41 ポケットラジオ礼賛

 ときどき小型のラジオを持ち出してきてデスクの上に置き、小さなスピーカーから流れてくる音を聞いている。
 ノイズの乗った、小さなスピーカーを振るわせる音の響きが心地いい。デスクの上には簡単なものだがいちおうチューナーとアンプとスピーカーシステムがあり、そちらの方が音質もいい。そうは思うのだがなぜか聞き入ってしまうのだ。 海外からの短波放送も最近聞くようになった。これだけ情報が注ぎ込まれる時代である。なにも聞きにくい海外放送を小型の感度の悪い装置で聞くこともないとは思う。パレスチナ警察が到着しようとするガザ地区からでもテレビが生中継してくる夜、ラジオでドイチェベレ(ドイツの海外向け日本語短波放送)を受信しようと苦心するわたしはマニアックな先行者を追うおくれてきたリスナーなのだろうか。
 ポケットラジオをはじめて買ったのはたしか中学に入った頃だった。近所の電気店の主人がいくつかのモデルを持ってきて居間の畳の上に並べた。さあ、どれにしますかねえ。その雰囲気はラジオを買うというよりも今から考えると行商人から乾物かなにかを買うみたいだった。わたしは迷わずソニー製のを選んだ。縦型デザインが群を抜いていたし受信状態を示すメーターの赤い針の振れる様子がかっこよかった。
 それから自宅で毎日のように聞いたが不思議なことに持ち出した記憶はない。そのラジオはそれから四、五年も使い、一度も故障しなかった。電池は高価だったから大事に使い、夜聞きながら寝入ってしまうと朝になってひどく後悔した。 中学になると深夜ひとりで聞くラジオは自分自身の時間を作り出してくれるきっかけだったし、高校の頃の深夜放送は夜の間だけの王国のようなものだった。わたしは深夜放送のリッスン・オンリー・メンバーで、投稿者のユーモアと才気に憧れに近い感情を持っていた。深夜放送はことばの遊びという意味では現在のパソコン通信のある部分と似ていたし、感情のメディアだという点でも近いものがあると今になって思う。
 当時の深夜放送は基本的にリスナーからの投書で成り立っていて、それにディスクジョッキー(まだパーソナリティということばはなかったように思う)が「コメント」をつけるというスタイルだった。顔かたちの見えない本名もわからない投稿者とディスクジョッキーのコミュニケーションはおふざけやダジャレから「自殺しちゃダメ」までの広い領域をカバーしていた。部屋いっぱいに響きわたるような番組の雰囲気ではない。顔を寄せて聞いた。
 二十才を過ぎるとラジオを聞かなくなった。それが四十をすぎると再びこの「不完全な」メディアに興味が出てきた。音しかない。声しか聞こえない。しかしその制約が想像力をかきたてるし、片手間でも聞けるからテレビのように魂を奪われることもない。
 山稜で張ったテントの中で聞く風の唸り、織物の町を歩く時に聞こえてくる機の音、深夜布団の中で聞く遠くの汽笛、山ほど集まって草を食うバッタのざわめき、田んぼの水面を埋める水草が押し合いへし合いするきしみ。ポケットラジオから聞こえてくる音はそれらと同じ種族だという気がする。
 ラジオは衰退するだろうかと意味もなく考える。おそらくしないだろう。テレビが衰退するとしてもラジオは生き残るような気がする。テレビが人間の想像力を奪うメディアであるならばラジオは人間の想像力を育てるメディアだ。死に絶えようとする人類が聞く最後のアナウンスは、おそらくポケットラジオからの声だ。



