|
Dear Businessman 1 ニューメディアの地図を描く 先日の日本経済新聞に掲載されていた記事(1994年2月7日付)によると、日本におけるメディアと広告を合わせた市場規模は1993年でおよそ十兆円。このうちでメディア関連の売上はおよそ四兆八千億円だそうである。 数字にうといわたしはまずこれで愕然とする。日本中にあふれる情報の洪水、紙と電波で発信するメディアの狂騒の果てが、情報・通信の世界で言えば日電と富士通の企業グループの売上を合わせた数字に遠く及ばない。新聞もテレビも、全部合わせてもそれぞれが2兆円に満たない。そしてこの記事ではパソコン通信は影もかたちも見えない。 パソコン通信の現状は、大手の商用ネットのいくつかを合わせても売上はおそらく二百億円程度(いい加減な推定である)。数字から見れば都市型CATV(八百億円程度と推定)などと並んで、駆け出しのメディアである。それにしても統計の中のパソコン通信はなんとささやかなビジネスであることか。 ある日突然パソコン通信をはじめてそれからずっと続けているわたしはこのメディアの将来の成長の見通しを知って先物買いをしたわけではないし、いわゆるニューメディアのマクロ的な分析をしたわけでもない。面白そうな予感がしただけだ。 まずメディアの真っ只中にいる自分を発見した。つぎにそのメディアに関する本を読んだ。最後に統計に行き着いた。ここに至ってようやく、メディアを取り巻くより広い世界のことが知りたくなってきたというわけである。 そんなある日、新聞で発見した小さなカコミ記事を何度も読み返しながら考える。この二百億円の中にIDの発行数で百数十万、実数では百万に満たないかもしれない人間たちの高潔で猥雑な営みがひしめいている。 人と人とがネットワーキングする時に生ずる創造の息吹、摩擦と軋轢、信頼と疑惑。人間の多様な意識がまるで美術館のように常設展示されている奇妙な場所。 もちろん情報検索や通達や連絡だってそこに含まれているのだが、百億円くらいは人の交流から発生しているのではないか。未来に向けて人間のコミュニケーションの可能性を夢見る百億円である。この百億円の相当の部分は個人による「出資」なのだ、組織も地域も貫く個人レベルの水平コミュニケーションに関する壮大な共同研究(であると同時に開発でもある)が無名の個人の投資によって支えられているのだ、とわたしは多少シニカルに考える。 その「共同研究開発」は近くに寄ってみるとほとんどゴミの山のようで、誰も研究しているようには見えず、ケンカや雑談が延々と続いていたりするのだが。 ユーザーの支払に依存する商用ネットの売上と、広告収入が売上の大半を占めるテレビを単純に数字だけでは比較できないように、異なるメディアの売上高による比較は簡単ではない。しかし確実なのはテレビや新聞などの巨大メディアに比べてパソコン通信の普及度はまだ百分の一かそんなものだということだ。 パソコン通信が普及していくとどうなるのか、あれこれ想像してまたも視線は新聞の紙面を離れてしまう。津々浦々の市民が夜な夜な通信端末の前に座る光景は気味が悪いが、テレビが登場した当時には「日本中の家庭で家族全員が夜な夜なテレビ画面を食い入るようにみつめる光景」はそうとう不気味に思われたはずだ。テレビゲームに没頭するこどもたちの出現もSF的な想像力の中では予想されたにせよ、やはりどこか病的に見えたに違いない。 そう考えると、毎晩一千万もの端末が輝いてチャット画面を表示する光景が今世紀の末には現実のものになると、今の段階で言い切っておいた方がいいのかもしれないと思えてきた。 2 電子メールの呪縛 アメリカでは出張中にホテルで仕事をする時間が5年前に比べて長くなったと答えたビジネスマンが半数以上したそうである(ハイアットホテル調べ・日経1994.2.14 付朝刊)。その理由のひとつにパソコンやパソコン通信、そして電子メールの普及があるのは間違いないだろう。これらのメディアの登場によって労働の強化が起こり、プライベートな時間と仕事の時間の境界が曖昧になりつつあるのだ。 日本でも同様の傾向が見える。携帯電話もホテルでのファックス貸出サービスも一般的になり、真に携帯可能なサブノートパソコンや軽量小型のワープロが次々と登場してきて、ビジネスマンが通信端末を常時携帯するのが当たり前になる時代がすぐそこに来ている。場所を選ばない仕事の環境が用意されつつあるのだ。しかし道具と環境は確かに整ってきたが、ではそれに見合った仕事のしかたが確立されているかというと、そこはなんとも心もとない。 電子メディアを活用するワークスタイルにはそれなりのノウハウがあるはずだが、どうも仕事のスタイルはそのまま、環境はコンピュータだらけだが意識は旧態依然というケースが少なくないようである。しかしそうした危惧を置き去りにして、道具はどんどん進化し、仕事に侵入してくる。特に電子メールが企業内でここしばらくの間に急速に普及して行くのは間違いないだろう。 パソコン通信の初期のユーザーはパソコン通信が好きだ。しかしそのつぎに来るユーザーは通信が好きでもなんでもない。入社してみたらデスクの上に通信端末がありIDが与えられた、とか、ある日突然に社内ネットの導入が告げられた、とか。そうしたきっかけで通信を始める人にとって、ネット自体が暮らしにくい外国のように感じられる可能性は少なくないだろう。そして電子メールもまた可能性に満ちたコミュニケーション・チャンスとしてではなく単なる管理強化の道具となる危険をはらむ。 電子メールは端末が身近にあればいつでも読み出せるから、ついつい時間にかかわらず、休日でもアクセスしてしまう。