ものごころついた頃からぼくはその大きな肋骨の隙間にうずくまって空想にふけったり、山の稜線のように空にそびえる脊椎をたどって雲に近づこうとしたりした。脊椎の頂きからあたりを眺めると、砂まじりのかたい土が熱く焼かれている風景が目に入る。それがぼくの唯一の故郷だ。
 
 卒業の翌日、ぼくはこの砂に洗われるまちを出発し、サイオンという生き物の背に乗って旅に出る。いくつもの都市の遺跡のそばをすぎ、かすかな伏流をかぎわけながら。その旅は真昼の日差しを避け、もっぱら夜に行われる。昼間は朽ちた建物の陰やサイオンの腹の下でカプセルにもぐりこんで眠り、夜が明けるまで満天の星の下を走りつづける。
 
  そして数日後、うっすらと明るむ砂の地平の果てにいくつもの塔のようなものが見えてくる。「塔の森」はきらきらと輝いている。ぼくがおとなになる場所。ぼくの夢が見知らぬひとの空想と出会い、おたがいの信号を廃滅させてつぎつぎに意識のレベルを高めていく場所。
 
 竜の肋骨のかたわらでぼくは箱を開け、ちいさな巻き貝のようにみえるやわらかな装置をとりだした。それを耳にゆっくりと挿入していく。かちり、と音がしたような気がした。胸の鼓動が聞こえる。旅をはじめる準備は整った。まずはぼくの乗物を呼ばなければならない。ぼくは目を閉じてサイオンに呼びかけた。その大きさや姿かたちを思い描きながら。
 
90/08/15
 
8 デートは終わらない
 
 レイコがはじめてデートした相手は、親友のミドリの彼の同級生だった。
 長身でやせていて、サッカー部にいるし、顔もまあ合格だわ、とミドリに紹介されたとき内心思ったけれど、実際にはよろしく、というのが精一杯だった。
 彼はノブヒコといって、けっこうキザなやつだった。渋谷のハチ公前で待ちあわせてはじめてふたりだけで会った日、いきなり腕をつかまれたのにはムッとしたけれど、決して悪い気分はしなかった。わたしたち、うまくやっていけるかもしれない、とレイコは思った。
 
 公園通りのハンバーガーショップによってから引き返して「昼間の星」を見に行こうといったのは彼の陰謀だったに違いない。駅前のプラネタリウムに入ると、夏休みのせいか親子連れがたくさんいた。そして、彼らと同じくらい若いふたり連れも少なくなかった。ドームの中が夕暮れになって夜になり、星がかつて見たこともないくらいの数になって輝きはじめたとき、そのわけがわかった。
 ノブヒコの手が伸びてきて、レイコに触った。レイコはからだを固くしたけれど、まったくの闇が気分を楽にした。それから、彼女は解説者の声を夢の中で聞いた。
 
 では最後に、みなさんを太古の空にお連れしましょう。解説者がささやいた。
 太陽系が生まれる前の空です。もちろん地球もまだ存在しません。あなたがたも、存在しません。なにもかも、存在しません。空を見ているあなた自身のからだをたしかめてください。星が見えるでしょう。床を見てください。そこにも星が見えるでしょう。……気がつくと、あらゆる方向が星だった。
 
 ノブヒコ、とちいさな声で呼んでみた。わたしはどうしたのかしら。夢かな。
 いや、夢じゃないさ。ノブヒコの声がした。
 最近、これが人気があるんだ。ほんとうに宇宙空間に漂っていて、星がからだに染みてくるみたいだろう。
 こいつ、ここには度たび来ているんだな、別の女の子と。レイコは思った。
 