42 架橋幻想

 対馬海峡に橋をかけるのは難しいだろうか。吊り橋にするには距離がありすぎるから海中に橋脚を立てることになるのだろう。海峡は台風に晒されるから橋は無理かも知れない。そう、橋は無理だ。なぜ橋と思ったかと言えば、橋は塔と同様に象徴的な存在で両岸の関係を象徴する建造物だからだ。
 橋が難しければトンネルはどうだろう。トンネルは作れるに違いない。青函トンネルの技術をもってすればプサンまでの距離は恐れるに足りない。列車が通れるようにしておけば、東京駅始発ロンドン行きの長距離列車が実現する。線路の幅の問題はあるが、軌道の幅の変化に対応する台車をつけたり台車自体を交換するといったやり方もある。東京から西に進み、下関から海底を走ってプサンで朝鮮半島に上陸する。北上してそのままシベリア鉄道に接続する。南下して上海、ベトナムを経てビルマ、インドへと繋ぐルートもできないことはない。インド・パキスタン国内を除くとイランまでは現存する鉄路は断続しているが、以後のヨーロッパまでのルートはできあがっている。
 東京駅の出発列車掲示板に「ロンドン行き」「ホーチミン行き」「ペキン行き」といった表示が登場する。わたしの場合なら自宅から私鉄と地下鉄を乗り継いで東京駅に行ってロンドン行きの寝台列車に乗れば、あとは目的地までひた走るばかりである。新幹線なみに高速化した列車ならばロンドンまでは一週間というところだろうか。今のままでも二週間あれば、ビクトリア駅に滑り込むことができるだろう。
 これは机上の夢だ。トンネルができたとして、ロンドンまで、いや、ペキンまでだって列車で行こうなどという酔狂な人種がどれほどいるか。海峡を渡るフェリーを大型化・高速化して増便すれば実際の需要には間違いなく対応できるだろう。その前にルート上の政治的な安定はどうなのか。
 ああ、わかった。たしかにそのとおりだ。わたしはひとりで問答する。トンネルなんて別にいらない。ヒコーキに乗ればいい。簡単な話だ。さあ、仕事に戻らなくちゃ。いや、ちょっと待ってくれよ。このトンネルはただのあなぼこじゃない。日本を大陸の一部にするという画期的なあなぼこなんだ。俺が日本にいるとき、この国が大陸の東に浮かぶちっちゃな島の集まりだという意識はない。けっこう大きな大地だという気がしている。伊豆大島は島だと思っているが本州も北海道も島だとは思っていない。だいたいが日本に住んでて島巡りをしたい奴がいるなんて信じられない話だ。
 なにが島でなにが大陸かなんて考えはじめたらきりがない。しかし陸地のかたちとその属性というものは住人になにがしかの影響を与えているものだ。島はどうか。島はいつも大陸の方を見ている。孤立した気分。じゃ、島は大陸よりも劣っているというのか?劣ってはいない。でもすこしさびしい。
 こんな文章を書きかけた時、英仏海峡トンネルがサービスを開始するというニュースを聞いた。新聞によれば対馬海峡にトンネルを掘るというアイデアも既に検討されているということである。技術は既に存在していて、あとは採算と政治が残っているにすぎない。東京駅にロンドン行き列車の表示板が掲出される日は来るのだろうか?
 大陸を走る国際長距離列車の旅がわたしに刻み込んだ印象があまりにも強いためにこんな幻想が湧くのだと、ずっと昔になってしまった大陸の旅を思い起こしていた。



43 二十一世紀のわたし

 小学校の五年か六年の頃に読んだある本のことを今でもよく覚えている。その本はたしかソビエトの科学アカデミーによって書かれたもので、西暦二〇〇〇年をすこしすぎた頃(つまり本の書かれた時から五十年後)の科学技術についての未来予測が述べられていた。その本はまだわたしの書棚のどこかにあるはずなのだが見つからない。
 その本を読み終えた小学生のわたしは本の中で予測されていることが実現する時自分が何才になっているかを考えた。……五十二才。二十一世紀というはるかに遠い科学と夢の世紀にため息をつき、次にその二十一世紀における自分の年齢にため息をついた。
 当時の少年雑誌には必ずと言っていいほど未来の光景を描いたイラストの頁があり、その中で未来は約束された理想社会として描かれていた。輝く金属とプラスチックに覆われた曲線だらけの清潔な未来。
 今でもはっきりと覚えているのは小学生だったわたしがそうした未来の到来を信じていた反面、五十二才になった時のわたしをあまり信用していなかったことだ。歳をとっても人間の思想の骨格はそれほど変化しないものだとは、自分がそれなりに歳をとってから悟るものなのだが、子供もまたある種の悟りを持っている。そして体験しないがゆえの断定は結構よく当たる。
 かつていくつもの国境を越えて貧乏な旅をしていた時、一万キロの旅も二万キロの旅も、陸路の旅というものは要するに隣の町に移動することの繰り返しの結果なのだと思った。時間の旅もたぶん同様で、一年が過ぎその一年に次の一年が重なり、一年一年が過ぎて世紀の終りがやって来るに過ぎない。時に区切りがあるわけではなく、そう考えれば世紀の国境を越えることはごく自然なできごとに違いない。
 一方で人間は儀式が好きなようだ。世紀の終りと始まりという出来事もめったに出会えない儀式であって、ひとつの世紀の終りともうひとつの世紀の誕生に立ち会うこと、そればかりではなくひとつの千年が終わってつぎの千年が始まる瞬間に生きることがある種の「幸運」なのだと思い当たる。
 だがその種の「幸運」は生存が保証された国に生きる人たちだけのものではないだろうか。現実の世界は苦渋に満ちている。殺戮は世界のあちこちで決して止むことがない。ひとつの枠から解き放たれることは自由に近づくのではなくもうひとつのより見えにくい枠に自分たちを閉じ込めることだったように思える。貧困や飢餓は改善されるどころか更に深刻化し、あちこちで破滅が日常化しつつある。アフリカで失われる命がボスニアの命よりも軽いように見えるのは錯覚なのだろうか。ルワンダでは何人殺されたって?忘れた。わたしはと言えばコンピュータのもたらした画期的なコミュニケーションの世界に生きて、電子メールを読み返事を書いてぬくぬくと毎日を過ごし、輝いて流れる端末の文字を見て一日を終える。わたしひとりに世界は救えない。くそったれ。
 こどもの頃、未来の都市などというものを想像するのは子供にもできたし、おとなになった自分自身を想像することはそれほど難しくはなかったが、その自分がどんな人間関係とコミュニケーションの中で生きるのかということについてはまったく想像もつかなかった。家の近くの古ぼけた書店の店頭で、迫って来る女主人のハタキに怯えながら見た未来図には人のネットワークに関する未来への約束が書き込まれていなかったのである。
 世界に張りめぐらされることが約束されている高速で大容量の通信網は貧困と飢餓を救えないのだろうかと突然考える。まるで文学や写真が貧困と飢餓を救えるのかというのと同じような表現だと自分でも思いながら。
 未来というものが色つきの絵解きとして示されることはもはや時代の流行りではないようだ。なぜならこれから変わっていく世界のその変化は基本的に不可視であるからだ。通信回線上のトラフィック増加は家のかたちを球形にしたり道路の全てを透明なプラスティックで覆ったりはしない。その代わり、人の気持ちや関係を変える。あるいは変えてほしい。
 二十一世紀がはじまった朝、どこでどんな気分で起き上がるのか。その時自分がどんな立場にいてどんな人々と働いているのか。わたしを巡るネットワークはどんな様相を呈しているのか。二十一世紀の到来を巡る期待は深まり、世界は混迷して、わたしはますます夢見る。



