11 天才の窓

 ピカソはスペインのマラガに生まれてバルセロナで少年期を過ごし、パリに出たが、戦争が終結したのち、一九四六年秋にニース、カンヌなどと隣合って海岸に点在する避暑地のひとつ、アンティーブに滞在した。アンティーブはこのあたりの避暑地の中でも高級とされていて沖合にはアラブの王族のヨットが投錨しているような土地である。一九八七年冬、わたしがこの人気のない避暑地を訪れたのはピカソの美術館の訪問が唯一の目的だった。
 さびれたような国鉄の駅から緩く下って行くと港に出会う。ヨットがいくつも係留されている。冬だったから町は全体に静かである。突然サイレンを鳴らした車の列が港沿いの道をつむじ風のように通過していく。その車の列の中の中心とおぼしき黒塗りの大型車の深い窓の中にはアラブ風の服装の巨大な体躯の男が座っているのが一瞬見えた。やがて低い城壁のようなものが見えて来る。かつて町を守っていた城壁の跡であろう。
 アンティーブではピカソは海岸に立つ小さな城、シャトーグリマルディに逗留して、ここを仕事場にしていた。町の外れである。この城は地中海に突き出すように建っているが城というよりも堅固に守られた邸宅と言うにふさわしい。どの窓も決して大きくはないが南の海に面しているために十分な日の光が差し込んでくる。
 採集箱に展翅された昆虫みたいな姿で展示されている美術作品……特売品の売場の隣で開かれるデパートの美術展を見るたびにそう思う。世界の文化的遺産が次々と日本に運ばれて来て、天井の低いざわざわした会場の中で目をむくような入場料金で公開される。背中を押されながら列を作って素晴らしい作品群を見るのは幸せか不幸せか。
 シャトー・グリマルディは閑散としている。中にはピカソの作品が溢れているが見学者はまばらである。住宅として考えるなら溜め息の出るような素晴らしい位置にあり、海は眼前にほぼ一八〇度開けている。過剰な光と広大な室内空間。生活の豊かさに対して或る種の罪悪感を持つのはよくないことだろうか。
 こどもの声が響いてくる。騒々しくやって来た彼らは広い展示室の床に思い思いに座って先生の説明を聞いている。近くの小学校の生徒たちの美術の授業らしかった。声が高い天井に響き、はねかえる。こどもはピカソの作品に馴染むように感じた。
 外のテラスに出てみる。地中海に身を乗り出したようなテラスの下は波頭である。遠く左手(すなわち東方)には白く雪を頂いた山々が見える。ヨーロッパアルプスの西の端、フランスアルプスの高峰群である。テラスにも鉄で作った作品が無造作に並べられている。
 実に創作活動のためにあるような建物であり環境である。町の商業的な中心は遠くはないがその賑わいからは隔絶されている。なにしろ小さくはあるが城なのである。ここでひとりの天才が日がな一日想を練り、作品を作り出したのだ。その現場にいて同じ陽光を浴び、なかなか立ち去り難くて、ずるずると日が落ちていく。



