32 規範と大義
しごと部屋にいて、外気は冷たい冬だが太陽は明るく部屋は暖かい。
わたしはひとりで、はげましと叱責は内部から滲み出してくるだけだ。わたしはとことん自由でありまた閉じ込められている。
何年かぶりに昔の友人に会いホテルのバーでカンパリを飲みながら話した。姿かたちはほとんど変わっていない。なんとなくホッとする。しかし実際には彼もわたしも確かに変わっているに違いない。
まっとうなサラリーマンとしてのキャリアを積む彼と塔の上にひとり住む男のようにして生きているわたしとはものの見方が違って当然なのだが、その違いはたいして気にならない。
ひとしきり話題になったのはかっこよさについてだった。
かっこよく生きるのが一番だということで意見が一致した。かっこよく生きることは自分の基準にてらしての話だ。基準がなければならない。「つまり、…規範と大義だな」とわたしが呟くと彼はそうそうと相槌を打った。
規範というものはスパイ小説や探偵小説の主人公たちにはなくてはならないものである。危険への対処、判断の基準、自分の生き方。規範を持つということはカッコいい男になるための前提条件であるとスリルに満ちたストーリーを追いながら思ったものだった。
ひとりで部屋にこもって仕事をする時、ではどんな規範が要求されるのだろうか。早起き鳥のように起き出して決められた時間に路上に走り出ることか、機械のひとつひとつに名前をつけて呼びかけることか、しごとを始めるとき必ずある呪文を唱えることか。
わたしのひとりのしごと場は実は孤独ではない。むしろ饒舌であるといっていいだろう。ひとりでいるのは確かだが、電話がかかって来る、ファックスが紙を吐き出す、電子メールが次々と到着する。ドットプリンターが騒音を撒き散らしレーザープリンターが考え込んでは印字を繰り返す。
こんな生活をはじめて(正確には始めようとして)七年が経っている。朦朧としていた世界は次第に姿を現し始めた。それはかつて会社を辞める時に遠くに見ていた星雲のようなものだ。一九八五年頃、小企業のささやかな管理職であったひとりの男が人生の折り返し点に到達したと感じて将来のことを考えていた。そこで得た結論は自分が本当にやりたいことをやるのだということだった。自分をあるイメージの長い影に向けて投げ出すことをやるのだ。崖の縁に立って下を見下ろすような気分だった。
ひとりの規範、ひとりの大義。自分を鼓舞するのは自分、自分を叱るのも自分…。ひとりのしごと場でときたま考える。自宅をしごと場に選んだのは間違っていなかった。なにかある見えないものがわたしに教えたのだ、ホームワーカーとして自分を規定してみたら?と。
しかしその「なにか或る見えないもの」はまだ正体を現さない。わたしの規範への憧れはその不明の正体の回りを哨戒機のように周回する。
更にその規範の拠るところ、わたしの大義とはなんなのか。大義とはなんとおおげさなことだ。だがわたしたちが生きていくとき明快な生きる原理原則が欲しい。それを大義と表現しただけのことである。
家にいること、家族と混じり合って仕事をしていくこと。ささやかな選択だったがその結果わたしの人生は大きく旋回して行った。どちらの方角へ?自らの規範を作り出そうとする行動の方角へだ。そこでわたしが目安をつけたのはネットワークという言葉である。この言葉はなかなかに響きがよく長持ちしそうな概念のようだ。それにすがって生涯を過ごしてもいいように思えた。
何年ぶりに会ったからといって深夜まで大声で叫んで飲んだくれるのは「かっこよくない」。三時間ほど話したあとでまた会おうと約束して別れた。時を隔てて会った時に交わす会話は航海の報告に似ている。航海の日誌を繰りながらそれまでの何年かを手短に報告しあう。そのような時間は人生の中でたびたびあるわけではないが、なかなかいいものだと思った。ほろ苦いその味はカンパリの余韻だったのかも知れない。
31 ペン・フレンド
中学校に入ってから間もない頃である。雑誌で「海外との文通をしてみませんか」というような広告を見た。有料で文通相手を紹介してくれるのである。さっそく申し込んだ。
送られて来たのはスウェーデンに住む同い年の少女のアドレスだった。アドレスを頼りに地図を見ると彼女の住んでいるのはバルト海に浮かぶゴトランドという島である。文通の手引みたいな本を買って来て叔父から貰ったオリンピアのタイプランターでパチパチと打ち込んだ。しょっちゅう間違えてそのたびに紙を無駄にした。やっと書いた短い自己紹介に写真を添えてポストに入れた。