44 消えたボールペン

(はじめてインドに行った一九七四年頃にはインド・ネパールとヨーロッパとの間におぼろげながらも貧乏旅行者のためのルートが存在していた。アフガニスタンにはソ連軍は侵攻しておらず、イランのパーレビ王朝は倒されていなかった。陸路でヨーロッパまで行けたのである。ロンドンやパリとカトマンズを結ぶ安い直通バスさえもあったが、更に安く上げるにはローカルな交通機関を乗り継いだ。わたしもその方法を選んでロンドンを目指した。結果的にずいぶん時間がかかった。そのような旅ではふんだんにあって一番価値の低いものが時間であり、わずかな金を節約するのと引き替えに時間は湯水のように費やされたのである。カトマンズから始めてローカル列車や乗合バスを乗り継ぎ、ときには牛の引く荷車やタンクローリーにも便乗して数カ月後にイスタンブールに到着した時のわたしはほとんど幽鬼のような姿だっただろうと思う)

 イスタンブールに到着したのは「ヴァン湖急行」でテヘランを出発して五日目の朝だった。ボスポラス海峡を隔ててイスタンブールの対岸に位置するアジア側のハイダルパサ駅が「ヴァン湖急行」の終着駅である。線路が終っているすぐ先には海峡の水が揺れていた。大型の連絡船が待っていて、乗船を終えるとその船はゆらりと揺れて海峡を対岸のイスタンブールへと渡っていった。到着したのはイスタンブールの旧市街で、そこからほど近いところには有名なブルーモスクだとかトプカプ宮殿、地下を掘り抜いた「沈める貯水池」などがあった。
 イスタンブールという町は寒く乾燥したアジアの内陸部を通過してきたわたしには水に囲まれた輝くヨーロッパの大都会だったが、わたしとは逆のコースでアジアを目指すヨーロッパからの貧乏旅行者たちにとっては最初のアジアだった。ここで危険で激しい旅の始まりを覚悟し、アジアへと「下りて」行くのである。彼らの溜まり場のような安宿やンレストランなどがいくつもあり、そういう場所に行くと壁にピンでとめられた紙片を発見することができた。その大半は同行者を求めるいわば求人広告である。アジアの貧乏旅行は基本的に危険と隣り合わせだといってよかった。特にひとりの旅は男女を問わず危険である。この町ではひとりでやって来た男と女が共通する利害に基づいてインスタントなカップルを作りアジアへと旅立って行くのであった。そのような貧乏旅行者たちの溜まり場はどの国にもあり、そこに行けば情報があった。たとえばヒッピー、フーテンなどという言葉が飛び交った時代の東京の新宿東口には風月堂という喫茶店が存在したが、この店は(まるで正倉院のように)そうした貧乏旅行者の拠点の東端だった。
 イスタンブールに到着して何日か経った頃である。ヨーロッパ人やアメリカ人が集まるそうした店のひとつで日記を書いていた時声をかけてきた男がいた。ドイツ人だといった。同じテーブルについてなんとなく雑談をした。その男はそれほど若くなかった。もう十年以上旅を続けていると言った。十年。何ヵ月か旅を続けて日本のことも家族も友人も思い出すことがなくなり、いっぱしの旅人になった気がしていたわたしはなんとなく白けた気持がした。社会からドロップアウトして十年もの間旅を続けるような連中がヨーロッパにはいくらもいるのだ。男は延々と自分の身の上を語った。映画でも見るようにわたしは聞いていた。ひとなつこい笑顔のヒゲ面の男であった。旅を続けていると「こいつは同じ仲間だな」と感じる人物に出会う。するとたいした自己紹介とか身分証明は必要なしにすぐに昔からの友達のような気がしてくる。この男もそうだった。長い時間がすぎて、男はさよならを言ってひらりと席を立っていった。ひとり店のざわめきの中に取り残されて、なんとなく考えていた。旅をしているとあんな奴によく出会うものだ。時には予言者みたいに、時にはなんらかの告知者のように、群衆の中から現れてわたしに何事かを告げてまたひとの中に消える。それはまるで映画の一場面のようだ。ああいう奴はもしかしたら神様で、わたしに何事かを告げに現れたのかもしれない。
 わたしはため息をつき、闖入者に中断された書きかけの日記を続けようと思いボールペンを探した。普段は書かない日記を旅の間だけは欠かしたことはなかった。しかし先程テーブルの上に確かに置いたはずの黒のボールペンは結局どこにも見つからなかったのである。