12 大きなデスクがほしい

 書斎の机はなにしろ大きくて広いのが欲しい。
 権力の象徴としての大きなデスクではなくゆったりとした発想を保証するための。OA機器に占領されたコクピットのような空間ではなく広くてなにも置かれていない只の広いデスク。
 木は結構疲れる。自然のままの木の家に入ると木の質感に圧倒される。デスクもそうだ。巨大な木の切株をテーブルにしたらそのテーブルとの腕相撲が始まるような感じ。それが、ペンキを塗ったり薄く切ってから貼り合わせたりすると、だんだん飼い慣らされてくる。
 現実にはわたしのデスクにはワープロやパソコンが鎮座していて、書類を広げるスペースはない。しかたなく脇に並べた折り畳みの小さなテーブルの上で書いたり書類を積み上げたりする。広いデスク、広いデスク、と呪文のように繰り返すがなかなか実現しない。広いデスクが手に入ったとしてもその上には書類やガラクタが山のようになるのはわかっているのだが。
 しかしいつも思うのだが、プロは信じられないくらい僅かな数のの道具で仕事をする。プロが道具を持っていないというのではない。プロは道具をたくさん持っている。しかしそれを手に余る程に持って仕事をするわけではない。たとえば登山のプロ(ベテランというべきか)はほんの僅かの装備しか持たずに冬の山に入ることがある。その少なさは感動的とさえ言えるほどだ。持ち物の少なさがまるで芸術だ。
 書斎には広いデスクがほしい。その上になにやら意味不明な紙や道具が山積みされるならわたしはまだ仕事のプロではないに違いない。プロの書斎には広くてその上にはほとんど何も載っていないようなデスクこそがふさわしい。
 しかしこれからはデスクの上の様子だけではわからない。コンピュータの中の書斎、そこにある蔵書、そこにある整理の道具。そういったものがきちんと整理されているかどうか。これは一見しただけではわからない。
 ああでもないこうでもないと考える。わたしの嗜好からすると道具は少ない方がいい。減らそう、資料とか、紙とか、道具とかを。しかしデスクの上のささやかな混乱と無秩序にはすこし安らぐ感じもする。
 ごちゃごちゃした場所というのは不思議にこころ許してしまう部分がある。そして一方に整理整頓を夢見る自分自身がいる。このふたりの自分はいつも拮抗し対峙していて、しかも互いに相手と共存したいと願っているように見える。
 広いデスクをいつかは実現したい。そしてその上に並べられた数少ない道具や資料が値千金のものばかりであってほしいと、もはや時代遅れになりつつある我が電子書斎の道具たちを見ながら思う。



13 工作室がほしい

 工作。ことばがなつかしい。子供の頃は居間に這いつくばってプラモデルを作ったり絵を書いたり、なにやらよくわからない図面を引いたりしていたものだ。 工作室が書斎とどう違うかと言えば、ナイフやドライバーや、切り刻まれるべきいろいろな素材や、接着剤や、色を塗ったり艶を出したりする道具や、荒々しい肌を滑らかにする道具が傷だらけのテーブルの上に乱雑に投げ出され、そこでは指先がものを言うのである。書斎のイメージは静謐だが工作の部屋には叩く音や切り出す音やさまざまな音が途切れない。そんなふうに想像する。
 こどもの頃に帰って木や紙で工作をし、セメダインの匂いを嗅ぐのはもはや相当に気恥ずかしい。しかし工作室のコンセプトそのものは決して死なない。ではそこでなにをするのだろうか。
 ずっと以前、雑誌で見たのはこんな記事だった。自宅の庭のガレージでクラシックカーのリストアをしている中年男。油にまみれコンクリートの床にはいつくばって、しかもこの上なく楽しい時間なのだ、と。そこが彼の工作の部屋であり家族や仕事を忘れる場所なのだという主旨だった。
 そしてふと思い出すのは工作の汗である。熱中の汗と言ってもいい。
 昔、ひたすら肉体をこき使う労働をしていたことがある。工作の汗はその時の汗とは似ても似つかない。没頭し集中して頭の芯がぼーっとするくらい熱中した末の汗の匂いのしない汗だ。
 工作をする部屋を作るなどというのはいまだ夢に過ぎない。だが時々気がつくと書斎にいるのに意識は工作をしている。なにかを切り、糊で貼りつけ、色を塗っている。それはワープロに向かいしごとをしている時でもそうなのだ。
 「工作」的な意識というのはどうやらわたしにとっては最も快活で前向きな意識であるらしい。頭の中で汗の匂いのしない汗をかくような仕事は間違いなくいい仕事だ。
 たまには木を切り刻んで彫刻をしてみたり、子供のために椅子を作ってやったりというような生活もいい。次の日曜には本格的な鋸を買ってこようか。