外国というものははるかに遠くて自分には行くことは夢のまた夢だ。そう考えていた。外国のめずらしい風景は「世界の不思議」とかそういった本に載っていて、そこから受ける印象はまるで縁日に出るろくろっくびの見せ物のようにめずらしくて非日常的だったのだと思う。一九六一年頃のことである。
投函してからおそらく三週間ほどして待ちに待った返事が来た。朝食のあと学校に行くわずかの時間に書いたような感じの手書きの手紙で、紙はそのへんのノートかなにかのきれっぱしだった。そして自己紹介をしたあとに実際これから学校にでかけるところだと書いてあるのだった。
わたしの方はたぶん一週間もかけてはじめてのタイプライターに向かって呻吟していたのだが彼女は朝食後の食卓でさらさらと返事を書いたのに違いない。写真も同封してあった。バルト海の中の島に住むブロンドのぽっちゃりした少女。その写真の中で彼女は映画スターのようにポーズしているのだった。
返事を書くのにはまたも苦労した。定型文をもはや使うわけにはいかない。自分の気持ち、自分の住む町、自分の趣味などを語らなければならない。時間がまたも過ぎていった。
ようやく書いた手紙への返事はまたもあっという間に届いた。彼女はわたしからの手紙を読むとすぐに返事を書いているのである。「返事をはやくちょうだい」と文末に付け加えてあった。
外国から来た紙とボールペンの筆跡。匂いが違い、はるかな遠くから来た物質であると感じられた。宇宙から飛来した隕石を眺める気分だった。
ある日小包が届き、ドーナツ盤のレコードが入っていた。当時スウェーデンでもっとも人気のあったグループのヒット曲を送ってくれたのである。英語とは違ってまったく耳慣れない言語によって歌われる聞いたこともない曲が流れた。島の風物を写した葉書も送られてきた。
彼女には当時流行っていた「スキヤキ」(坂本九のヒット曲「上を向いて歩こう」の海外での名前)を送った。日本情緒にあふれた図柄の切手も送った。外務省の情報文化局に行って日本紹介のパンフを貰ってきて、これも送った。
その後どんなふうに文通が続き、いつ頃中断したのかはもはや覚えていない。おそらくわたしの方が返事を書くタイミングを失してそのままにしてしまったのだと思う。
その後何回かヨーロッパに行く機会があり、いつでもバルト海上のゴトランド島に渡ることは可能だったが行かなかった。文通の相手に会うかどうかはともかく島を見る価値はあると思っていた。彼女は結婚していて子供もいて離婚しているかも知れない。わたしのことは忘れているかもしれないし覚えているかもしれない。まあどちらでもよかったがあまりセンチンタルにではなくその島がわたしにとっての最初のリアルな外国だったのだと思え、その光景を目の当たりにしたいという気持ちはたしかにあるのだった。
あれから三十年たって彼女の名前もスペルもおぼえている。その後文通をしたことはない。
33 渡しの風
わたしが今までに見たことのある最も小さな建物は、渡しの船頭が客待ちをした小屋である。
畳二畳分ほどの広さ。半分は土間で残りは板の間。おそらくはどこかの川の縁にぽつんと立っていて渡しの客を待つ船頭が人生の時を送ったのだろう。冬には風が吹き抜けていってもおかしくない貧しさである。火鉢がひとつあってその火鉢を船頭は抱いていた。キセルを燻らせ酒でからだを温めながら客を待ち川を渡る風の音が高まり静まるのを聞いた。
しかしよく考えてみるとその小屋の正確な大きさ、姿、構造はもはや忘れている。二十年近くも前の話である。今描写した姿はまったく事実とは反するかも知れない。もはやそこにはないかも知れず、更に確かなのはそのとき傍らにいた女が消息すらわからないことである。
渡しの小屋は記憶の中で更に縮こまり精緻な細工物のような印象を強める。記憶の純粋化である。象徴化も行われる。わたしは船頭ではないがわたし自身がその小屋の主である渡しの船頭であったと言ってもおかしくない気分である。
渡河はわたしの父親にとっては幼い時分の日常であった。川の向こうが小学校だったのである。あるとき雨風の強い日があって父は差していた傘が風をはらんだために吹き飛ばされて河に落ちた。船底をくぐり反対側の水面に浮かんだところを船頭に助けあげられたという。暗く滔々と流れる阿賀野川での話である。