45 カタログ読書

 わたしのカタログ集めは年季が入っている。なにか欲しいものがあるとまずカタログを貰ってきて日夜を分かたずに眺めつづける。時には寝床にまで持ち込んでそのまま寝てしまうというありさまである。薄っぺらなカタログにそんなに読むところがあるはずもないのだが、何度もスペックを検討し写真やコピーを眺めて実際に使った時の使い勝手を想像する。それだけのことに膨大な時間が費やされるわけだ。CONTAX T2 のときなどカタログが擦り切れるほど読んだ。
 そういう読み方をする機械の場合、たぶん最初から買うことは決めている。しかし値段が高いとか、自分にほんとうに必要なのかといったことを自問する時間が延々と続く。実物の大きさとか触感とかを想像したり使い勝手について思い巡らすこともある。自分はどう使うのだろうか、どんな場面でどんなふうに?ああ思い、こう思い、時間が過ぎていく。
 自分ではないどんなユーザーが買うのかとユーザー層について想像したり、市場性について考えたりもする。商品というものは鳴り物入りで登場してもあっという間に消えてしまっては困る。これから市場でどんなふうに受け入れられるだろうか?どう発展していくのだろうか?そんなことはメーカーが考えればいいことなのだが。システムとしての完成度も重要なチェックポイントだ。特にオプションについての検討は詳細を極める。もともとオプションをあれこれ買い揃えるのが好きなのだ。
 カタログ文化とかカタログスペックという言い方は往々にしてカタログ(的なもの)に対する批判を含んでいる。カタログは嘘つきだ。オーバーな表現。知られては困ることは小さく書く。そんな具合だからそのまま信じるわけにはいかない代物だ、と。
 そういう側面も認めざるを得ない。しかしカタログとは商品を送り出すにあたってメーカーが追記したユーザーへのメッセージであり、ある工業製品を金を出して買うことによって得られるものについて簡潔にまとめられた提案書なのだとわたしは思う。その商品を買うことによって得られる夢、利便性、利益、安心、プライドについての詳細な説明書がカタログの本質なのだと、何度も読み込んでいい加減くたびれたカタログを手にしてわたしは考える。
 カタログは読み解くべき現代の予言書みたいなものでもある。その機械では実現不可能に近い、或いはとても実用にならないに違いない活用提案が含まれていたりする。たしかに実用にはならないにせよ、その機械の子供や孫たちは確実にその夢を実現するはずだ。
 古いカタログを見れば時代を感じる。カタログにはひとつの時代が塗り込められている。数字や機能の羅列であって感慨や主観が介在しない分、余計に訴えかけてくるものがある。これは広告一般にも言えることだ。
 カタログは地図と似たところもある。カタログや地図の読書には終りがなく、いつまでも読めるのだ。想像力を働かせることができるという点でも共通点が多い。誰かが手にとってからいくらもしないうちに捨てられる運命にあるカタログといううすっぺらな現代の書物の中でわたしはずいぶん長い時間を過ごした。
 ものを買うことを通じて入手できる幸せというものがある。幸せのかなりの部分は金で買えるのだ。カタログにはその幸せの有り様(よう)についてのモデルも含まれている。ときとしてそのモデルは上滑りして哄笑を買うこともあるのだが、いわゆるカタログ情報を見るにあたって受け取った情報をどう修正するかは現代に生きてものを買う人間の必修科目ではないかとわたしは思う。