こうした人は電子メールによって今まで以上に仕事にがんじがらめにされるという実感を持つに違いない。いや、仕事と言うよりも、正確にはメールの発信者に。 その意味では電子メールは容赦がない。発信してしまえば、そのメールは相手に対する一種の圧力となり得る。相手が受信した時刻まで分かるし、返事が来るまでの時間のおくれも評価につながりかねない。報告は文章で正確に行わなければならず、生返事は許されない。キツいメディアである。こうなると私生活にすらズカズカと入り込んでくるという意味では電話となんら変わりがない。使いはじめた当初は、自分の側からアクセスしない限り侵入してこないという点で慎ましい連絡手段だと思える電子メールも、心理面から見ればむしろ電話よりも強制力・拘束力が強いかもしれない。電子メールはヨコ方向のコミュニケーションをタテ社会で活性化する魔法の道具だが、タテの管理についてもやはり強力なパワーを発揮するのである。 電子メールはその人のやる気を如実に表す。伝わってくるのである。これは不思議なことだが事実だ。メールによるコミュニケーションを重視すると、文章によるコミュニケーション能力はもちろんのこと、やる気のある人とない人、仕事に対して攻撃的な人と守りに入った人の差が大きくなる予感がする。このメディア、あなどれない。まだ普及の入口である今のうちにその得失を吟味しておく必要がありそうだ。 3 ミニメディアの愉悦 ここ数年、ミニFM局が注目されてきている。一市町村に1波しか認められず、1ワット以下の小出力でサービスエリアもごく狭い。第1号となった「はこだてFM放送局」のサービスエリアは市内のほぼ半分だそうである。正式にはコミニュティ放送と呼ばれ、行政側では地域への情報提供に期待しているのだろうし、いくらミニでも費用面では誰でも簡単にという範囲を越えている。勝手に作って放送するというわけにはいかないが、今まで受信するだけだったFM放送を送り出す側に自分自身が立つことができる可能性が開けたのは確かだ。 メディアには不思議な魅力がある。電波や紙に乗せて自分の分身が広がっていくような気分。しかし誰がどんな気持ちでそれを受け止めるかがたしかではない不安。どんなメディアであれ、それに乗せて自分の知識や感覚や思想を伝えることは、かなりの水準での自己実現である。メディアを所有することはそれ以上で、更にすばらしいのはメディアを創造することかも知れない。 巨大メディアの内部から見えない大衆に向けて発信することのできる人はごく少数だ。自分の意見をメディアに乗せることのできる人も限られている。ところがパソコン通信は受信者を発信者に簡単に変えてしまう。受信する側と発信する側の境界は実にあいまいで、キーひとつでほとんど自分でも意識することなく誰もが発信者に変貌する。 発信といってもたいしたものではない。まずは電子会議室に溜め息でもなんでも書き込むということだ。人数はともかく自分以外の人間がそれを読むのは確実である。日記とか人目に触れない文章を書くのとパソコン通信での発言とは決定的に違う。パソコン通信のユーザーは皆、他人の前で自分の感受性と思考とを露出し続けることでメディアとはなにかを体感的に学習しているわけである。パソコン通信を通じてメディアへの興味が強くなり、また身近に感じられてくる。少なくともわたしはそうだった。 ミニFMはメディアの揺籃期にある。ミニサイズのメディアには巨大メディアとはまったく違ったいいところがたくさんある。メディアが特性として双方向性を持っていなくとも、小さいことで参加の可能性が生まれる。誰もがラジオを聞いた経験を持つし、その記憶はなつかしく温かい。若い人々にとって、ラジオは始めて体験する双方向的なメディアかもしれない。そういう原体験を下敷きにして、ミニFMの冒険が始まるのである。自分の発信する情報・表現・思考・感受性がおおぜいに伝わっていかなくともかまわない。よりパーソナルであることの方が大切なのだ。そう思う人はミニFM局のせまいスタジオに入るとき、身震いするようなよろこびを感じるに違いない。 一方でネットワーク化は時代の必然である。ミニFM局もまたお互いをネットワークで結ぶことになるのではないだろうか。このネットワークは本来のネットワークだ。それぞれの放送局が水平に(対等に)結ばれる。パソコン通信とミニFMをリンクさせることにも、いろいろな可能性がありそうだ。ミニFMはBBSに似ているし、パソコン通信のユーザーはミニ放送局の一人きりのDJであるとも言えるのだから。 現在のパソコン通信は始まりであるために、誰もがこのメディアの創造の日々に立ち会うという幸運に恵まれている。しかしその幸運は巨大化の進行とともに急速に色褪せつつある。幼年期が終わりかけている。よちよち歩きのミニFMへの共感は、すでに離陸を終えたパソコン通信というメディアへの感慨と表裏一体となっているようである。 4 ネットワーク・サバイバル ネットは結局のところ「今」しかない。電子会議はどんどん流れていき、同じような事件と質問が繰り返され、貴重な情報の蓄積と再利用もままならない。誰も編年史を書かないし、過去の業績(?)を記録に留めない。今が一番偉くて、過去を知らない人が知っている人よりも強い。継承がむずかしい。「そんな(過去の)ことは知らない」と一言いえば相手が黙ってしまう世界である。新しく加わる人が以前からいる人よりも絶対数として多くて、しかも今後とも新しい人がそれ以前からいる人の数をつねに上回るような構造を保ち続けるだろう世界である。 通信をはじめた頃には人がまだ少なくて、それでも比較するものがなかったのでけっこう広大な世界だという気がした。