印度南部のマラバール海岸の付近には海とつながった湖がある。そこを行き来する小舟といっていい小さな渡しの床には幼い兄と妹が日がな一日座り続けて楽器を奏で、乗客たちからわずかな金を得ていた。その光景を見た二十六才のわたしは次のように書き記した、
「そのうたはやさしく唄われたのではなくて噴き出したのだ。ひとびとは聴くともなく聴いていた……何の変哲もない場所がめまぐるしく変転する場所へ、陽光だけがまぶしい対岸へゆらゆら揺れながら渡ってゆく小舟が無限の彼岸への渡し舟にと鮮やかに変化していくのを俺は知ったのだ。一本のタバコを灰にする前に、午睡の夢に似て着いてしまう彼岸。彼らは小舟の床に座って何回となくふたつの岸を往復する。彼らは同じ唄を繰り返すのだろうか。そして幾月もが過ぎていくのだろうか。」
それからいくつもの川、湖、内海、海峡を渡ったが、そのたびに渡船はひとつの区切り、ひとつの断続であった。心が勇み未知の対岸への憧れが増幅される。断つものは同時に繋ぐものである。目的地に到着するということは出発の地を去るということである。
渡河を職業とする人は決して豊かとはいえない。畳二畳の小屋の主が豊かであるはずがないではないか。小屋に対する興味は実はそのような小屋で人生を送ることに対する興味である。
現代の日本においてはわたしはさほど豊かというわけではない。月並みな市民の生活である。しかしこれほどに豊かであっていいのかとわたしは恐れと共に思う。飢餓も死も日常とは遠い。銃弾も国家の消滅もはるかに遠い。かように抽象的な生活を送っているわたしはある時二十年近くも前のそれもほんの一度おとづれただけの記憶がなんの脈絡もなしに鮮やかに甦るのに任せてこの一文をしたためた。
34 深夜のささやき
二十年以上にわたって南米をフィールドとしてきた関野吉晴という探検家がいる。わたしと似たような年令である。ときどき雑誌などで見かけていた。医師が職業であるこの有名な探検家は意外にもわたしの近くにいた。畏友宮本千晴さんの長年の知人であったのである。その彼に会う機会がないままに最近雑誌でその消息を知った。南米の南端パタゴニアを出発点に北上してアラスカからシベリアへ渡りヒマラヤを越えて西アジアからアフリカへのタンザニアへ、五万キロを徒歩・カヌー・自転車で七年をかけて踏破するというのである。その記事を読んでわたしの中で何かがカチリと落ちた。
わたしは難破できなかった漂流者である。登頂できなかったクライマーでありベネツィアを出ることのなかったマルコ・ポーロである。彼は幸運な難破をした漂流者だ。頂きを極めた登山家、牢獄に入れられることのなかったマルコ・ポーロである。
かつてネパールからロンドンまで汽車やバスを乗り継いでの陸路の旅をしたことがある。自称IRAのメンバーとクレタ島のヒッチハイクをして、忍び込んだ農家の納屋の藁にくるまって寝たこともある。深夜のタール砂漠をタンクローリーに便乗して疾走したことも、洪水に見舞われたマドラスを臍(へそ)まで汚水に浸かってさまよったこともある。だがそんな体験など彼の過ごした日々に比べれば糞のようなものだ。まだおそくない、今からでも出発するんだと誰かがわたしに言う。
不意に過去の映像が飛び込んでくる。
スリ・ランカの平原にころがっている高さ百メートルもの巨石。そこいらあたりの熱い空気の流れとかが急にわたしの包む。熱帯の樹木、山吹色の僧侶たち、スコール。そのあとからとぎれとぎれにいくつもの断片的な映像が見える。世界のいろんな場所のいろんな時間。顔、笑い声。桜のはなびらが散るそのひとひらひとひらにひとつずつの過去と未来の記憶が書き込まれていて、それが吹雪となって風に舞う。
電子の空間での冒険というものがある。知の冒険、こころの冒険。幾千のきらめく夜。深夜のささやき、罵声、思索、ダジャレと語呂合せ。CRT越しに肌を触れ合うことすらある。容易に越えることのできるいくつものルビコン。
CRTの前の冒険にあまりにも時間を浪費してきたのではないか。深夜、人疲れしてコンピュータの電源を落とす。考えてみれば今日は誰にも会わなかった。しかしネットワークの上でずいぶんとたくさんの人と出会った。これは会ったのか会わなかったのか。人疲れしたのは事実だ。すると会ったことになる。そんな具合に夢かうつつかの境界で人と出会って、結局は出会ったことは確からしいのだが、あと一歩の皮膚に迫れない。