46 食堂車の一杯のコーヒー

 夕刻東京駅を離れて東海道を西へ向かい、やがて日が落ちて、しかしまだ熱海かそのあたりを寝台特急「はやぶさ」は走っている。関門海峡はまだはるかに遠くて、到着までの長い時間はたしかに存在している。その時間を追うのでも追われるのでもなく、いわば列車の速度に合わせて生きるというような、そんな気分が自然に感じられてくる。途端に空腹を感じて席を立ち、車内の通路を延々と歩いて食堂車に行く。四人掛けの席をひとりで占め、ハンバーグか何かを注文し、行きかけたウェイトレスを呼び止めてビールを一本追加する。窓に自分の顔が映っている。そこから目の焦点を外し、窓ガラスに顔をつけるようにして暗い外の景色を見分けようとする。やがてカチャカチャと食器が触れ合う音がして小柄なウェイトレスが食事を運んでくる。ひとりきりの移動する晩餐の始まりである。 となりでは数人の男たちが騒々しく話しながら酒を飲んでいる。かなりできあがっているようだ。しかしそのグループを除くと他の客たちは静かだ。列車の揺れが心地よい。車窓を流れる家の明かりというものはなんとまあ気分のいいものだろうかと考える。ビールの酔いが回ってくる。あすの午後にはひとりの男に会うことになるだろう。その男とは前の年の冬にインドの高原の中の村カジュラホで出会った写真家で水俣市の町はずれに住んで長年水俣病と患者の取材を続けていた。わたしの旅の目的は彼に会うことで、ある春の日の夕刻に西鹿児島行きの「はやぶさ」で東京を離れたのである。わたしは二十代の半ばを過ぎていて自分自身がなにものであるかという謎に踏み迷っていた。……
 記憶が美化されていくのはわかっているが今までの人生の中でやはり食堂車の時間は特別だ。疾走する列車の中で飯を食う。言ってしまえばそれだけのことなのだが、その食卓は高速で目的地に向かっているかあるいは遠ざかっているのである。そこにある暗示的なもの、黙示的なものを感じる。距離の旅であると同時に時間の旅でもある。ロマンチックにとらえるならば感傷のゆりかごで、シニカルに見るならば移動して目移りするために深みに至らない。それらもまたあまりに安易だと感じられるらば多少抑制のきいた人生の味わいの時だと表現することもできるだろう。
 ひとつの旅はかつてのの旅の再現でもある。旅を重ねるうちにそれは積み重なり溶け合ってついには自分がどの旅の中にいるのかがわからなくなってくる。死の床で夢とうつつの境界をさまよう時、脳裏に浮かぶ映像がどんなものなのか。それがいくつもの旅の映像が重なり合った陶酔の時であってほしいとは年来の願望だ。
 脱線した。とまれ食堂車でたいしてうまくもなくその割には高価な飯を食いながら窓の外の風景に見入る時、揺れながら過ぎていく土地は愛するに足りる。ディテールが見分けられず、結果的に単なる映像として受け取られるためにあらゆる恣意的な解釈と理解を許す。
 食事が終わればあとは締めくくりの一杯のコーヒーを注文し、受皿にこぼれた熱い茶色の液体をナプキンで拭いて、細心の注意をもって口に運ぶだけだ。
 思い起こす食堂車の数えきれないテーブル。できることなら生涯をまずい食堂車の飯を食って送りたい。家族と語らって平和な午後を過ごし、子供たちの成長を願いつつ座ってCRTを見て生涯を終えるなんてまっぴらだ。


