21 氷河圏谷(カール)の凧上げ

 五月の連休の終わり、ぞくぞくと下山してくる登山者とすれ違うようにして叔父とふたり涸沢カールに入った。
 かつての氷河期、降り積もった雪が寒さのために溶けず、だんだんにうず高く積もり、自分のも重さで圧縮されて硬い氷となり、やがて氷河が谷を埋め、目に見えないほどの速度で落ちていく時、谷を石臼でこするように削って行った。V字型だった谷はその結果U字型になり、開けた明るい地形が出現した。
 日本にもかつて氷河があったらしく、穂高山群のふところ深くに位置する涸沢カールはその代表的な存在である。まわりをぐるりと三千メートル級の岩山に囲まれたカールの底は平らになっていて山小屋がありテントを張れる場所もある。日本に於ける岩登りの発祥の地のひとつと言ってよい。
 はじめて涸沢に入ったのはもう二十年以上も前のことで、それから何回か訪れている。その間にわたしもだんだんと年をとり、モヤシのように細かった身体もだんだんと太って来た。
 かつて清岡卓行がなにかの文章の中で「そして、わたしは悲しいことに太りはじめた」というような意味のことを書いていて、その文章を読んだわたしはまだ二十代だったから、若い人間に特有の時間に対する残酷さで「ふんっ」と思ったものだった。それから二十年。そう、太ることは悲しいことなのだ。
 雪の斜面をいくつも踏んで辿り着いたカールはあたり一面が雪だった。快晴である。ありとあらゆる雪と岩の風景の全体が輝く。
 まぶしい五月の氷河圏谷。これは正確に言えばこの世の天国のひとつの実体であると、苦しい息を整えながらわたしは思った。しかし口には出さなかった。ヘリが青い雲ひとつない空を頻繁に行き来する。ジェットヘリの金属的な轟音も風景のひとつとして許してしまえというような気分になっていた。
 翌日、同行した叔父と奥穂高のピークを目指した。もう六十近い叔父は途中で身体の不調を訴えはじめた。
 彼がこの氷河圏谷にはじめて足を踏み入れたのはもう四十年の昔である。それから人生の変転があり、今日は自分が山を教えた甥を伴って雪の斜面で自分の体調と戦っている。急な雪の斜面を登るのは息が切れて苦しい。彼はたちどまり勝ちになり、やがてギブアップした。
 はやばやと小屋に戻る。まだ正午前である。
 屋外のベンチに座り、挫折した稜線を見やる。ベンチはカールの底の小高い丘の上にある。その丘はモレーン(残丘)と呼ばれる。氷河が残して行った岩の累積である。
 ヘリが轟々と飛び回る。どうも昨日からのヘリの騒々しさは遭難者の救出のためだったようだ。
 わたしたちがぐると見渡す風景の中で何人かが死んだ。今日は快晴だが数日前には吹雪がこの山群を襲い強風が吹き荒れたのである。
 わたしたちの山小屋にはそうした死者たちのうちのふたりが下界に降りるヘリを待っている。稜線にもヘリを待つ死者たちがいる。あっという間の死とあっという間の町への帰還。
 トカゲの昼寝のような時間が過ぎて行く。そこに老婦人たちが現れた。登山靴も履いていない。彼女たちは感激の極みといった風情で景色に見入った。
 話しを盗み聞いているとどうやら若い時から登山を趣味にしていた人たちらしい。最年長の杖をついた婦人は八十才を目前にしているとのことだった。
 彼女たちは山の麓の河童橋付近からヘリに便乗して十分もかからずに運ばれて来たのである。
 「もう、この景色は二度と見られないと思っていました…」とひとりの婦人が言った。
 わたしはザックの奥を探って凧を取り出した。フレームのない小型の洋凧である。できれば奥穂高の頂上であげてやろうと密かに持って来たものだ。
 しかし今はここで揚げてやろう。
 風を待ってするすると糸を繰り出すと谷の安定な気流に翻弄されながらも凧は徐々に高度を上げて行った。鮮やかな凧と空の青はいいコントラストである。恰好の被写体の出現に周囲にいた何人もがカメラのシャッターを切った。
 叔父と交代で凧を揚げ続ける。すると老婦人のグループのひとりが「わたしにもやらせて下さいませんか」と声をかけて来た。
 「わたし、凧揚げるのははじめてなんです」という彼女の声は若やいでいた。 「わたしにも」「わたしにも」婦人たちは、凧を交代で曳き、倦むことを知らないかのようだった。
 残照。
 残照には違いない。しかし穏やかな老年である。五月の陽光は真夏と変わらずに強い。その下で老年の願いがひとつ聞き届けられた。
 老婦人たちが乗って来たヘリに帰りは死者たちが沈黙して同乗する。
 この山域を飛び回るヘリのそれぞれにひとりずつの死者が乗っていると考えてみる。そんな想像も一瞬のこと。凧の糸を小刻みに曳くと黄色と赤のやけに派手な凧は青空へと一気に高度を上げた。