 みなさん、もうしわけありません、設備の故障のため、室内の照明がつきません。足元に気をつけて、ドアの方におすすみ下さい。
 やれやれ。星空を踏んで歩くなんて不思議な気分。ふたりは手をつないで狭い通路をドアの方に向かった。「非常出口」の表示がやけに眩しく感じられた。
 ドアのところに観客が群がっていて、皆おし黙ったまま外を見ている。外は明るいはずなのに、どうも真っ暗なようだった。このビル全体の照明が切れているのかしら。ノブヒコはドアの方を見つめたまま、返事をしない。
 ねえ、どうしたのかな。尋ねようとしたノブヒコの顔は星あかりの下で表情を失っていた。彼は黙ったままレイコを抱き上げた。彼女がこどものように抱えられたままひとびとの向こうに見たのは、ドアの外に広がる満天の星だった。
 わたしたち、どうなるのかしら、こわい。レイコの声はいくらかはずんで、あたり一面の星空へと吸い込まれていった。
 
90/08/18
 
9 ゲーム・オーバー
 
 左肩のうしろを強く突かれるような衝撃を感じると同時にからだが弾き飛ばされてブッシュに倒れこんだ。
 スコールに叩かれたばかりの草むらはたっぷりと水分をふくんでいた。藪の中で出会うもうひとつの驟雨。
 溺れかけた昆虫のように土を噛み、草の匂いを深く吸い込んで正気を取り戻そうとする。首をねじ曲げて見ると細い銀色の矢が二本、肩甲骨のすぐ下あたりに刺さっていた。
 
 くそ。
 右手をのばして引き抜こうとしたが、猛烈な痛みで腕を充分に曲げることができなかった。からだがひきつったように激痛に耐えている。
 敵は体を低くして、じわじわと包囲の輪をしぼってくる。
 気がつくと、右手には全弾を撃ち尽くしたベレッタを握りしめていた。
 こいつを握りしめたまま殴りつければ、あとひとりくらいはあの世に送りこめるかもしれない。もう四、五本の矢に貫かれてからだろうが。
 
 草にまぎれて空を見上げると虹が見えた。それはほぼ完全な弧となって地平から立ち上がり、地平へと消えているようだった。
 視界がブラックアウトする前に見る景色にしては、なかなかいいもんだ。
 草がこすれる音が近づいてくる。最後の瞬間だな。
 予備のマガジンを落としてしまったのは失敗だった。
 敵が多すぎたのもまずかった。
 せいぜい五人がいいところだ。見栄をはったからだな。二十人なんて!
 
 草の間から、いくつもの目が見えた。
 はやいとこ、殺ってくれ。もう一ゲーム行きたいから。
 
90/09/02
 
10 夏は夢の中でのみ輝く
 
 ずいぶん静かになったな。
 ああ。ぞっとするくらい。
 まち全体が雪に埋まったと言っていいだろう。なぜって、このビルが一番高い建物だから。いくつかの鉄骨の構造物でここよりも高いのはないわけじゃないが、ひとが生活する高みはこれですべて雪の下に埋もれてしまうわけだ。
 
 しかし、ずいぶんと降ったもんだね。
 ふふ。ずいぶん、か。十二月のある夜、さらさらと降り始めた粉のような雪がだんだんに大雪の様相を呈して来たとき、誰だってすこしわくわくするような思いにとらわれたにせよ、それだけのことだった。それが、三日たってもやまず、不安が恐怖に変わろうとするころ、まちは完全に占領されていた。
 
 占領。ねえ。積雪が三メートルを越えたとき、もはや都市機能はほとんど停止していたと言っていい。粉雪が降り始めてから七日後、二階建の建物のすべてが雪の下に没した。雪はしんしんと降り、しずかにゆっくりとしかし確実にまちをおおって行った。
 
 あれから一年になるな。冬は終わらず、春は気配さえ見えず、夏は夢の中で輝くだけだ。そして最後に残ったこのビルの最上階から見ると、地上にはもはやなんの人工物もなく、ただ白い雪の原が広がっているだけだ。二百メートルも下では道路がわりの白いトンネルが縦横に走り、ひとびとは針のような水蒸気を吐きながら行き来する。ここがが埋まってしまうのも時間の問題だろう。何日かすれば、地上の雪の原に出るためには雪の階段を踏んでいくほかなくなる。
 