47 川越へ

 西武新宿駅に着いたとき隣のプラットホームに珍しい車両を見た。たいした本数があるわけでもないのでめったにお目にかからない本川越行の特急「小江戸」である。
 改札に向かいながら「川越に行ってみたいな」と思った。川越は古い蔵造りの商家の残る町だがわたしは十年以上も前に仕事で一度行ったことがあるきりで駅の周辺以外はどこも知らない。古い町並みも見たことがなかった。
 乗ろうと思った。改札を出て特急券と乗車券を買い、再び改札を通ってホームに戻る。平日の昼前の下り特急はがら空きで、わたしの乗った車両には女性がひとりきりだった。「小江戸」はおそらく編成の全体で十人にも満たない乗客を乗せて発車した。
 どきどきした。高田馬場駅を出ると次はさっき乗ったばかりの下落合駅。特急はたいして速度を増すこともなくこの小さな駅を通過した。列車は次第に速度を増し、民家のぎっしり立ち並ぶ東京の区部を通過してどんどん開けた空間の方向へと進んで行く。畑が現れ、樹木が増えて行く。座席を傾け、足を伸ばす。わたしは新宿に出て紀伊國屋書店で本を探すつもりで家を出た。しかしもう走っている。もうしょうがない。
 四十分と少しで列車はま新しい本川越駅に到着した。二時間ほどで上り特急が発車する。それまでこの町にいようと思った。
 本屋を探して町の地図を買い、方角の目安をつけて歩き出す。
 空気が熱く、雲はなく、青空は輝き、影がとても濃い日だった。駅からなんの変哲もない地方都市の商店街を歩いて行くとなぜか空が広い場所に出た。その先に黒っぽい蔵のような商家が並んでいる。電柱と電線がないのだと気がついた。だから空が広い。
 バームクーヘンみたいに重なった記憶のどれかがフラッシュバックする。蔵の形や雰囲気が突然にゴプラム(ヒンズー教寺院の塔門。南インド独特の様式)を思い起こさせた。するともう蔵ではなくてゴプラムを見ている。川越ではなくマデュライ(南インドの宗教都市)にいる。
 蔵造りの商家がゴプラムに似ているのかと言われればかたちに共通点があるわけでもない。なぜ連想したのかと言われれば沈黙するばかりである。路上の熱さが古い記憶を呼び覚ましたのかも知れず、輝く青空がきっかけであったのかも知れない。それ以上考えるのはやめた。千キロも旅した気がして、ずっと旅した末にこの町に来たという気がした。
 ひっそりと裏通りにあった鰻屋で冷たいビールを飲んだ。それからまた町に出て熱い午後の人もまばらな商店街を歩いて駅に戻り、ホームで三、四人の乗客と共に上り特急の到着を待った。来る時よりも更に速く「小江戸」はわたしを西武新宿駅まで運び、その短い時間、深い眠りが訪れた。
 はやい午後の新宿。わたしは紀伊國屋書店を目指した。



48 書く筋肉のこと

 一九八七年の春が過ぎた頃パソコン通信というものを始めて、書くことで表現を試みる時代が再び始まった。その次にはいわばネットワーキングの冒険も始まったのだが、それはそれとしてまずは書くことだった。
 高校生の頃から何年間か、詩みたいな短文を書き散らしていたことがある。それはハシカみたいなもので、やがて忘れて何年も過ぎた。そして再び書くことに出会ったのがパソコン通信で、電子会議への書き込みというかたちで復活したのだった。
 書くことは一種の習慣であるらしい。四十才近くになって書くことを再開した時一番感じたことは手が思うように動かないということだった。書かないくせに自分ではけっこういいものが書けると思っている。そしていざ書いてみると書けない。書けるはずの自分の文章のイメージと実際に自分の書いた文章のギャップに愕然とする。ネットを始めて最初の衝撃はこれだった。思いばかりが先走って空回りしているの自分でもよくわかり、それが苦痛だった。
 で、どうしたか。それは簡単なことで、自分が今書いている文章が自分の実力なんだと認めることしかない。どんなにみじめであろうと、その文章が自分であると認めることからしか次は書けないではないか。そこでボツのない投稿欄と揶揄されたネットの特徴をいいことに文章を書き続けた。
 人に読まれているかどうかはわからない。読んだとしてもつまらなければフンッと思ってダメの烙印を押すだろう。そしてそのダメは書いた本人には伝わってこない。
 書くことは一種のリハビリだった。何のリハビリかといえば、たぶん失われていた自分を取り戻すための。ではどんな自分が失われていたのかと言えば、正確にいえば失われる前に忘れてしまった夢を見る自分が。
 七年ほどが経ち、その間どれほどの文章を書いたかは忘れたが、初期に突き飛ばされたような感じで書いた文章の量と比べれば今はなんともお粗末な限りではある。
 書くことはわたしにとってなんなのか?
 うまく言えないけれど、それは一種の筋肉運動であるような気がする。凝り固まっていた書く筋肉をほぐす時、そんな感じがしていた。慣れすぎて惰性に流れると筋肉のゆるみを後で悟る。負荷を与えることで書く筋肉を強化していくということも実感した。
 そしてまた書くことは癒しであり、解決であり、対話であり、発見でもある。 書く筋肉が負荷に耐えかねて軋む時、その苦痛というものはなかなかに心地よいものだ。



49 神戸へ

 姫路で新幹線から快速に乗り換えた。快速の行き先は神戸駅である。車内にはリュックサックを背負った人が少なくない。倒壊した家のことや被災した親戚のことが耳の脇で話されている。明石を過ぎると青い防水シートをかけた家が目立ってきた。もう夕方であたりはだんだん暗くなってくる中で青いシートの色だけが目立った。息苦しい。須磨付近で線路際に完全に倒壊した家を見た。それからはあたりはずんずん暗くなり、それにつれて風景は傾き、焼き尽くされた家々の残骸が現れる。冷え切った窓に顔を擦りつけるようにして、私は窓の外を見続ける。