22 名曲喫茶は、今

 渋谷の盛り場を歩きまわって喫茶店を探した。
 なかなか気に入った店が見つからない。
 喫茶店などどこに入っても似たようなものだと思うのだが、一度こだわりはじめるとなぜかしっくりと来る店が見つかるまで歩いてしまう。無駄なことだと思いながら足を棒にして歩き回ったことが一度や二度ではない。
 駅前のかつては古い汚い小さな建物が密集していた一角が今では巨大なファッションビルに変わっている。十代から二十代前半の若い男女のためのビルでありそうした客層に向けた商品が各階に溢れている。わたしがすこし休み、本を読み軽い食事をとれるような店は見当たらなかった。
 地下に降りてみると何軒かの店があった。このビルには不似合いな寿司屋とか喫茶店がある。喫茶店は名曲喫茶という看板を掲げていた。
 昔、名曲喫茶というものがあり、クラシックのレコードを聞かせていたことは知っている。ひとつの時代の象徴であり、それはわたしよりも前の世代の象徴であった。わたしの時代にも名曲喫茶という業態は存在したが、なんとなく斜陽の頼りなげな雰囲気であった。わたしはクラシックには興味を持たなかったので名曲喫茶に行くことはなく、瞑想や晦渋や、そういったものが店の中にありそうだと思いながら前を行き来するだけだった。
 店に入って行った。店の名前に見覚えがあった。そう言えばこのビルが建つ前この付近に古ぼけた喫茶店があり、それはたしかに名曲喫茶だった。ビルが建ったとき地下の一角に移ったのだろう。
 かつて押し黙ったクラシック愛好家の青年たちが座っていた。今はその店は客もまばらで、そのわずかな客も普通のサラリーマン風であったり保険の外交員らしい女性だったりする。青臭い想念はどこにもない。
 店の内装に昔のなごりが感じられた。
 茶のニセ革のシートも古い喫茶店の雰囲気を残している。
 ひとごとながら考えた。このビルは今や少年と少女のための空間である。遺跡のような名曲喫茶がここに存在することはなんとも場違いだ。種がここで保存されているのである。渋谷のガラパゴス諸島。
 喫茶店のドライカレーという最低の昼食をとり、ここ半年ほど付き合って来たスペンサーシリーズの文庫本の最後の一冊の二十ページほどを読んだ。ここに至ってスペンサーも老けはじめており、老眼鏡を取り出す場面が出てくる。それを読むわたしもまた多少本を遠ざけないと読みづらい昨今である。初老がわたしに近づきつつある。
 老いが醜いものか悲しいものか。断言はできない。人さまざまである。だがそれまで一切の死に頓着しなかった人間が老いを感じとる瞬間には初秋の風に似た爽やかななにものかに触れることができるような気がする。それも一瞬のことでその後老いは確実に彼を黴(かび)のように被いはじめるのだが。



23 一抱えの宇宙

 甕の中で金魚などを飼っている光景をときどき見かける。以前からあれをやってみたいと思っていたのがやっと実現した。
 一抱えほどの甕(かめ)を玄関の脇に置いた。水を張り、メダカや金魚、田螺(たにし)などを飼った。ホテイソウや睡蓮も入れた。睡蓮は夏の陽射しの中でぐんぐん茎を伸ばし、田螺はつぎつぎにこどもを生んだ。