汗と筋肉の軋みに憧れながらいくつものCRTの中の文字と絵を見つづけるのが生活だ。ネットワークにはかんじがらめだが心地よくもある。電子の空間の自然はもううんざりだと呟きながら一向にアクセスをやめないわたしのすぐとなりに、はるかに旅することで自分を表現する男がいる。座して旅するわたしは何者か。机をはげしく叩いてもよい。椅子を蹴りアジアの平原に舞い降りる日を夢見ながら立ち上がり、眠るために階段を降りていく。
35 書斎の来客 その2
自宅の書斎兼仕事場で仕事上の打合せをすることが多くなった。
来客は狭い玄関から急な階段を登り、屋根裏のわが書斎にたどりつく。急な片流れの屋根の下に身を潜めるように座ると書類がカバンから取り出され、わたしの前に置かれる。背広の客は窮屈そうに見える。ここではジーンズが似合うようである。なんといっても個人の家だから、こどもがそっと登ってきて「わっ」とお客をおどかしたりトイレで家族と鉢合わせしたりする。ようするに邪魔の入りやすい場所であることは間違いない。お客にも忍耐が必要なのである。
仕事の打合せばかりではない。単に飲むだけのために人が集まることも少なくない。座談の楽しさは発想の積木みたいなものだ。木切れをあれこれ持ち寄るちまちまとした作業。それをいそいそと行うようになればそこの雰囲気は捨てがたいものであるに違いない。居心地がよく、話に集中でき、外界にもアクセス可能で、話が発展すればすぐさま作業にも移れるような空間。雑談の中から生まれたアイデアが具体化できる場所。アイデアを作業に移行させ、作業を知的生産に高められる知の工場。だがそんな夢も実際には酒が回るにつれて更に飛躍しグライダーのように高空を滑る。なんて素晴らしいアイデア、なんて素敵な表現。更に飲み続け、ろれつが多少あやしくなり、そして翌朝にはみんな忘れてしまう。時間制限なし。延々と飲み続けることができるのがいいところであり悪いところでもある。
仕事ではないがただ遊びにきた飲みに来たというのでもない、昼間の客もいる。たいていは初対面か或いはほんの数回会ったことがあるだけの人である。たぶん双方が仕事のきっかけやアイデアの交換に期待している。会話は自己紹介的なプレゼンテーション合戦からはじまり、いくつかの話題を巡り、互いの興味と知識と見識をより深く知ろうとして周回する。互いに相手に対してより有利な位置に立とうとする戦闘機のようである。しかしそこで行われるのは論争ではない。人と人との出会いから広がる可能性を見ているのである。お互いに触発しあう人間関係は貴重だ。この種の座談は最初の数分で結果が出てしまう。面白いか面白くないか、どちらかだ。だから緊張する。その緊張はなかなかいいものだ。
書斎にあふれる部品はひとつの雰囲気を作り出す。訪れた人はその雰囲気をその人を理解するための鍵にすることもできる。たとえば蔵書である。どんな本を持っているかに興味がある相手に対しては、人はおそらく好意を持っている。書斎に招かれた人は一様にあたりを見回し、本棚の本の背を順に見て行く。本棚を見渡してその人の心の奥を見ようとした記憶は子供の頃にまで遡る。つまり書斎に人を招く行為は自分を相手に理解してもらおうとする意思の表れともとれるのではないか。わたしの場合、本は少ない。代わりに何台かの大型のワープロやパソコンの行列を見てあきれる客が多い。ワープロを見てこころの行間は読めない。ハードディスクやフロッピーの中身を背表紙のように読むことができないので客はてもちぶさたのようである。
ひっそりと隠れる場所ではなく、またひとりで考える場所でもない書斎。外に開かれていて発信する場所としての書斎、ひとと出会い更に理解を深めようとする場としての書斎。つぎなる書斎への願望はすでに増殖を続けている。
36 絆
わたしの前を中学三年生の少年が歩いている。その前を少年の父親が歩いている。道は険しくはない。穏やかな稜線である。南には富士山がくっきりと見えている。森林帯、草の原、そしてまた森林帯。
五月の連休、山登りに誘われた。知人とその息子と三人で一泊二日の行程で大菩薩連嶺を縦走しようというのである。知人のY氏は若い頃はさかんに山に登っていた人。その息子は中学三年生で登山はここ一、二年のことらしい。