しかし実際は数千人規模の村のようなものだったに過ぎない。今のネット社会は大都会のようである。ボランティア精神は生き続けるにせよ、ビジネスの現場へとドラスティックに変貌していく気配である。もう冗談じゃすまされないな、と思う。量はもちろん変化しているが、質も日々激変している。だだ楽しく知り合ったりケンカしていれば済んだものが、名目で十万人近い会員を擁する巨大フォーラムが出現し、著作権だ訴訟だとだんだん面倒になってきた。実社会から逃れて理想郷を目指していた人にはがっかりすることばかりだろう。 1年ネットをやっていればずいぶんといろいろな出来事に出会い、時にはドラマの主人公になった気もする。ネット社会が急速に膨張し拡大していく中で大量の情報のシャワーを浴びて「情報で老いる」ことを実感できる。山ほど経験したと思い、なんでも分かったような気がしてくる。しかしながら連日の情報のシャワーは疲れるものだ。体力がないと負けてしまう。そのせいだろうか、かなりアクティブであっても途中で姿が見えなくなる人が少なくない。居場所を変えたのかもしれないが、アクセスそのものをやめたのかも知れない。ネットをやめる人がかなり重大な選択をしているように見えるのはうがちすぎだろうか。詮索はともかく「ネットの尋ね人」の時間がそろそろ必要だ。 書き込みがあると生活の様子も想像できるが、書き込まなくなるとその人のいたことすら忘れてしまう。ちょっとしたきっかけで「そう言えばあの人はどうしただろう?」と思ってみたりすることもあるが、書かなくなった人のことは忘れるのもはやい。移り気で持続性のないメディアだなと思う。 ネットにおける存在証明はまず書き続けることで、本質的にはコミュニケーションをし続けることだ。これは相当にしんどい。ネットで存在しつづけることは、まあ存在のしかたにもよるけれども、一種のサバイバルゲームに勝ち続けることだ。ネットワーカーの進化の系統樹が存在するとすれば、スタートのアメーバ状態から進んでいくと次々に脇の枝の方に突き進んでいく仲間に別れを告げることになるだろう。早めに進化を止めたネットワーカーは次第に消滅していくか、同レベルの仲間といつまでも楽しい時間を過ごすことになる。 しかし、わたしから見て消えてしまったネットワーカーの中には、ずんずん先に進んでいった人たちも少なくないずだ。自分こそが進化の袋小路に踏み迷っているのかも知れない。そんな危惧を打ち消すためには、現在はやっていないなにか別のことにチャレンジするしかない。経験的に言って、安定した狭い温かい場所にいても結果として生き残れない。進むか敗退するかしかない。では、このゲームに生き残ることにメリットがあるかどうか?あるのではないかと思う。情報と通信の世紀末を体感しながら過ごすために。 5 好きでもないネット パソコン通信も初めの頃は要するに「好きな人たち」の集まりだった。パソコンが好きでしかたがない人がパソコン通信を始めたし、ハムをやっていた無線通信が好きな人たちもこの生まれたばかりのメディアに流れこんできた。キーボードを叩くのが快感であったり、マイコンを組み立てるのが飯より好きだというような人たちである。 わたし自身はおそらくその次の世代であって、機械は好きだが詳しくない。コミュニケーションはまあまあ好きだ。そして今は更にその次、コンピュータがぜんぜん分からなくとも「ぱそ」見て、パソコン通信って面白そうだからといって始める世代が登場しつある。 動機や目的はバラバラでも、彼らは自分からやりたいと思い、始めた人たちである。節約のご時世に労せずしてタダのソフトを手に入れたいというのも、普段はモテないから通信の世界で敗者復活戦を戦おうというのも自発的な動機には違いない。ともかくも皆アクティブなネットワーカーの予備軍である。 ところで、ここにまったく別の一群がいる。 好きでもないのになんらかの理由でネットを始めた人たちである。社内でネットが構築されたために毎朝電子メールを読むためにアクセスしなければならないとか、データベースを使って仕事をする必要が生じたとか。そんなふうにやむを得ずにネットへのアクセスを欠かせない人たちである。 興味をもって始める場合と人から誘われたり義務的に始めたりした場合とでは、見えるものが違う。内的な動機なしに始めた場合にはそこから啓発や恩恵を受けるところまでは行きにくい。情報やコミュニケーションに対する渇きが自分の内部にあるとしても、それとパソコン通信との接点を見いだせない人は、自分が今航行している電子の海の深さとか色合いに感動することもないだろう。 パソコン通信は人間を乱暴に二分する。コンピュータの画面を流れるパソコン通信上のコミュニケーションの有り様を見て面白いと思う(すなわちそこに人間を見る)人と、興味を示さない(すなわち単なるコンピュータの画面とそこをスクロールする文字列としてしか認識しない)人に、である。 好きでもないのにやっている人にとってのパソコン通信は、このうちの後者であろう。自分からアクセスしないとなんの情報も与えてくれない面倒なシステム、朝から晩までしつこくコミュニケーションを求めてくる電子メール、口で(電話で)話した方が早いのにわざわざキーボードを叩いてワープロで作文をしなければならない憂鬱なコミュニケーション。好きでたまらないユーザーには刺激を与えて止まないパソコン通信のメリットの数々は、嫌々やる人にとっては全て欠点に変わるわけである。 パソコン通信の表層に浮かび上がって来るユーザーのイメージというものは、好きでたまらない人たちによってもたらされたものだ。電子会議にアクティブに書き込む人は、ようするに好きなのだ。