 十数年ぶりに一軒家に住むことになった。
 子供がまだ小さいので情操教育のためにも生き物を飼ってやろうとは前から思っていたが、以前住んでいた都市のコンクリートの箱の中では生き物を飼うにも限度があった。その点一軒家は多少なりとも生き物を飼いやすい環境である。堰を切ったようにいろいろ飼いはじめた。
 はじめは金魚鉢で金魚を飼い、家の近くでたまたま見つけたカタツムリを飼った。カタツムリは野菜をよく食べた。郵便局に置いてあるチラシで注文して郵パックで配達してもらった鈴虫はよく鳴いた。やがてオスたちは死に、まったく鳴かないメスばかりが生き残った。
 虫や魚ばかりではない。生け垣にするためにベニカナメモチを自分で植えたのを手始めに何本かの庭木を植えた。プランターボックスをいくつも置きいろんな花の種を蒔いた。草花の発芽を久し振りに見た。ささやかながら自然への回帰である。
 わたしが小学生の頃は東京にも多少の自然があったがその自然はすさまじい都市改造の勢いに押されてまったくの劣勢であった。ザリガニやヤゴは線路脇のU字溝にいたし蛙のタマゴは住宅地の中の鉄条網に取り囲まれた防火用水池の底に渦巻いていた。
 衰弱した自然ととなりあって育ってきたのである。
 都会に育った者は時としてもっとも過酷な自然を夢見る。夢見るだけならいいがその中に飛び込んで行く。過酷な自然の中に育った者はその過酷さを味わったりはしないが都会の人間は酔狂である。そしてわたしもまたそうした酔狂な人間のひとりであった。
 しかしそれもずっと前のことだ。地下鉄のホームで電車を待つ時、落石の音に脅えることはなく氷のかけらが頬を打つこともない。
 落石の音に脅え、頬を打つ氷のかけらに出会うのは諦めたか?と誰かが問いかける。いや。諦めてはいない。小休止だ。いつ再開する?沈黙。
 こどもたちが甕の中を覗き込んでいる。
 甕の中に生態系が生まれる。一抱えほどの宇宙である。金魚と田螺がホテイソウの根の下で出会う。二匹の金魚はここから逃げ出せない。彼らは仲が悪いが生きている限り折り合っていくしかない。田螺は世界の内側を周回する。周回が螺旋状であるかどうかは定かでない。
 甕をもうひとつ置こうと思う。そこに別の生態系を作り出すのだ。ふたつの世界が互いに相手を知ることなく並んで存在する。安上がりな神々の技である。田螺はひとつ百円。ホテイソウは二百円。メダカは五匹で百円。わたしは世界創造のための見積もりを始める。