 冬は終わるのだろうか。
 さあ。そんなこと、わかりゃしない。もどろうよ、そろそろ。一千段の階段をカタカタと鳴らして。
 
90/09/05
 
11 ためいきは偏西風
 
 遅番を終えて地下街のお店を出ると、あたしは地下コンコースの端の私鉄駅の改札まで歩き、そこから普通電車に三十分ほどゆられて急行の止まらない駅で下りる。駅前から自転車に乗り、いくつかの坂を登り下りして、緑色の木造のアパートのドアを開けると、そこがあたしのお城。六畳に三畳の台所、ユニットバスもついている。
 
 夜の十時すぎ、テレビを見ながらひとりきりで食事を終えるのはいつものことだ。カレがどうしてできないんだろう。でもまあ、しかたがない。待つことだ、それしかないみたい。
 店で立ちづくめだと、慣れているとはいっても足がだるくなることもある。お客がひっきりなしにやってきてガラスケースの前に立つ。あたしは注文を聞きながらケーキを箱に詰めていく。ありがとうございました、またどうぞ。そんな繰り返しで一日が終わり、あたしはおつかれさま、と同僚に言って店を出る。
 カレができないのも道理だ、あたしは外食もほとんどしないし誘われてもほとんど遊びに出ない。だめだな、もっと積極的にならなくちゃ。
 
 食事の後片付けを終えると、あたしは窓に面してちんまりと置いてある机に向かう。デスクの上には小さなアジアンタムの鉢と、古いスタンドがひとつ置いてある。そして地球儀がひとつ。
 その地球儀は若いときに世界のあちこちを旅したという叔父がくれたもので、彼が旅した道筋が赤く書き込まれている。それを見て、ずいぶんあちこち行ったものだな、と思う。あたしはまだ日本から出たことはないけれど。
 
 ある夜、地球儀を見つめて物思いにふけっていたとき、奇妙なことに気がついた。地球儀の暗がりの側で明かりが見えたような気がしたのだ。部屋の明かりを消してみると、黒い球体のあちこちにちいさなちいさな明かりがあった。都市がきらめいているのだわ、とあたしは気がついて、しばらくその光景に見入っていた。それからは毎晩のように部屋の明かりを消してパリやカイロやリオデジャネイロや上海の夜景を楽しんだ。
 
 その古ぼけた球体はひとつの小さな世界なのだわ。その上に何十億ものひとたちが住み、戦争をしたり交易をしたりしている。あたしは世界の変転を見つめる神様みたいなものなんだ。
 地球儀の上は、どんな時代なのだろう。今なのだろうか、それともずっと過去や未来なのだろうか。

 やがて机の上で変貌するちいさな世界に語りかけたいと思いはじめた。あたしが癇癪を起こして畳になげつけたりしたら、世界の住人はびっくりするに違いない。どんなにイライラしても、それだけはやめよう。しかし、なんとかあたしの挨拶をおくってみたい。
 都市の夜景を見つめるいくつもの夜のあとで、あたしはふと息を吹きかけてみた。あたしの息は風となって地球儀の世界の住人たちに届くかもしれない。
 ふっ。
 あたしの息は偏西風となって、世界をめぐる。穀物を実らせ、河川を氾濫させないように、気をつけて、やさしく……。
 
90/09/09
 
12 太陽の瓶詰め
 
 どうだ、一杯やんないか。
 しわだらけの顔を思いきり近づけて、シチリアから来た年老いた農夫が言った。
 コンパートメントの乗客はわたしと彼のふたりだけだった。
 彼の手には赤葡萄酒の瓶とひとかけのチーズ。しわの間からのぞいた目に底なしの親しみがあった。
 正確に言えば、そう言われたように思った。
 わたしにはイタリア語はわからなかったし、わかったとしてもシチリア訛りの早口では聞き取ることはむずかしかったことだろう。
 おれの生まれて育って死ぬ土地シチリアでは、土地は乾いて荒れていて、太陽のひかりは容赦なく降り注ぐ。だからシチリアの葡萄酒には太陽のぎらぎらした輝きがそのまま封印されて酔っぱらいの海に溶けている。どうだ、飲んで食え。うまいぞ。
 