この人たちの声はよく響き遠くに届く。しかし一方で不機嫌な、あるいは無感動なユーザーも少なくないはずだ。そして「好きでもない人」が好きでやっている人たちを数において凌ぐ時こそが「情報インフラとしてのパソコン通信」のひとつの完成期なのかもしれない。 パソコン通信上の情報とコミュニケーションはその密度と加速度感で、無自覚なネットワーカーをも刺激し覚醒させる。ことによると人格までも活性化の方向に変化させていく。その効果が「好きでもない人」にも広く及ぶならば、パソコン通信の将来は捨てたものではないのだが。 6 闇の構造 ある女性のご主人に電話がかかってきた。 奥さんがネットであなたの悪口を書いていますよ。電話の向こうの声はそう言った。次に同じような内容のファックスが送られてきた。心当たりのないことだった。しかし家庭は冷たくなり、女性は通信に使っていたワープロを押し入れにしまいこんだ。声の主は見えないままである。 パソコン通信をやっていて知らない人と知り合うのは楽しい体験だ。その知り合い方は手続きが簡単で、時には簡単すぎるほどだ。またそこには助け合う雰囲気がある。知らない人は教えてもらえるし、自分が知っていれば教えてあげる。人の善である部分をネットではいくつも見て体験することができる。 しかし残念ながらいいことばかりではない。人には闇の部分があることを思い知らされるのもネットである。発言しなければ何事もない。しかしいったん発言して、しかも日常的に発言するようになると、言葉が災いを呼ぶこともあるのだと肝に銘じなければならない。電子会議でのケンカはまだいい方で、ウワサや陰口は素晴らしい電子の翼を借りてネット内を駆けめぐる。自分の何気ない発言が正体不明の「闇の中の目」によって恣意的に(ネットを知らない)自分の上司や家族に告げられ、身近な人間関係が壊れて行くというシナリオは、ネットをしらない人間にまで巻き込むという意味で更に暗い。 ネットでは参加している個人の情報公開の度合いは本人次第である。実名で発言し、プロフィール情報には電話番号まで書き、オフラインで仕事上の名刺をバラまく人から、一切発言せずメールのやりとりもせず、ハンドルしか分からず、プロフィール情報は空でオフラインには一切参加しない人まで、バラバラだ。情報公開の度合いがオープンであればあるほど脆弱な脇腹を晒すことになるが、一方で自分自身が「闇の中の目」になるのも簡単である。 最良の防御はネット上では一切自分の正体を明かさずにやっていくという方法である。実社会との縁を切ってネット上に硬い殻をまとった架空の人格を作り上げるのだ。それもいいだろう。 人は人とコミュニケーションをしたい。コミュニケーションは生きることそのものだ。そこでネット上に存在しようとしはじめる。発言してみるのだ。その発言の場がどんな構造になっているのか気づかない人も少なくない。場が見えないからである。場の認識はネットではほぼその人の想像力に委ねられていて、その個人差が問題の起きる原因であるように見える。演壇だと思っている人も舞台だと思っている人も行きつけの飲み屋だと思っている人もいて、その人たちが同じ場で出会う。周囲で沈黙して見守っている何千何万という「目」に気づかないか、その存在のしかたをまったく誤解している人もいる。その中に、自分を刺そうとする悪意が存在しているかも知れないのである。 ネット上のコミュニケーションの場はかたちすら定かでなく、しかも輝いたり暗く陰ったりする。場は変転し、またそこに集まる人も時々刻々変化する。さっきまで平和だった場は一瞬で戦場に変わる。ため息。ではどうしたらいいだろうか。考える。わかっているのは、その人が決めるしかないということだ。 自分を正直に晒すと返ってくるものも大きいがリスクも増大する。ネットは様々な意味でハードルの低いコミュニケーションの場であるから個人的なことをあれこれと書くことにそれほどの抵抗はないだろう。そしてネットで個人的なことを書く(すなわち見えない何千と何万という人の目に晒す)のはいいことだ。 ネット上のコミュニケーションは乱暴な言い方をすれば打ち明け話である。果敢に個人を晒すのだ。悪意はどこにも存在する。ネットが山奥に隠された理想郷であるわけもない以上、ある覚悟をもってコミュニケーションを目指す他ないではないか。ただし「ここだけの話」はあり得ないことは知るべきだ。どこで書いたどんな事もありとあらゆる方向に伝播していく可能性を持つ。怖いことだがそれはこのメディアのたぐい稀な可能性と表裏一体になっていて、いい方だけをとるわけにはいかない。何か悪魔との取引みたいな気がしないでもないが。 7 未知の既知 パソコン通信を社内のコミュニケーションやビジネスそのものの基盤として活用している企業に対して取材やインタビューをする機会が増えてきた。インタビューというのは面白いもので、聞く側にも聞かれる側にも発見がある。同じテーマでいくつかのインタビューを重ねていると、ある共通項が見えてきたりなんらかの法則性があることに気づいたりする。これは聞く側の密かな楽しみだ。一方聞かれる側の楽しみといえば、インタビュー(あるいは取材)を受ける度に発せられる同じような質問に内心で舌を出すことだろうか。 インタビューを繰り返す中で再確認したのは、企業がネットを導入する場合の問題は「利用技術」に尽きるということだ。パソコン通信を導入し利用するために必要な知識は大したものではない。特に商用ネットを利用する場合は金さえ払えばあっという間に社内ネットが出現する。そして問題は常にその先にある。もちろんこれは企業ばかりの問題ではない。