24 哀愁の電子手帳

 秋の雨の日のおそい午後のことである。
 百八十円コーヒーを飲ませるチェーンのコーヒーショップに入った。うまくいかずに考えあぐねている仕事の見通しをつけようと思ったのである。
 カフェ・オレを盆に載せて席を探しながら入って行くとかなり混雑した店の一番奥の隅にひとつだけ空いていた。となりには五十代の前半だろうか、やせた男性がひとり座っていた。その男の周囲の空気は冷たかった。となりに座ってのんびりコーヒーを飲みたくなる相手ではない。できたら遠ざかりたいと思った。しかし座った。となりの人物は別に汚い恰好をしているわけではないがどんな職業かもわからない感じがする。わたしはシステム手帳を取り出して書きはじめた。となりの人物がよれよれのコートのポケットから小型の電子手帳を取り出すとなにかを調べはじめた。
 そのとき思ったのは電子手帳はなぜかこそこそと取り出すものだということだった。電子手帳を取り出す中年の男たちはなぜかこそこそと取り出す。電子手帳というパーソナルな電子機器は、かなり高価な買物であるにもかかわらずステータスシンボルではない。それどころかなにか後ろめたい雰囲気すら感じられるのだ。
 押し下げるキーではなくて平ぺったい感圧式のキーだというのもひとつの理由だろうか。平ぺったいキーをなぜか力を入れて押している姿を見ると哀愁を感じるのである。駅の自動券売機のボタンを力まかせに押す。あの感じだ。その姿に機械とのレンアイに失敗した者の姿を見るのは思い過ごしだろうか。あのボタンには軽く軽く触れれば十分なのに。そんなことを思いながらシステム手帳の白いページを埋めていく。なんとか見通しがついてきた。ホッとして冷めたコーヒーを啜る。
 しかしシステム手帳もまた負の勲章ではないのか。
 上野公園の一角にあるカフェテリアに行ったときのことである。サラリーマンらしいこれも中年男性が黒いシステム手帳を広げていた。外を見ている。ボールペンを持っているが手は動いていない。誇らしげに広げているのではない。しかしひっそりと広げているわけでもない。ごく当たり前のこととしてシステム手帳になにかを書きつけようとしたのだろうが印象は違った。システム手帳にちまちまと字を書いている姿は自信と実績を感じさせるものではなかった。狭められた世界。
 ではわたしは何だ。わたしは百八十円コーヒーを飲ませる店の一隅でシステム手帳の上にビジネスを展開している。夢を生み、育て、終結させる。過程はここにあり未来すらもここにある。時としてわたしは思いつきを書きつけることに熱中してしまう。喫茶店や電車の中は無二の発想の場だ。しかしその姿はおそらく貧しい。更に思ってみれば手帳に書きつけることに熱中する姿にはなにかとり憑かれた感じがすることすらある。たまたま隣に座っただけの汚れた雰囲気の初老の男に心の中で難癖をつけるわたしもまた同類であるような気がしてきた。
 となりの人物が電子手帳をコートのポケットに戻した。誰かの電話番号を参照したのだろうか。しかしそのまま立つわけでもない。わたしはシステム手帳を鞄にしまい、その鞄の中には電子手帳めいたパームトップパソコンが入っていることをおくびにも出さずに強い雨の街路へと出て行った。



25 雑木林の酒宴

 焚き火というものは最近ではなかなかしにくい。
 都会ではもちろん自然の中であっても山火事の危険などを考えるとおいそれとやるわけには行かないのが実情である。
 ところでその夜の焚き火はこんなふうにしてはじまった。
 雑木林が続いている一隅にゆったりとした窪地がある。そのあたりには十台以上の四輪駆動車が集まっており、四十人ちかくの大人とこどもが窪地を蟻のように動き回っている。彼らはここにテントを張り一晩を過ごすためにやってきた。昼をすこし回った頃で陽はまだ高い。てんでにテントを張ったり炊事の準備をしたりしている。
 この集団の中のひとり、となり町に住んでいる画家がチェーン・ソーを取り出してきた。彼はチェーン・ソーのエンジンをかけると窪地の斜面をずんずんと上っていき、途中から折れた枯れたカラマツに歯をあてると一気に切り落とした。それを一抱えにできるほどの長さに刻んでいく。数人がそれを抱えて斜面を転がるように落としていく。下では軽トラックが待っていてつぎつぎに積んでいく。満載するとゆるゆると数十メートル走り、このキャンプのいわば「集会所」のあたりに積荷をおろす。その間も画家は斜面を走り、直径二十〜三十センチくらいの倒木をチェーン・ソーの木屑を浴びながら刻んだ。
 「集会所」では都会から移住してきた写真家が今切ったばかりの丸太でヤグラのようなものを組んでいた。
 中には細かい枝や枯れ葉を投げ込む。火をつける。手際がいい。火はあっという間にヤグラをなめた。そのヤグラに更に丸太をくべ、結局その巨大な焚き火はそれから十八時間以上も燃えつづけたのだった。
 画家は太い丸太を選び、輪切りにしてイスを作り始めた。彼のひと仕事が終わると四十人が焚き火を囲んで飲み明かせるだけの即席のイスとテーブルができていた。その一連の作業は怒濤の殺戮のようでもあり彫刻家の創造にも似ていた。作業が終わるとビールが出てきた。まだ三時前である。それから長い酒盛りがはじまった。
 陽が暮れてきた。窪地にはその集団しかいない。周囲は静かだが「集会所」のあたりだけはにぎやかである。プロのナイフメーカーがフライフィッシングの名人と冗談を言い合っている。ビールからバーボンになり、いくつもの太い丸太が加えられて焚き火は更に火勢を強めた。火の粉が舞い上がり十メートル上でクヌギかなにかの葉にまつわりつく。
 一抱えの大きさの牛肉を捌きつぎつぎに火であぶる。よく研いだ何本ものナイフが我勝ちに切り取っていく。人の輪はいくつもの波紋を描き、統制を試みる者はなく、全体を無秩序の秩序ともいうべき雰囲気が包んでいる。
 酔いが回り、しかし都会の酔いとも違う。自然はすばらしいという気はなく都会が醜悪だという気もさらさらない。斜面を走りながら木を刻む生活というのはいいものだ。丸太を組んで火を燃やす生活も同様である。チェーン・ソーを持つ画家の太い腕を思い出した。あの腕自体がひとつの彫刻みたいなものだ。