 列車は連結器のぶつかる音を響かせて発車した。次第に加速し、夜の方へと驀進する。明日の未明にはルクセンブルグの国境を越えるはずだ。
 するとシチリアでは。わたしは老人に語りかけた。シチリアでは太陽はビン詰めになって売ってるというわけだ、太陽の熱さを盗んで。
 そう言いたかったが意味を伝えることはできない。にやりと笑って彼の手から瓶を受け取ってぐいと飲み、チーズを口にほうりこんだだけだった。
 瓶がふたりの間を忙しく行き来し、あっという間にわたしはしたたかに酔い、意識が遠くなっていった。
 
 深夜に目ざめると外は一面の雪だった。
 闇の奥には見えない高峰がいくつも連なり、その向こうには氷の海や氷の滝があるはずだ。
 針葉樹が雪をかぶってクリスマスツリーのような姿でつぎつぎに闇の中から現れては消えていく。家々の窓のあかりがちいさく明るい。走馬灯だ。
 老人の姿は見えなかった。
 ルクセンブルグに出稼ぎに行っている息子に会うはずの老人の座っていたあたりにはワインの空瓶が転がっていた。彼が抱えていた古びた黒鞄も見当たらない。そして、わたしの荷物も。
 あの葡萄酒には睡眠薬かなにかが入っていたに違いない。それにしてはあの老人も確かに飲んでいたようだったが。
 
 空の瓶を手にとり、もてあそび、覗きこんでみた。
 乾いた丘にサボテンの畑が点在している。その丘はいくつも連なり重なりあっていて、それぞれの頂きのあたりに石づくりの集落がサンゴ虫のように密集している。
 ひとつの丘の頂きに至る石畳の坂道を老いた農夫がのぼっていく。彼はいくつもの鞄や袋のようなものを持ち、カタツムリのようにゆっくりとしたあしどりで歩いていく。彼が抱えている鞄のひとつはわたしのだ。手に余る荷物のひとつが彼の腕を抜けて落ち、坂道をころげおちていく。それはわたしの荷物だ。
 わたしの荷物が落ちていく、サボテンの畑へ、面白いくらいに弾みながら。
 
 目がさめた。
 目の前で昏睡しているひとの良さそうな老人をみつめ、彼の黒い鞄といくつかの布袋、そしてわたしの荷物があるのを確かめた。
 車窓の外は暗い。一面の雪の原に民家が点在していて、その窓からは暖かい明かりが洩れている。
 ねえ、おれはあんたを疑っていたみたいだ、心の奥では。シチリア人からものを貰って食うなんて!とトスカーナの友人たちは言うことだろう。あいつらはみんなマフィアで盗人なんだ、ってね。
 あんたが盗人なのか、ただのお人好しなのか、おれには結局のところわかりはしない。この、いまの瞬間がもうひとつの夢でないという保証はどこにもないのだから。
 
90/10/05
 
13 1997年
 
 「1997年には、ぼくの運命は」とマイケルはフロッピーディスクを指差しながら言った。「こいつにこびりついた磁気記録みたいなもんだ。ぼくはどうなるんだろうか。どうもなりはしないだろう。フカのうようよいる暗い海を泳ぎ切ってたどりついたここだって、ちょっとした腰かけの場所だったってわけだ。」
 マイケルはIBM-PCクローンの前に座り、黄金購物中心(ゴールデン・ショッピングセンター)の通路を行き交う客たちを見ていた。
 彼の店は三畳間くらいの大きさで、壁面にはIBM-PC用のソフトのリストが貼り出されていた。デスクの上のPCクローンは唯一の商売道具で、彼はそいつで著名なソフトのコピーを限りなく生産して生活の糧にしていた。
 二十代の終りにさしかかった痩せて背の高い青年で、名前はフー・ツォンと言ったが、みんなにはマイケルと呼ばれていた。
 「ぼくは自分をつぎつぎにコピーしていくだろう。このコンクリートの路地の奥に座ってPCクローンを相手に。フロッピーは回りぼくの歴史もまわる。ああ、ぼくはどこへ行くんだろう。海に飛び込む前にはぎとった赤い腕章はぼくの栄光の少年期といっしょに海流に乗って流れていった。1997年、ぼくは界限街に立って、大陸から進んでくる軍隊を眺めているだろう。そのときぼくがロールスロイスに乗っているか、乞食になっているか、それはぼく自身にもわからない。」
 