ここではその中のひとつ、既知の人たちによるオンライン・コミュニケーションについて考えてみたい。 パソコン通信は今まで主に「知り合う場」「異質なものの出会いの場」として語られてきた。実際、パソコン通信上で人と知り合うことは少なくともその人の通信の履歴の初期にあっては衝撃的な出来事だし、自分とは異質な思考や生活と出会って驚く経験も一度や二度ではないはずだ。 しかし一方では元々知っている人たちがネット上でコミュニケーションを行うケースも少なくない。たとえば社内ネットがそうだし、同窓生のコミュニケーションや地域の活性化(町おこし村おこし)の相談をネット上で行うような場合も少なからぬメンバーが顔見知りだという状況でスタートすることになる。すでに存在する人間集団がパソコン通信という新しいコミュニケーション手段を導入するわけだ。 既知の人間同士がネット上でコミュニケーションを始めるのを観察していると面白いことに気がつく。たとえば彼らが電子会議上に書いている内容が不連続的で第三者からは理解できないことがある。その理由は、ある時は電話、ある時は電子会議というようにいくつかのメディアを使ってしまうことにある。しかも当人同士だけは連続的にコミュニケーションを保っているわけだ。その逆に両者の間で了解していることをわざわざ書いたりする場合もある。これも無意味だ。彼らの間には電子会議や電子メールの他に電話や会議など多くの接触の機会があり、そうした複数のコミュニケーションチャンスの中に電子的なコミュニケーションをどう位置づけるかが悩みの種になるわけだ。結果としてネットをもて余す。 思考と議論の過程が時系列で記録されること、時間差のある議論が可能なことなどはよく知られたパソコン通信のメリットだが、オンライン・コミュニケーションの可能性の中で最もすばらしいもののひとつは「共同作業」であると筆者は考えている。電子メールや電子会議を舞台とする小規模プロジェクトがそれだ。顔を合わせたこともない人たちによるこうしたオンライン・プロジェクトは時としてその人の人生観さえ変えるほどの影響力を持つが、既に出来上がっている人間集団にとっても人間関係、組織、そして仕事そのものを見直すきっかけになりうる。既存の枠組みにこうした衝撃を与えることもネットの大きな役割だ。 プロセスは単純だ。ある目的を共有する人たちがいることが始まりで、彼らがネット上に(電子会議や電子メールによって)共同作業の場を作りだすことが実務のスタートだ。しかしいい結果を生むのは簡単ではない。実行にあたって大切なことはいくつかある。ひとことで言えば「リラックスして、しかしマジメに取り組む」ことだ。 何年も一緒に仕事してきた人たちと不慣れな新しいメディアの上できちんとした文章でコミュニケートするのは多少なりとも気恥ずかしいものだ。話せば簡単に意思疎通ができるのに文章を書くと別人のように分かりにくくなってしまう人、その逆もある。文章を書くのが苦手な人は意外に多い。コミュニケーション能力と実務の能力の関係について考え込むことがあるかも知れない。共同作業を進めて行くと既知の人の中の未知の部分を発見する。これは既知の人とのオンラインワークに組み込まれたプレゼントである。 ……電話で済むことをわざわざ文章で議論することは苦痛である。声がかけられる距離にいる人となぜ電子会議をしなくちゃならないのか?こんな疑問はつきまとうにせよ、デスクの向こう側の数年来の同僚との電子ネットワーキングがもはや冗談でも皮肉でもない時代なのはたしかだ。 8 オンライン・リーダーの資質とは 走り疲れることのない子供のようにコミュニケーションに打ち込む人たちがパソコン通信の世界には数知れず存在しているのだと感慨にふけることがある。激しい議論を「読むだけの人」になって疑似的に体験したあととか、機知と諧謔が縦横に駆ける芸のあるやりとりを楽しんだあとなど、特にそんな気分になる。しかし同時に、パソコン通信が全員参加の世界ではないのも確かだと改めて思う。「読むだけの人」もまたパソコン通信の世界の正当な住人であり、その比率は確実に増加しつつある、と。 知的冒険のためのコミュニケーションならばそれも致し方ないが、ビジネスのツールとして電子コミュニケーションを考える場合、究極の目標は全員参加の全員活性化ということになろう。本人の意思とは関係なく参加することになった人のネットへの熱意をどう作りだすかはネット活用の戦略として必須の項目だ。 電子メールにせよ電子会議にせよ、パソコン通信のメリットはアクセス頻度に依存している部分が少なくない。特にオンライン上で部門を越えてプロジェクトチームを作って作業を進めていくような場合(オンライン・プロジェクト)、アクセス頻度と熱意の平準化はプロジェクト・リーダーが直面するに違いない重要な課題である。参加者の参加への熱意にばらつきがないことがネットの知的生産性を高める。これは実に困難でかつ野望の類に属するのだが。 パソコン通信を利用して企業内でなんらかのワークを進めていこうとするリーダーたちは、今挙げた例にとどまらずさまざまな困難に直面しているのではないかとわたしは想像する。ではオンラインでのワークを目指すリーダーたちに望まれる資質とはどんなものなのだろうか。 わたしが思うには、オンライン上で人を動かす能力は確かに存在する。この力は相手に会うことも触れることもなしに動機づけ、行動にベクトルを与え、ある結末へと導く。この力のある人もいるし、ない(あるいは不得意な)人もいる。 相手に動機を与えて行動を促す力とは、具体的には言葉(文章表現)だ。言葉の使い方が上手な人は有利だということになる。