 すこし休もうと思い、テントに戻ったまま翌朝まで十二時間眠りつづけた。その間も酒宴は深夜まで続いたそうである。



26 老眼鏡を夢見て

 アメリカ製の探偵小説にスペンサーという主人公の登場するシリーズがある。このシリーズは延々と続いているのだが、その帰結として主人公もだんだんと老いて行く。その巨体に筋肉を鎧った拳骨パワーのエリートがある時老眼鏡を取り出す描写があり、すっと冷たい風が吹いたような気分にさせられたものだった。
 わたしが視力の衰えに気がついたのは二年ほど前のことである。あるオフラインの時のことだった。誰かの時計を借りて自分の腕にしてみた。それを見ようとしてつい顔を離したのだ。老眼かなと思った。ひそかにショックだった。それからゆるやかに時は過ぎ、砂がさらさらと落ちていくように老眼も進んでいった。 かつて。わたしの視力はあきれるほど良くて、百メートル先を歩くおさげ髪の少女が見えすぎて怖いほどだった。良好な視力は世界をくっきりと見せるが、そのあまりにもくっきりと刻まれた風景は恐れをも生む。
 辞書を見るときなどすこしつらい。若い時には辞書を見ること自体なんの苦もないことで、それゆえに楽しみでもなかった。今はかすんで行く視力と引き換えに俺は辞書を見ているのだと感じている。身体を苛んで知識を獲得するというほどおおげさではないが、それでも何かと引き換えにわずかな知識を手に入れているという気はする。
 老眼鏡を作ろう。銀縁で細いジョン・レノンのタイプのやつだ。喫茶店で文庫本を読むときそれを取り出す。老眼鏡を取り出す仕草はアタマに入っている。祖父や祖母が老眼鏡を取り出す仕草は何度となく見た。老人が老眼鏡を取り出す瞬間というものはなにか時間がそこで急にゆっくりと刻みはじめるようでもある。だれもがする仕草で取り出してだれもがする仕草でまたしまいこむ。
 老眼鏡は死への接近のひとつのシンボルであると言うこともできる。人生の時間の表示方法が残り時間の表示へと変わる。
 日本ではじめてエイズの患者として人前に登場した男性が「エイズは死ぬ。しかし人間はみんな死ぬ」という意味のことを言っていた。そう。われわれもまたレプリカントであり死に至る病を秘めているのである。
 老眼はかならずしも老いのシンボルではないが、わたしにとっては死との親和力を高めるきっかけである。午後の陽光がすこし翳る瞬間を忘れないようにしたい。