バスを降りるとしばらく林道を歩き、それから急な登山道になる。登り始めはつらい。ましてふだん一切のトレーニングをしていない体にはこたえる。荷物が多少重いのも原因している。しかしがんばって登り、息の続く限り歩いて四十分か四十五分ごとに休みをとるようにした。若い頃の登山と違い苦しいこと自体が楽しいような奇妙な気分だ。楽しいというのも正確ではない。衰退していく肉体を駆って年にほんの数回しかない機会を味わおうとする貪欲さがいつの間にか身についているようだ。
峠について昼食にした。それから稜線をゆっくりと歩いて今日の泊まりの介山荘に到着した。中里介山にちなむ名前を持つ山小屋である。この日、稜線からは富士山が実に大きく美しく見えていた。南アルプスもほぼ全山が見渡せる。前日は悪天で八ヶ岳などは吹雪いたそうである。
部屋に入る。座って、あとは夕食まですることもない。少年は暇をもてあましている。「おじさんくらいのトシになると、こうして何もしないで(山小屋の中で)座っているのだって楽しいんだよ」とわたし。
夕刻五時、夕食になった。連休の山は混む。食堂にあてられた小屋にはぎっしりと人が入った。普段からは信じられないくらいの食欲で、二倍は食べた。食後は畳一畳にふたりという勘定でぎっしりとフトンが敷かれた部屋にいて、またすることがない。夜八時すぎ、父親と息子は日常では考えられないくらい近くに並んで寝た。わたしはそのとなりで天井を見ていてそのまま眠りに落ちた。
翌朝四時すぎ、日の出を見るために起きた。赤い太陽が雲の間からねばつくよに変形しつつ現れる。今日は稜線を歩いて下山する。のんびり行くことにした。時間はかかるが楽な行程だ。歩きながら父親は植物の名前や地形の説明をしている。それを聞きながらわたしは最後尾をついて行く。
父親が息子に教えられることは具体的であればあるほどいいと、歩きながら思う。具体的な知識と判断のひとつひとつはたいしてむずかしいことでもない。道がふたつに分かれている。どちらを選んだらいいか?地形を判断し、しっかりと踏んである方を選べばいい。石に乗る時はその石が浮いて(ぐらぐらして)いないか確かめること。……。
サラリーマンの父親が手をとって具体的な知識と経験を子供に教える機会は多くはない。職人の父親はそれに比べたらはるかに具体的だ。第一、汗とか汚れたシャツとかの実在感が確かだ。わたしは父親から何を教わったかと思い返してみた。仕事のやり方を教えてもらったわけではなく、クギの打ち方や枝の払い方を教わったわけでもない。ペンキで汚れたシャツで帰ってきたのでもなく、わたしが寝てから帰って来て起きる前に出かけて行った。
穏やかな稜線の途中の居心地のいい休み場を見つけるたびにわれわれは休息した。天気がよく風は弱い。富士山はすこし霞んで山の陰に見え隠れしている。
37 別れの儀式
わたしが何度見ても見飽きない光景のひとつは空港で日常的に行われているある儀式である。
乗客の搭乗がおわると入口の扉がしっかりと閉じられる。それから機体は誘導路をずるずると移動して滑走路に至るのだが、その移動をはじめる前の短い時間にその儀式は行われる。
スポットから機体を引いてきた牽引車のわきに四人の地上勤務員が立つ。彼らの職種についてわたしは詳しいことを知らないが、人数は恐らくいつも四人だ。直立不動というわけではないが彼らはほぼ一列に並ぶと機体が自力で移動を始めるのをじっと待つ。わずかに機体が動き始めると彼らは一斉に手を振り始める。彼らは決まってゆっくりと手を振る。その手の動きは高速度撮影の映画の一場面のようだ。機体が彼らの前を移動して去って行くまでその儀式は続けられる。
ある夜のフライトでわたしは窓側の座席に沈み込んでその光景を見ていた。彼らから見れば一列に並んだ窓のひとつの中に映るちいさな影にすぎないわたしである。わたしから見ればスポット付近の照明の逆光の中に浮かぶ黒い影である。しかしその時なぜかわたしは手を振っていた。地上勤務員たちの別れの儀式をそれまでに何度見たかわからない。しかしわたしから手を振ったことはなかった。そもそもそんな時に手を振ること自体気恥ずかしいものである。しかしなぜかその時に限ってわたしは素直に手を振りたい気分になっていた。
すると彼らの中の何人かがわたしに応えてくれたように見えた。気のせいかもしれなかったが確かにわたしに向けて手が振られているように見えた。ほんの十秒かそれ以下だろう。機体の移動につれて彼らの姿は視界を外れていった。わたしはひどく満ち足りた物悲しい気分になっていた。……あの一瞬、彼らとわたしとの間に絆が生まれていた。彼らとわたしは意思が疎通していた。お互いを分かり合っていた。誰と?誰かはわからない。名前も知らないし、その履歴も知らない。顔すら定かには見えなかった。でも確かにわかり合っていた。