 二十代の半ば頃のある年の夏から秋にかけて神戸に住んだ。新神戸の駅のそばの木造アパートの二階の六畳二部屋の一室を友人と共同で借りていた。生田町という小さな一角である。エアコンはもちろん冷蔵庫もない。暑い夜には起き出して近くにあるソフトドリンクの自動販売機まで買いに行く。毎日三宮まで歩き、阪急電車に乗って大阪のアルバイト先まで通っていた。朝は輝く六甲山地を眺めながら出ていき、夕方には灯の点き始めた傾いた町並みを見ながら帰って来る。気の向いた夕方には新幹線の高架をくぐってすぐに山道に入り布引の滝や貯水池まで散歩に行った。
 歩いて五分もかからない加納町の通りに面したスナックにオールドのボトルを置き時々行っていた。若い夫婦のやっているウェスタン風のインテリアの店で、豊かな胸をした人のいい奥さんと痩せぎすで嫉妬心の強そうな夫のふたりがいつもカウンターの向こうにいた。カウンターに寄り掛かって酔いの回った私は「神戸にマンションを買いたいな」と言い、奥さんは「あなたならばできるわよ」と何の根拠もなしに私を元気づけた。いつもひとりでカウンターに座り、話し相手もいなくてグラスを持ったままの私は言葉から東京者だとすぐに分かる。外国のどこかの町に住んでいるような気がした。確かに神戸は二十代の後半に至って人生に踏み迷っていた私がしばし留まった外国であったのである。町にはそのスナックの夫婦しか知り合いはいなかった。東京に生まれて育った私はその時始めて故郷を離れて都会に出て来た若者が感じる郷愁を自分自身の肌で感じていた。
 休みの日には町を歩いた。繁華街を歩く若くて美しい女たちを自分とは何の関係もなくこれからも何の関係も持てないに違いないと思いながら見た。港に行くとよく中国船が停泊していた。甲板から船員たちが見下ろしている風景は奇妙に寂しげだった。異国に停泊する船、その甲板で所在なげにいる中国人たち。それは私自身でもあった。自分が根無し草だと思うのはなかなかいい気分だったが、実際にはそれがある種のフィクションに過ぎないということも分かっていた。私が神戸に住んだのは結局のところひとつの旅の試みとその試みに火を付けた女の為だった。ひとりの女が一緒に行こうと言ったので私はインドに行く気になり、何ヵ月かを神戸で過ごして待ち続けた。しかしその女とインドに渡るチャンスが失われたことが分かった時、私はひとりでパンナムの世界一周便に乗りニューデリーに向けて羽田を飛び立った。

 神戸駅は夕刻のラッシュアワーだった。そのラッシュは不思議に静かな気がした。人は多く行き交っているのだが、そして皆が沈黙しているわけではないのだが、印象は沈黙だ。その沈黙が重苦しいかと言えばそうではない。投げやりではないが希望に満ちているわけではない。あるがままの今を受け入れている沈黙と言えばいいのだろうか。いや、命名は早急だ。
 駅前は暗い。応急に取り付けられた工事用のライトが行き交う人々を照らす。駅前には三宮行きのバスが待っていて、私は吸い寄せられるようにバスの外にいる係員から切符を買いバスに乗り込む。バスはあっという間に満員になるがどこにも混乱はない。すぐに発車して町に滑り出る。
 私の昔の記憶を辿るようにいくつもの迂回を繰り返しながらバスは三宮を目指す。迷路ゲームのようなルートをバスはたいした渋滞もなく進み、完全に倒壊したビルやそのすぐとなりで何ごともないかのように輝くパチンコ屋の脇を通過する。しかし全体としてこんなに暗い神戸は見たことがない。夜の六時半で深夜の雰囲気である。そして三宮が近づいて来た。かつて若さを持て余して歩き回り、そのあとでは小さな会社の営業マンとして何度も行った繁華街が黒く沈黙している。
 神戸三宮。駅前の歩道橋を多くの人が黒い影となって列なして歩いている。黙々と歩く。一見ペシミズムに彩られた未来SFの一頁のような光景である。阪急百貨店はもはや重機によって半ばをもぎ取られた遺跡のような姿である。瓦礫が明るすぎる照明で照らされるために目が痛い。
 歩道橋の上に立ち止まってあたりの光景を目に焼き付けようとする私のすぐ隣を若いふたりの娘が「地震がなかったら…」と言いながら通り過ぎる。そのあとは聞き取れない。しかしその言葉は地震を呪うのではなく、地震によって自分が発見したものを喜ぶようなニュアンスがあるようだった。その言葉が静かに語られる。これは戦争で、ここは戦場だと言った方が説明がつきやすい。戦時の日常とでもいったものがこの都市を支配している。
 私はジャーナリズムではない。ボランティアでもない。通過する歓迎されざる旅人だ。私はすぐにでも立ち去るべきである。そう、その通りだ。私は邪魔者であり、すぐにでもいなくなるべき者だ。
 バスを探す。住吉まで行けば大阪方面への快速が走っているはずだ。住吉行きのバスがどこから出るか、標識は完備されているわけではない。矢印があって、こっちだなと思う。そちらに歩いていくと人の流れがあり、たぶんこっちだろうと歩いていく。すると車掌がいて切符を売っているからそれを買う。バスはあとからあとからやってくるからどれかに適当に乗る。バスは行き先表示があるわけではなく、塗装が統一されているわけでもない。要するに緊急にかき集められた寄合所帯なのだろう。私はどこかの建設会社の名前のついたバスに乗った。
 乗れるだけ乗ると発車する。住吉までノンストップ。国道には専用レーンが確保されているから路線バスとは思えないスピードで疾走する。乗客はしゃべらない。運転手の肩ごしに見る風景は暗い。倒壊した家々が飛んでいく。