しかし言葉が上手だということは有利ではあるにせよ、それだけで相手を動機づけられるわけではない。文章表現が下手な人でも相手をつきうごかすことは可能だ。不思議なことに、そしてすばらしいことに、ネット上では真意(強い意思や決意、まじりけのない感情や夢など)が日常的なコミュニケーション以上に伝わりやすいようである。 ネット上のコミュニケーションの場というものは、その人が信じるから存在するという側面がある。そこでオンライン上のリーダーはまず言葉で場を作りだす。場が脆く危ういから、ネット上に確固たる作業場が存在することを信じること、信じさせることが第一歩だ。具体的には、場に集まる人と情報、場の目的と役割、場の存続する期限、各自の役割、場をコントロールするにあたってのさまざまなルールなどを言葉で規定していく。ことばで規定するあとから姿を表してくるオンライン上の作業場のイメージはなかなかに刺激的なはずだ。逆に場の規定があいまいだと輪郭がぼやけ、そこで何をどうしたらいいのかが判らなくなる。参加者の脳裏にくっきりと像を結ぶような場の規定のしかたはひとつのポイントだろう。 こうしてできあがった場でワークがはじまると、リーダーはチームのメンバーを分け隔てなく扱い、適材を適所に配し、情報が均等に行き渡るように配慮し、リーダーらしく衆知を集め、しかし最終的には自ら潔く決断し、率先して実行する。千手観音のイメージである。なんとまあ英雄的で理想的ななリーダー像だろうか。しかし確かに、オンライン上にはヒーローが生まれる環境があり、誰でもヒーローになれるように思えるのである。その大きな理由は場をことばで規定していくそのシステムにあるだろう。 現状ではオンライン・リーダーのノウハウはどこにも書かれていない。自分で試行錯誤しつつ学んでいくしかない。電子メールや電子会議というインフラは誰もが利用できる状態になりつつあるのに、利用のしかたがついて行かないのは実に残念なことである。 オンライン上ののチームにはひと仕事終えたあとで一杯やるチャンスはほとんどない。ドライと言えばドライな関係である。しかしそこで生まれた友情のようなものが実に厚いであろうことは断言できる。わたしの理解ではパソコン通信上のコミュニケーションの相当の部分は感情のやりとりである。オンライン・ワークには仲間の感情とつきあうという側面があり、面と向かっての時以上にその感覚が強い。そのような場におけるチームの活動を円滑に行っていくためにオンライン上のリーダーに求められる資質のかなりの部分は人間そのものに関する理解であろうと思う。 9 忍び寄る著作権 最近ネット上で著作権が話題になることが多くなってきた。ネット上で自分が他人の著作権を侵害してしまうケースがあり得るし、もちろんその逆もある。ネットが巨大化してメディアとして認知されていく過程で起こってきた興味ある現象であり、ネットワーカーのひとりひとりにつきつけられた突きつけられた刃のようでもある。 わたし自身について言えば、ネットを初めてから何年もの間著作権についてはいかにも無知だった。著作権という法律自体が遠いものだと思っていたし、ましてその解釈や運用について自分自身が考えることになろうとは思わなかった。それはどこかの誰かが判断するものだと考えていたに違いない。 しかしネット上で起こったいくつかの事件やできごとを通じてどうやらこの法律を理解しなくてはならないと思うようになった。もはや他人事ではない。だが著作権法を読んでみてもどうもよくわからない。むずかしいそうな条文が具体的にはどういう場面でどう適用されるのかもわからない。わたしに必要なのは条文の暗記ではなく、今日の今、ネット上に書き込まれたある発言が著作権を侵害しているかどうかの判断であり、それに対してどうしたらいいのかという決断であったのである。フォーラムの運営者にとって切実な問題であると同時に、ネットワーカー全体にとっても避けられない、しかもなかなかつかみにくい問題であるこの著作権をどう理解すればいいのだろうか。 現実の社会にはおびただしい権利の主張とそれに対する侵害が氾濫している。ネットも例外ではない。それどころかより伝播しやすい情報流通基盤の上で守られるべきさまざまな権利が侵害される可能性を持つ。その理由の大半は無関心と理解の不足によるだろう。知らないから侵害してしまう。侵害する側は侵害される側に比べて常に鈍感だ。侵害される側には大問題でも侵害する側は大したことだとは思っていない。これを克服する方法は相手の立場になってみることだろう。これはなにも著作権に限らない。 わたしも著作権について理解しているとは言えないが、結局のところ他人の知的な生産の努力に対する敬意が基本だという気がした。ある出来事が著作権を侵害しているかどうか、自分自身が著作権を侵害しているかどうかを判断しようとする時、相手に対する敬意を持っているかどうか、どう表現するかを考えるのが第一ではないか。これは法律以前の問題でもある。 ただし敬意だけでは判断ができない。やはりそこには著作権についての最低限の知識が必要とされる。その意味で著作権を理解することはこれからのネットワーカーにとっての必須科目だと言っていい。現状では著作権についてのわかりやすい解説があまり見られないのが残念だ。 一方で著作権の権利の部分が強調されすぎて「危なそうだから書くのをやめよう」という雰囲気が出来上がるのもこわい。侵害を恐れるあまり自己規制を強めるのでは状況は改善されるのではなく悪化する。誰もが日々の実践(つまり発言すること、表現すること)を通じて著作権というものを実践的に理解していく場(すなわちパソコン通信)があることはいまだかつてなかったことではないだろうか。