27 環濠集落

 大和盆地の南の縁あたりに今井町という地名がある。近鉄の特急停車駅・大和八木からほど近い。大和三山のひとつ、畝傍山のすぐ北側に位置している。
 あるとき大阪に行く機会があり時間があったので奈良大和路のガイドブックを買って喫茶店でぱらぱらとめくっていたときこの地名を発見したのである。環濠集落ということばが目に飛び込んできた。
 環濠集落。集落の周囲に濠を巡らして外敵を遠ざけ、精神的にも均質な空間を作り上げる。濃密な人間関係、濃密な擬似都市空間。ここに行かなければならない!
 ……八木から商店街を南へと下る。ひとつの交差点を曲がり、近鉄橿原線の線路を横切り、JR桜井線の下をくぐるとそこは今井町のはじまりである。
 今井町は飛鳥川のむこうに広がっている。特異な町に入っていくとき必ず奇妙な興奮を感じる。この町も特異である。その源は荘園制度の崩壊にともなって出現した自治村落であって、戦国時代には町の周囲に濠をめぐらして外敵を阻み、その内部には民家が密集して軒を接していた。現在もその面影は十分に残っている。現存する民家の大半は江戸時代のものである。
 町の周囲には幅三間の濠をめぐらし、その内側にはおなじく幅三間の土累を築いた。土累には竹を植えて外からは見えないようにした。町の路地は狭く、しかもあちこちに喰い違いや突き当たりを設けて外敵の侵入に備えた。独自の軍隊を持ち、町を防衛した。
 今井の自治の背景には本願寺の力があり、その本願寺と織田信長の権力闘争の中で今井は織田の軍に降伏。武装を解除された。
 江戸時代。今井は天領となり、死罪を除く司法権・警察権を得た。豪商がひしめき、大和の金は今井に七分と言われたそうである。
 明治維新。今井は衰退する。鉄道駅が八木町に設けられたため今井はその後の発展からも取り残されて現在に至っている。
 現在の今井町は南北約三百メートル東西約六百メートル。
 いくつもの重要文化財の民家が残り、その大半は今も人が住み商いに用いられている。
 環濠集落である今井は水で限られたいわば都市国家である。サンゴ虫のように密集した民家の様子は、かたちは違うにしろイタリアあたりの中世都市にも似ている。周囲はいまだに田園の風情を残している。のんびりした雰囲気の大和盆地の南縁に、しかしここにだけは都市の緊張がある。
 町の様子は京都に似たものがある。侵入者はこの町に入った途端に監視される妄想に悩む。出格子と呼ばれる格子の出っ張りがあって、ここから路地の様子をうかがう。パリの老婆も覗く。京都も覗く。覗き見る動作は都市の属性に違いない。
 ありもしない視線に悩みながら町を一巡した。ここは迷路ではないが迷路の持つ角々の緊迫はたしかにある。息を詰めるような気分。しかしそれは迷い込んだ偶然の旅行者の勝手な印象で、事実は秋の晴れた空の下で町は明るく静寂を保っているのだった。
 八木に戻り、近鉄デパートの展望の良いレストランで昼食にした。ビールを飲みながら大和盆地を眺める。正面には畝傍山がある。今井はその手前にあるはずである。このおおらかな風景の中であれほどの密度で町を作り上げるのはどうしたことか。都市の自治と武装は国を問わず時代を問わずにずっと夢見られてきたものだ。
 注文したポテトが来た。ビールを更に飲む。
 足元を近鉄特急が行き来する。高層のマンションがいくつか。立体駐車場。その向こうには金剛山地が連なり、だんだんと低くなっていく北のはずれには二上山のふたつの頂きが見えている。結構な古代の風景、折口信夫的な眺め。
 ビールが回ってきた。箸袋に山の頂きのいくつかをスケッチした。まだ午後一時にはなっていない。古代の盆地がふわふわしてきた。多少酔いをさましてから天理に行ってみようと思いつつ、またもビールを注文した。

 参考文献:「今井寺内町」(今井町町並み保存会・発行)