後記
2月15日の神戸の印象をあまりまとまらないままに記憶を追って書きました。



50 書斎の消灯


 夢は確実に実現するものだ。
 こんな生き方がしたいと、茫漠とした将来の門口に立って思ったそのような生き方が、だいぶ偏りはあるにせよ少し実現しているな、と最近になって感じるようになった。
 一九八五年頃、電子の書斎でひとりきりで機械に囲まれて仕事がしたいと思った時にはパソコンのCPUは8ビットで漢字をようやく表示できるにすぎなかった。最初に買ったワープロでは第二水準漢字を使うためには一文字ずつ別のフロッピーから登録した。ハードディスクは目もくらむような値段で、フロッピードライブすら二十万円以上もした。そのような時代に自宅を「電子の城」にするということは、ようするにドンキホーテみたいな思い込みが必要だった。私の場合は百万以上もする20MBハードディスク付のビジネスワープロを買い、さあ、これで仕事をするぞ、と思ってみたものの、何をすればいいかはよくわからないのだった。しかしそのようにしたいと思い、そうすることを何故か決めていた。 その時の私が将来に何を見ていて、何を目指して歩きはじめたのか、よく覚えていない。しかしコンピュータによって約束されている自分の将来があるはずだと漠然とながら思っていたのは間違いない。まるで星を見て砂漠を進んで行った博士たちのようである。
 だがそこに欠けていたのは、コミュニケーションだった。
 私の孤独な電子の小部屋には人の影がなかった。そのことに気がついたのはたいした思い入れもなくパソコン通信を始めて何年か経ってからである。
 今は夢のように快適な時代である。重さ七キロのラップトップコンピュータを見てなんと小さいんだろうと感激したのはついこの間のことだ。パソコンの性能は飛躍的に向上し、反対に価格は劇的に低下して、もはや誰にでも買える。
 使いものにならないパソコンやその他の電子小物の数々、それらを山のように買って来た私はいったい何をしてきたのかと時々自嘲ぎみに思うのだが、結局はひとつの時代というものを買い、それらの(あまりにも)未完成な製品の語る未来へのメッセージを買ったということだったんだと自らを納得させる。
 コンピュータと通信の進歩は留まることを知らないが、もはや私の夢の大半は実現した。道具としてのコンピュータと自分との関係は少しずつ沈静化し始めている。それと共に、閉じこもることで次のステップを踏み出すための場所となるべく意図された私の電子の書斎は、一通りの役割を終えたようにも見える。小さなショルダーバッグにポケットワープロとデジタル携帯電話を入れて外出し、これらを接続して喫茶店から電子メールを送る世界が今日の私の現実である。書斎に灯が点く時間が減っていく。その分、私は町の雑踏の中にいる。
 もはや私は書斎に留まるのではなく、移動する書斎と共に町を漂流しはじめている。



 ネット上で押しつけがましい連載を試みたことは何度かあるが、五十本まで書いたのは二度目である。一本目を書いたのが一九九二年五月三十一日で、五十本目を書くまでになんと三年もかかった。途中何度も中断しているし、ほめられたものではないが、まあなんとか目標を達した。この際、内容は問わないことにする。
 駄文を読むはめになった方々には申し訳ないことだが、懲りずにまた始めるかもしれない。
 ありがとうございました。

波田野直樹(書斎forum/sysop)



戻る