彼らは飛び立たない。彼らにとって手を振ることはごくありふれた日常の儀式だ。感傷などないに違いない。しかし別れが日常である仕事もあるのだ。そして思い返してみると、別れが組み込まれた仕事というものは思いのほか多いのだった。わたしはかつてあちらこちらの国で泊まった安宿の何百人という主人たちの風貌を思い出してみた。彼らは日常的に客を迎え、そして送り出している。その主人たちの顔とか雰囲気をもう二十年も経っているのに相当数思い出すことができた。国境を越える長距離バスの中で知り合ったり、町で出会って一日だけ共に過ごした旅行者たちの顔かたちを思い出そうとした。彼らもまた実に鮮やかにつぎつぎと甦ってくるのだった。その頃のわたしもまた別れる達人だったに違いない。
とりとめもない思考が誘導路を移動する機体の不規則な動揺で断たれる。空港はもはや青い光点の海だった。波頭を分けるようにして機体は進んでいき、一瞬静止して、それから身震いするようにして滑走路を走り出した。
あっという間の離陸は急角度で機体を成層圏に運び、暗い夜の水平飛行がはじまる。やがて機長の声。「……窓の外をごらん下さい。天の川が見えます。反対側をごらん下さい。……木星です。」身を乗り出すようにして目をこらし、星の流れる川を捜し求める。ずっと昔に読んだ詩の一節を思い出していた。「あれは漁火ですか と わたしが問えば あれは星ですよ と 船員が答えた」。
(文中の詩の部分は大江満雄の作品からの引用です。読んだのはもう四半世紀
も前のはなしです。出典については、今ここではわからないので調べてみま
す。)
38 飛行艇幻想
もう二十五年も前のこと、自分の将来に対して確固たる自信も展望も持たず自分が何者になるべきか答を発見できずに喫茶店を渡り歩くモラトリアムの只なかで、いつも持ち歩いていたノートに次のような語句を書きつけた。「飛行艇が環礁で憩う。」
そのときはまだ行ったこともなかった南の海の環礁の内側の静かな海面すれすれに大型の白い飛行艇が降下してくる。波頭に艇体を触れさせ、次の瞬間には波がその滑らかな底面にまつわりつく。速度が一挙に落ち、ひときわ大きな波を起こしたかと思うと停止して浮遊しつつ迎えのボートを待つ。それまで空を飛んでいた鯨が海に浮かんで憩う巨大な鳥になる。目を開けていられないくらい眩しい原色の世界、熱い空気、ねばつく潮風。そのような光景を何度も想像した。
たぶんその前にそんな写真をどこかで見ていたのだと思う。映画の一場面か好きだった軍用機写真集の一ページだったかも知れない。客の少ない場末の喫茶店のけだるい午後の淀んだ空気の中で、どこへも出発したことのない、しかしいつか必ず出発する者として、その光景を思い浮かべていた。今となってはその頃のことは気恥ずかしいとも思わない遠い過去で、しかし白い飛行艇が波のない海面すれすれに飛ぶ姿は未だに脳裏を離れない原風景のひとつである。
その後ほんものの南の海を見る機会があった。始めて見た南の海はインド亜大陸の南の突端、コモリン岬からの眺望で、そこでは三つの海、すなわちベンガル湾・インド洋・アラビア海が出会うのである。そこで旅の疲れを癒しながら何も考えずに数日を過ごした。太陽が上り中天で輝き、そして沈んでいくのを見る。からだが溶ける。そのあとには暗い水平線の近くに北極星が現れる。南の海には許しと癒しがあると思った。
それからの何年か、いくつかの南の海に出会い、自分が何者であるかは依然として不明だった。どの熱帯の海にも飛行艇は見当たらず、わたしは常にひとり日向でビールを飲み続けていた。
かつては軍用・民間を問わずひとつのジャンルを確立していた飛行艇も今は皆無に近い。わたし自身、実物の飛行艇を見たのはたぶん一度きり。こどもの頃、米軍の基地に入ったとき、小型の飛行艇があったように覚えているがたしかではない。しかしなぜかいまだに飛行艇という乗り物が好きで、なんの役にも立たない空想としてときどき飛行艇とたわむれる。どことどこを結ぶ空路が飛行艇向きだろうかなどと、気がつくとCRTの前で考えている自分を発見する。東京湾と小笠原諸島を結ぶ空路なんて素敵ではないだろうか。南太平洋の島から島へと渡っていく路線も楽しいに違いない。