28 ぼくは波乗りを知らずに大人になった

 波、海の風。汚い海水の滞る湘南の海のにごって塩辛い海水を腹いっぱいに飲んでばたばたと暴れていたぼくはまだ小学生になったばかりだった。

 湘南の文化らしきものはぼくにとってはずっと憧れだった。はじめは父親に連れられて森戸海岸近くの会社の寮に行っていた。やがて家族と旅行しなくなったぼくはつぎに湘南通いをはじめたときには三十才を過ぎていて、いまはもう存在しない渚ホテルでいつまでもビールを飲み続け、また長者ヶ崎を望むレストランから傾いていく水平線を見て、やはりお決まりのビールを飲んでいたのだった。 つまり湘南には行ったけれどビールばかり飲んでいて他にはなにもしなかったわけである。その数え切れない湘南の四季、波の間にはサーファーの姿がいつも見えていた。
 湘南ではたいした波が来ないので、サーファーたちは昼寝するマンボウのように波間を漂ったり、ときたまわずかな波をとらえて一瞬の波乗りに興ずるくらいが関の山だったようだ。
 それからウィンドサーフィンがはやり、ボードに乗ったサーファーたちは駆逐され、帆を張ってすいすいと行き交う時代になった。
 泳ぎが苦手な東京の住人であるぼくは波と一体になることを素敵だと思ったけれども、いくつもの決断をしなかったせいで結局湘南ではひとりかふたりと別れてひとりと別れなかったにすぎなかった。
 ぼくが湘南に家族と行くことを嫌っていた時代、同年代の少年たちは波乗りをほとんど愛してしまい、波の間で友達をつくり波の下で死ともたわむれた。海と隣合わせの中華ソバ屋でラーメンをすすりコップのなまぬるい水を飲む至上の幸せ。
 ぼくがいくつかの山の頂きから平野を眺めたり岩の壁にかじりついてヒイヒイ泣いたりしていた頃、同じ年令の男たちはその技術に更に磨きをかけて波と一体になろうとしていた。波に乗ることはどれくらい気持ちがいいことなのだろうか?
 それからまた時間が経って四十代になっていまだにサーファーである男たちがいる。ぼくと同年代の連中である。波に揺れて過ぎてきた三十年、ラーメンとなまぬるい水に祝福された人生。サーフィンをせずにぼくは大人になった。



29 ガウディ詣で

 自分にとって重大な物事がなぜ自分に関わりを持つようになったのか、思い出せないことがある。わたしにとってのインド、ヴェネツィア。バルセロナとガウディにしてもそうである。なぜそこに行くと決めたのか、もうはっきりとはわからない。

 会社勤めをやめてから二ヵ月ほど経った一九八五年の秋、わたしと妻は秋のヨーロッパに渡った。バリで数日を過ごしてからバルセロナに夜行列車で入った。バルセロナ・サンツ駅から地下鉄に乗りランブラスのリセウという駅で降りてツーリスト・インフォメーションで教えてもらった宿に行った。
 宿に荷物を置くとすぐにランブラスの通りに出てカウンターだけの小さな店に入ってホウレンソウの入ったトルティーヤとセルベッサ(ビール)でおそい朝食をとった。それがビールとオリーブとカフェ・コン・レッチェ(ミルク入りコーヒー)で彩られたスペインの日々のはじまりだった。
 店を出るとビールでほろ酔いになり、いや、そうとう酔っぱらってまた地下鉄に乗り、サグラダ・ファミリアに向かった。
 サグラダ・ファミリア(聖家族教会)は想像を上回る巨大な建築だった。宇宙工学の成果のようであった。宗教的な建築はしばしば塔を建てる。天に届こうとする意思の表れだろうか。未完のサグラダ・ファミリアはトウモロコシのような塔を圧倒的な高さで天に向けて伸ばしていたが、それも実は主塔を取り囲む両脇の塔に過ぎず、その主塔は更に巨大で更に高いということだった。
 サグラダ・ファミリアは宗教建築であると同時に石切り場であり工事現場でもあった。何十年か何百年の後にはミサの参加者が居並ぶはずの広場にはやがて塔の高みに持ち上げられるはずの石のかたまりがまだ加工されずに野積みになっていた。
 サグラダ・ファミリアの前後に公園がある。その一方の公園にわたしは座りこみ、ひがな一日をトウモロコシの列塔を眺めて過ごした。空はスペインの青である。溜め息ともつかぬ息。ここにはいつでも来られるとも言え、一生来られないとも言える。風景を網膜に焼きつけることはできないが、今見ているぞ、忘れないぞと何度も何度も瞳孔のシャッターを切った。
 バルセロナには昔の女友達がいた。ある時「ほんの一ヵ月だけ」スペイン旅行にでかけてそのまま帰らず、ピカソの故郷マラガから来た男と結婚して子供がひとりできた。バルセロナの旧市街であるバリオ・ゴティコ(ゴシック地区)の路地の奥に住んでいた。スペイン戦争当時の弾痕が残る中世の石の町である。
 この町のどこかで日本料理店をやろうと考えている彼女は韓国のパスポートを持つ在日韓国人であった。彼女の紹介でこの町の住人である日本人の夫婦に会った。夫は人形を作るためにこの町にやって来ていた。奥さんは通訳をして夫を支えていた。わたしたちはガウディを見たいと言った。奥さんがわたしたちを案内してくれることになった。
 一日中タクシーに乗ってガウディを求めて町を走り回った。市街を出て理想主義者であり夢想家でもあった実業家のグエルが計画したコロニア・グエルという「町」に行った。そこには「地下教会」と呼ばれる未完成の教会がある。普段は畑仕事をしながらエンリケという名の老人が守っている。スペイン戦争で共和国政府の側で戦って負傷した足をひきづりながら教会の細部について説明してくれる。そのときフランコは死んでいた。
 松林の中の教会を辞してバルセロナ市街に戻った。わたしたちはガウディ研究所で許可をもらい、カサ・ミラの屋上に上ったりカサ・バトリョの内部を案内してもらったりした。
 数日して、またサグラダ・ファミリアである。わたしはまたも公園の地面に座り、尖塔を眺めてはときどき「ああ」と声にならない声を出したりして終日を過ごした。妻はその間ちかくのベンチに座って本を読んだりしているようだった。 カタロニアには不思議な造形の泉のようなものがあってそのひとつの結実がガウディという個人のかたちを借りているに過ぎないというような気がした。日本にいたときいつどこでガウディを知りなぜ興味を持ったのか、そういうことはすべて忘れてしまい、今ここにわたしがいてガウディの建築を見ている、それだけが確かだった。
 夕暮れが近づき、やはりここを立ち去らねばならない。おそい夕食にはまだ間があるが、ランブラスのざわめきがすこし恋しくなって地下鉄の駅に向かって歩いて行った。