90/11/21
 
14 犬の目

 
 地面に近い高さから世の中の見るってのは、それはなかなか黙示録的な行為ではある。その視点は葦よりも低く、蟻よりは高い。
 目の高さが違えば、世の中は違って見える。高層ビルの最上階の役員室から見渡す世界と、犬の視点と、どちがより高貴かなどという議論をするつもりはないが。
 
 俺が貧困の極に生活しているのは間違いない。
 ダンボールの家ってのもなかなかつらいものがあるな、と感じる季節に入ると俺は換気口のそばに移動してなるべく無駄に動くのを避け、集めてきた週刊誌を読み耽る。芸能関係のゴシップなどには興味はない。俺はもっぱら政治・経済に興味があり、その方面の記事はのこらず読破している。
 
 朝と夕方、俺の前をうんざりするほどたくさんの革靴が行き来する。それらの靴の持主は誰も俺の存在に気をとめない。そういう事実こそが日本経済のひづみの証明なのだと常日頃思っている俺だが、そのことを表明するために路上で演説をはじめるのは主義に反する。
 
 最近は地上の世界にはごぶさたしている。地下にはありとあらゆる仕事と生活があり、地上に出る必要はない。なによりも、ここにはふきすさぶ木枯らしがない。俺を追い出しにかかるお巡りや警備員たちには基本的人権にかんする認識が欠如している。
 
 或る秋の午後、俺は新聞で流星雨のことを読んだ。大規模な流星群が接近しつつあり、その流星群との衝突が間近からしい、と。
 流星というと科学みたいだが、流れ星というとなんとまあロマンチックなことだ。その流れ星は、よく星の見える高原の夜ならば草に寝ころんで天空を仰ぐ数時間の間にずいぶんと数えることができるはずだ。
 星を見なくなってからずいぶん経つ。流れ星なんて、こどもの頃に見たきりだ。
 
 その晩俺は長い地下道を歩き、いくつもの階段を登りきって地上に出た。ひさしぶりの地上の秋だった。風はすこし冷たくて身震いしたほどだ。
 俺は新聞紙を小脇に抱えて(防寒用だ)高層ビルの傍らを通り、公園に入ってベンチに腰かけた。都会の公園は煌々と輝く高層ビルの足元にうずくまる小鬼みたいなもんだ。そこではいつも陳腐なドラマが展開されている。
 空を見上げた。
 明るい空だ。流星はこんなところにまでやってくるのだろうか。
 
 星ひとつ見えない空に、一筋の光が流れた。
 ふたつ、みっつ。
 数分後には、空は線香花火みたいにはじける光の坩堝(るつぼ)だった。
 それから、まばゆいばかりの光の渦が三日つづいた。俺は昼間はベンチで眠り夜はいつはてるともない花火大会を見続けた。
 三日目の深夜、光が衰えはじめた。ゆっくりと退いていく光の軍勢。気がつくと、空にはひとつの星も見えず、高層ビルの明かりがまばゆく輝く都会の夜が甦っていた。
 
 空の奥には、まだまだ不思議なものが隠れているらしい。では帰って行くとするか。さっきまでは葦の葉の切っ先になって空に突き刺していた俺の視線を犬の目にもどしてやることにしよう。
 空気はこの三日でずいぶん冷たさを増した。
 
90/11/21
 
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