大型の飛行艇はだいたいが深い艇体を持ち、浮遊する時には船になる。小型のものは飛行艇ではなく水上機で、これは言わばミズスマシである。なぜ飛行艇かと言えば第一に海そのものを離陸のバネとするその「生き方」にある。飛行機は鳥だが飛行艇はもっとも鳥なのだ。実際にはどこでもというわけではないが、離水着水が気儘に決められるように思われてそれがまた自由な鳥のイメージを強くする。森を切り開き整地してコンクリートで固めた滑走路と対立するように、飛行艇にとっての滑走路は機体を操る者の想像力の中に伸びている。行き先はやはり南がふさわしい。東京湾を飛び立って一路南に針路をとり、着水を誘う美しい環礁を探すのだ。
39 ブロック・ゲーム
レゴ(LEGO)という商標のプラスチックの小さなブロックを組み立てる遊具がある。自分がこどもの頃これで遊んだ記憶はないのだが、なぜだかここ数年急にこのブロックあそびが好きになってきて、こどもを連れてデパートのおもちゃ売場に行ったついでにLEGOの売場に立ち寄ることがよくある。ようするにこどもをダシに使っているわけだ。
特にテクニックというシリーズが気に入っていて、モーターや歯車を組み合わせて何の役にも立たない機械らしきものを組み立ててはギシギシと動かして遊んでいる。そうしてみると目に見える動きというものが新鮮に感じられる。大きな歯車と小さな歯車を組み合わせるともうレオナルドの気分である。
基本的には四角いブロックの集まりだから組み上げたかたちは決してスムーズではない。ゴツゴツした半完成品である。直線が基調であり斜めの線や曲線は不得意だがそれでもある美しさと力強さが生まれるから不思議だ。
できあがった乗り物や珍奇な機械はパソコンのモニターの上や机の隅に置いておく。長い間モニターを見続けてショボショボしてきた目には色鮮やかなブロックの青や赤がまるである種の自然の風景のように見える。ときどきは床に置いて走らせたりする。モーターを内蔵できるし最近は圧搾空気によるポンプシステムなども登場して、空気圧で動くアームなども作れるのである。ポンプを押し小さなレバーを操作すると、シュッという吐息のような音と共にアームが開閉してものをつかんだり上に持ち上げたりする。
LEGO以外にも国産のブロックのおもちゃはあるのだがデザインとセンスの点で遠く及ばない。最も大きな違いだと思われる点はこのLEGOという商品がシステムとして意識されデザインされていることである。
商品パッケージのデザイン的な統一から始まって部品のひとつひとつ、マニュアルの表現方法に至るまでしっかりした骨組みのシステム思考が働いている。
部品と部品がきっちりと組合わさること、どの部品も規格が統一されていていつまでも使えること、部品だけでも買い増しができること、作り手の想像力だけが部品を組み上げる際の制約条件であること。マニュアルには文字がほとんどなく基本的に図解のみで順序を追って作り方を教える。それは子供たちを対象にしたからだろうが、母国デンマークだけでなく世界を市場に想定した結果でもあるだろう。
そういえば日本でポピュラーになった「タイムシステム」やわたしが愛用している(しかし日本では人気がなく販売が中止された)「タイムマネージャー」などのシステム手帳もデンマークで生まれている。いずれも確かなシステム思考に支えられ、シンボルマーク(アイコン)を多用して文字に頼らないシステムを作り上げている点で共通するものがある。
安定したシステムはその中に住む安息をもたらす。ニコンの一眼レフのレンズをふくむアクセサリー群がそうだし、寿命の長い雑誌から感じるものもそれに似ている。いわゆる定番商品に対する評価の一部分はこうした安定したシステムに対する感覚から来るものだろう。そこでは想像力を働かせることだけが自分の仕事でありときとしてその想像力すらも衰える。システムそのものに対する疑問や不信はいらない。システムは絶対なのである。
ふと思う。われわれも自分自身で自分に安息を与えるシステムを作り出せるかどうかが問われているのではないか。自己の規範というような言葉で表現してもいい。すくなくともわたしは自分の目標となるべき生き方のモデルをいまだに作り出していない。
40 屋根からのながめ
一九七〇年代の終り頃わたしは神奈川県の隅っこで友人たちとテレビアンテナ工事の仕事をはじめた。ようするに屋根に上ってテレビアンテナを立てるだけのことなのだが、めっぽう粗利がいいんだと友人が言い出して、まあそれならやってみようかということになったのだった。