30 アリはおごってくれたためしがない


 東京の渋谷と六本木の間あたり。六本木のにぎやかさはなく青山のスノッブな雰囲気は残している。店の数は大したことはない。夜は高架道路の下の車道からヘッドライトの光がひとけのない暗い歩道へとこぼれてくる。背後には鬱蒼とした森のような住宅地が広がっている。
 渋谷か青山で飲み、だんだん暗い方へと歩いてくる。飲みはじめる時の勢いは衰え、会話は一巡して更に深くなるかどうか逡巡している。おたがいの探り合いはゲームのようで、また絡み合う指のようでもある。暗がりの斥候はヘッドライトの光の洪水の目つぶしに遭う。休戦。今すこしの酒が必要だ。
 ビルの地下に降りていく。暗い茶色の色調、ジャズの流れるバー。ピアノが中央に置かれその回りを丸イスが囲んでいる。壁際にもカウンターがあり反対側の壁に沿ってソファとテーブル、それと向かいあった丸イスがある。
 アメリカ人だろうか、白人の家族連れが暗い照明の下で食事をしている。そういえばカウンターでレッドアイを飲んでいるのは太い二の腕に刺青をした海兵隊に違いない。
 だいぶ以前に連れて来られて気に入ったその店の主人は五十才くらいのピアノ弾きで笑わない。煙草をくわえてジャズのスタンダードナンバーを繰り返す。きょうはまだ時間がはやいので客から注文をとって回ったり常連とひとことふたことことばを交わしてたりしている。
 「アリ(主人のニックネーム)はおごってくれたためしがない」と書かれたTシャツが壁に鋲で止めてある。ここでは飲物はもちろんバーボンだ。
 租界。死語だ。しかし日本の白人社会の中に張りはぐらされた情報網がこの店を探しあてるのに時間はかからなかったに違いない。まあまあ安く、ばかでかいハンバーガーが食べられ、ときたま黒人女性のボーカリストがピアノの脇に立ってビリー・ホリディを追憶したり、中年の域に達したサラリーマンのバンドがディキシーランドジャズをにぎやかに演奏する店は、彼らにはオアシスのように見えるに違いない。日本人の海でやっとすがれるブイのようなピアノバー。
 香港の繁華街でオーストラリア人の経営するバーに入ったとき望郷の雰囲気に満ちていると感じられたのは勝手な憶測だったかも知れない。その店と主人が飲物をおごってくれたためしがないピアノバーの雰囲気はよく似ていた。
 なにかが逆転する。わたしが日本に住む外国人であり、店の客である日本人を外国人の目で見る。アジア人が酒を飲んでいると見える。刺青の笑う太い二の腕はお断りだが触れようと思えば触れられる細い腕はとなりにある。
 主人がピアノの前に座った。As time goes by だ。なんて月並みで、なんて異国。


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