わたし個人で言えば著作権を考えることを通じて法律そのものが身近になってきた。 アクティブであろうとするネットワーカーはいやおうなく著作権と付き合わなければならない。それは結局のところ自分自身が発信者となって享受するものと引換えに負う課題でもある。 10 謎の種族 パソコン通信に熱中するネットワーカーは、本人が意識するしないに関わらず二十世紀の末期にこの社会に生まれつつある新しい種族だ。外見からはそうとは見えない。 パソコン通信とは何かについて、知らない人に説明するのは実に厄介だ。 パソコン通信のシステム、つまり電話回線とホストコンピュータと端末の話はそれなりに理解されやすいようだが、そこで何ができるか何が起こるかを説明するのが難しい。 たとえば電子会議を言葉で説明しようとするればするほど逆にわかりにくい説明をしている自分に気づく。泥沼にはまったようなものだ。しかし説明を聞いてちんぷんかんぷんの人でも実際にやってみれば、ああこういうものなのかと納得するはずだ。画面に現れる絵としてのパソコン通信はわかりにくいものではないからだ。 問題はその先にある。システムとして理解しても、その人が画面を流れる情報とコミュニケーションのあり様を見て大いなる可能性を発見するか、あるいは感動するか。よくはわからないが魅力を感じるか。何も感じないか。個人の差が歴然としてくる。 わたしの独断と偏見によれば人間はコンピュータの画面の向こうにひとつの世界を見るかどうかで二分される。パソコン通信に熱中している人は恐らく画面の中に「別の世界を見た」人たちだろう。新しい種族の誕生はここに始まる。 時間というものは均質に流れているものではなくて、ある部分は未来に入り込んでいるし別の部分は相変わらず過去に留まっているというような気がする。パソコン通信の世界はそこだけがもはや未来に行き着いている。これから世界で広く起こるだろうこと、問題となるであろうことがここで先駆的に現れる。 そう考えるとパソコン通信の世界とは、やや規模を拡大しているにせよ相変わらず実験の装置でありつづけているようだ。その装置の中でネットワーカーたちはわが身を挺して日々実験を重ねているわけである。人間が高度なコミュニケーションの手段を得た時どのように行動するか、どう喜びどう悩むか、そこでどんな金儲けを思いつくか。実験だから犠牲者も少なくないはずだ。 そのように過激な情報とコミュニケーションの実験場であるパソコン通信の現状がそのまま近未来の社会の予告編だとは思えない。だがおおまかにしか語られないために一見無害に見える、言いかえると人の姿の見えない将来の情報社会の細部が既にここにあるとは信じられる。 通信回線とコンピュータによって結ばれた(まだ)小さな社会の上で起こるいろんなこと、ケンカも恋愛もコラボレーションもオンラインワークも取り混ぜたごった煮のような状況は、パソコン通信のシステムの上で当たり前の人間たちが作り出したものだ。その猥雑な人いきれを深く味わい、更にその先を思うべきなのだと、電子メールに乗って疾駆するすばやい言葉のやりとりに時として窒息しそうになりながらわたしは考える。 ちょっとした思いつきでIDを取得した途端にわれわれの前に忽然と現れるもうひとつの社会。そこで信じがたいほどの量の情報シャワーを浴び、高速かつ大量のコミュニケーションを行う。人と人とが今までにない経路で結びついて千の試みがその上でなされ、失敗もまた無数に繰り返される。そういう事実の細部を一握りのネットワーカーたち以外の社会の全体は何も知らない。ネットをやる人とやらない人、興味を持つ人と持たない人の間に横たわる淵は深いようだ。 11 メーカーの冒険は始まるか ネットにおけるわたしのゆりかごはメーカーとユーザーの出会う場つまりベンダーフォーラムだった。商用ネットの黎明期、メーカーとユーザーとがどう付き合ったらいいかお互いにわからず、衝突したり誤解したりしながら失敗を重ねていた時期にわたし自身もネットにおける青春期を過ごしたことになる。 それからいくらかの(ネット時間で言うと気が遠くなるくらい長い)時間が経ってメーカーとユーザーの付き合いがうまく行くようになったかというとはなはだ疑問だ。ノウハウが蓄積されているとは思えない。メーカーにとってはネットとネット上のユーザーは相変わらず厄介なシロモノでありつづけているようだ。ユーザーはメーカーに公式見解ではない生のコミュニケーションを求めるが大半のメーカーは素顔を現さない。ユーザーのイライラは解消されず、相手が逃げ腰だから余計に叩きたくなる。そういう構造ができあがっているようだ。 しかしメーカーに対しても同情の余地はある。特にネット上のユーザーに直接対応する担当者は大変だと思う。ネット上ではユーザーは口を極めてメーカーを非難することがままあり、匿名性がこれを助長しているように見える。ユーザーというものは概して勝手でわがままで視野が狭い。しかしユーザーは自分の使い勝手を改善してほしいだけなのだからこれは当然だ。極端で実現不可能な要求も少なくない。そしてユーザーへの対応のちょっとした言葉尻からメーカー批判の火の手が上がる。そういう状況が何度も繰り返されるという事実がメーカーサイドにネットは危ないという得体の知れない恐怖を植えつけているのではないか。そしてこれは憶測だがメーカーサイドにはネット上のユーザーはユーザーの全体から見れば特異なグループだという観念が住みついているようにも思える。 ではどうしたらいいのだろうか。まずメーカーはネット上のユーザーとのコミュニケーションに際して相手をお客様として扱うのをやめる覚悟が必要ではないか。