相模大野の駅からほど近い安アパートに友人のひとりが住んでいて、そこを事務所にした。わたしは新宿から小田急線に乗って通勤のラッシュに逆行して相模大野まで行き、事務所で電話番をした。電話がかかって来るとその電話のほとんどすべてが即注文につながり、わたしたちは買ったばかりのタウンエースに飛び乗って目的地へと向かうのだった。到着するとすぐに長いハシゴをタウンエースの屋根から下ろして新築の家の屋根に架け、するするとサルのように登って行く。と言いたいところだが実際には不安定で急なハシゴを登っていくのはなかなかスリリングだった。屋根に登りついてもハシゴから屋根に移るのはなかなか勇気が要る。傾斜のきつい瓦屋根の場合など、命がけだぜとつぶやきながら這い上っていく姿はあまり恰好がいいとは言えなかったに違いない。
屋根をまたいで四本の足のついた土台(屋根馬と呼ばれていた)を置き、金属製のポールの一方にTVアンテナをつけ、ステンレスのワイヤーを張って固定する。通常は使わない高価なステンレスのワイヤーの鋭い断面でしばしば指を深く切ったが、その傷は妙にそこだけは品質にこだわるにわか作りのプロの意地みたいなものだった。ワイヤーを張る時には四つんばいになり、屋根から身を乗り出してやはりステンレス製のクギを打つので、もうひとりがうしろから安全ベルトを引っ張って押さえている。設置が終わると電界強度計を持ち出してアンテナをグルグル回し、適当な方角で固定して作業は終りである。
このビジネスはいかがわしいわりにはまともなマーケティングの元に実行された。そのために注文は次々と舞い込んで、わたしたちは神奈川県のあちこちの新興住宅地に出没しては屋根に上りテレビやFMのアンテナを立てた。山の緩斜面を切り崩して作られた分譲地の一軒一軒には真新しい屋根があり、そのどの屋根の下にもひとりぽっちの主婦がいて、もと住んでいた家から運んで来た古びた家具とピカピカの室内との不調和に不安を募らせているのだった。
こどもの時など屋根に上ってみたいと思ったことは何度もあるが、それはしてはいけないことだったから上ったことはない。大人になれば意味もなく屋根に上りたいだけの理由で上るならばただの変人だというレッテルを貼られてしまうから上らない。わたしたちが屋根に上って行く姿を見てどの家の主婦も多少不安げな表情ではあったにしても、それは新しい屋根を壊されるのではないかという心配からであって、わたしたちが変人だと思っていたからではない。
職業というのはおもしろいものだ。仕事という断りがあれば大抵のことはヘンではなくなる。わたしたちが屋根に上っている姿を見ても「あ、アンテナを立てているな」と思われたにすぎないだろう。
郊外の分譲住宅地の場合は特に、家の大きさや高さはほぼ一定である。そればかりではなく材料や色調もある範囲に収まっている。そのひとつの屋根からのながめは、なんというか、わたしの正直な感覚では沙漠に近いものだった。
ひと汗かいてから、つかの間の休憩を屋根の上でとる。保険なんてものはかけていないから落ちたら運が悪かったということだ。わたしのとなりで屋根をまたぎ、遠くを見ている仲間を普段どれだけ信頼しているかと考えると、人間というものはかなりいい加減に命を他人に預けるものだと思わざるを得なかった。
新興の住宅地の屋根から屋根へとを吹き渡る風はわたしたちにも吹きつけてきた。初夏の汗が冷え始める。
毎日電話を待ち、注文を受けるとクルマを駆って真新しい屋根へと急ぎ、そして銀色のポールを立ててアンテナを高く掲げる。一本のアンテナを立てるたびに腰に下げた見えない拳銃に刻みをひとつつける。昼には二度と行かないどこかのスカイラークかデニーズに入り、どれも同じ味でかたちだけが違う料理のどれかを注文する。雨が降れば仕事は休み、当時日本に登場したばかりのアタリのゲームマシンでテレビゲームの元祖と遊び興じる。
その後唐突に起こったある事件のためにこの奇妙なスモールビジネスとわたしとの関係は半年ほどで終りを告げた。二度と屋根に上らなくなったが、屋根をまたいで見た景色のいくつかを今でもときどき思い出す。琥珀に閉じ込められた昆虫を見るような気分で。
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