ネットはお客様相談窓口ではない。まったく別の次元の場である。ネット上でユーザーの信頼を獲得する方法はメーカーが素顔を見せることしかない。素顔を見せるということはメーカーも人間でありその人たちが悩んだり喜んだりしながら製品を開発しているのだという当たり前の事実を知らしめることに他ならない。その過程で理不尽なユーザーの要求や意見には反論すべきだし、ユーザーを教育してやろうというくらいの気概を持ってもいい。相手は自分たちが開発した製品を使う側のパートナーであって、その製品を媒介にして互いにコミュニケーションの冒険を始めるのだという、そんな概念。 わたしから見るとネットは願ってもない自社製品のファン獲得の場である。オピニオンリーダーがひしめいている。彼らの情報はすばやく正確でその指摘は容赦がないが、いったん評価が高まれば彼らの支持と伝播力は実に強力だ。こうしたパワーユーザーたちを味方に引き入れることをメーカーは重要な戦略と位置づけるべきだ。そのためには逃げ腰ではだめだ。 ネット上のパワーユーザー(=オピニオンリーダー)は自分自身が新製品のテストのためのモルモットであるという立場を甘受している。彼らは自分の金で使いにくい新製品を真先に買い、あれこれと工夫して使い方を編み出す。テクノロジーの発展のための殉教者みたいなものだ。彼らの苦情や批判に含まれる情報を見逃す手はない。苦情を言う人は対応次第で熱烈なファンに変わりやすい。それだけ関心を持ち熱心であるということだ。そうした人たちのメッセージを覗き見して製品開発にフィードバックするとして、その行為はけっこう隠微ではないか? ネットはメーカーとユーザーが出会い、製品を間にしてコミュニケーションを試みることができる場所である。そこでは多少の摩擦が起きるだろうが、学習しつつ双方が変わっていく可能性を秘めた場所でもある。そのための勇気はあとで得られる結実と比べればじつにささやかなものだ。 ネット上におけるあらゆる企業・組織・団体と個人とのコミュニケーションの可能性を示すモデルがここにあるように思う。 12 Big Bang 1991年秋に初めてパソコン通信の本を書いた時、その後書きに「(ニフティ・サーブは)会員数20万を越える大規模ネットワークに成長した」と書いた。それからわずか4年。今年中にニフティ・サーブの会員数が 100万に届きそうである。日本のパソコン通信ユーザーの全体では 300万人を大きく越えるだろう。私が通信を始めた1987年頃は実に小さな世界であって世間からたいして注目されることもなく、そのメディアとしての可能性もビジネスの場としての可能性も理屈としては分かっていてもなかなか具体化しなかった。近未来の夢に留まっていたのである。ネット内ではコミュニケーションの量と同様に金の流れ欲望の流れも細々としていた。 それからの目まぐるしい8年間の間にまるで勢いよく空気を吹き込まれた風船のようにパソコン通信というメディアは爆発的に膨張し、周囲へと飛散していった。パソコン通信上で新しいサービスが始まったとか、電子メールはビジネスに必須だとか言う記事が(過剰なくらいに)登場するようになった。ビジネスの世界でパソコン通信が急速に認知されつつあるのがひしひしと感じられる。もう冗談ではすまされない、もはや子供の遊びではないという雰囲気である。 パソコン通信の内部では年々欲望が肥大する。初めはチャットで無駄話を繰り返すだけだった只のネットワーカーがやがてプロ化してネットを基盤としたビジネスを始める。1万円とかそんな単位の話だったのが100万単位になり、やがて億が見えて来る。外部からはここ(商用ネット)を自分のビジネスに結び付けようという人が集まる。その姿が砂糖に群がるアリのようだ。 何年か前にはカプラーを持ち公衆電話に群がってアクセス成功!と叫んでいた。今はなんの感動もなく日常的にISDN公衆電話を探して携帯端末から電子メールを送る。プロセス(パソコン通信をすること)には何の興味もなくなり、そこで何をするかだけに興味が移る。そしてパソコン通信上ではまだ多くのことが試されていない。 今世紀末にパソコン通信はどんな姿になっているだろうかと時々考える。勝手な予想をすればユーザー数で1000万人だ。どんどん乾き、そして実用品になって行く。マスメディアとしてのパワーをますます発揮し、数ではTVに及ばないにせよその影響力で特異な位置を占めるに至るに違いない。源から流れ落ちた細い水流はどうやら奔流に化けた。 しかしパソコン通信をする人が今後何百万人になるかということよりも大切なことがありそうだ。それは果たしてどれくらいの人たちが電子的な(別に電子的でなくともいいのだが)ネットワークに拠った新しい生き方、即ちネットワーカーとしての生き方を始めるかということだ。これはつまり社会が変貌していくということで、そうした変化を時々刻々ウォッチし続けることは今の時代に生きる我々だけに許されたたぐい稀な体験であると言えよう。 追記 「小さなおうち」という絵本がある。田園の中にぽつんと一軒だけ建つ小さな家が主人公で、その家の周囲が次第に都市化していく過程をユーモラスにしかし皮肉をこめて描いたものだ。田園生活への共感と都市化への批判に加えて怒濤のように押し寄せる時代というものを暗示しているように私には思われる。ネットについて考える私の内部には自分自身が「小さなおうち」であると同時に都市化を押し進める人間でもあるという錯綜した意識が潜む。この連載が多少わかりにくかったとすれば、それが一因だったかもしれない。お詫びすると同時に我慢強くお読みいただいた方に感謝したい。 戻る |