14 書斎の来客

 なんとか書斎らしきものが出来て、ようやく人を招くことができるようになった。それまでは狭い2LDKの一室を専有していたのだが、六畳大の広さの部屋にあれもこれもと詰め込んだのでひとの立てる隙間がやっとというような有り様だった。来客など思いもよらない環境だったわけである。
 ようやくしごと場とも書斎とも言える空間を確保すると、すこしずつ来客が増えはじめた。すると客というものはなにかとてもあり難い気がするものだなと思えてきた。
 その昔、稀に山の中の村にやってくる旅人は不思議な品物や奇妙な物語を運んできたものである。そうした人々はたしかに情報を運んで来たのだ。ネットで日常的に多くのひとと触れ合うような生活をしていると人と対面して話したり一緒に酒を飲んだりすることに奇妙な刺激を覚えるようになった。直接に会うことが実に貴重な時間であり情報の交流の場であると感じるのだ。
 わが家の書斎兼しごと場に訪れる来客もたしかに情報を運んできてくれる。居間にはテレビがあり食卓があって脇ではこどもが遊んでいる。そんな場所で行われる会話と、書斎らしき環境とはまだまだ言えないものの多少は生活の匂いを断った部屋で話されるテーマの違いはやはり感じられる。つまり書斎的な環境ではどうもブレスト的な会話がやりやすいようなのである。
 話題の芽が誰かから提供される。それがことばの遊びを伴いながら育っていくことがある。そうした時間は実に楽しくかつ刺激的である。
 わが家の書斎には来客はせいぜい三〜四人が限度で、部屋が狭いためにそれ以上だと床に座りこんでしまうことになる。しかしいずれにしてもどこかのレストランやバーで議論するよりも安心できるし安い。
 仮にもっと広い部屋があったらと夢想する。たとえば二十畳大の部屋だ……座り心地のいいソファがあり、良質の音が部屋を静かに満たし、飲物が過不足なく準備されていて。
 書斎の来客はわたしにとっては最も信頼できる人たちである。彼らがやってくると互いの知恵と情報を交錯させてなにかを生み出すための空間が出現する。ひとりきりの作業の合間に、縦糸に対する横糸のように刺激的な来客がある書斎の生活はどんなに素晴らしいことだろうか。
 来客の去ったひとりきりの書斎は急に静かになる。いくつかの機械の冷却ファンの音やハードディスクの音が耳につく。今しがた受け取った刺激を自分なりに消化して形にしていく作業がこれから始まるのだ。



15 石の方丈(アジャンタ)

 インドの中部の有名な仏教遺跡であるエローラ・アジャンタ遺跡を訪れたことがある。
 ふたつの遺跡はあわせて一日で見て回れるような位置にあり、わたしは乗合バスでこのふたつを訪ねたのだった。どちらも有名だが様相はだいぶ違う。エローラは平野に露出した岩山の斜面を切取って寺院を「堀り残した」ものである。石炭の露天堀りのように露岩を上から下に向かって堀り下げて行き、最終的にはその露岩のある平原のレベルまで堀り進める。その時予め作られた設計図によって寺院の姿を残していくのである。岩が取り去られなかった部分がやがてそそり立つ。つまりこの岩の寺院は大地から「生えて」いるのである。そうした建設方法をとるから寺院はコの字型に岩の壁で囲まれることになる。ひとつの寺院の削り出しには数百年を要したという。
 一方アジャンタは人工の洞窟である。平原に深く谷を刻んで切れ込んだ河が蛇行してU字型になっている、そのUの字の内側の部分のほとんど垂直に近いような岩の斜面に道を作り岩を穿って洞窟を作る。洞窟の中にはいくつもの部屋をつくり、ある部屋は祈りのための部屋、またある部屋は僧侶たちが寝起きする部屋になっている。
 このふたつの遺跡を訪ねる前は岩の中に住むということがなんだか原始的な生活であるように思われた。しかし実際に見てみるとだいぶ印象が違っていた。あたりは夏には非常に気温が高くなる。その時期、岩の中に寝起きすれば強い陽光を避けることができ、かなり涼しくて快適ではないかと思う。湿度もほとんど感じられない。また岩というものはけっして冷たく無機的なものではない。むしろ円やかであたたかい感じさえする。穴居の寺院というものはかなり実用的な側面も持っていたのではないかと思われる。
 僧侶たちの寝起きしたのは洞窟の中の壁に掘られた穴である。小さな穴が並んでいる。そのひとつひとつが僧侶たちの個室だったのだろう。
 そこは黙想の部屋としてはかなり効果のある空間ではなかったかと思う。暗くしかし明りを灯せば十分な安らぎが得られたはずだ。岩に響く読経の声、ささやきと呟き、溜め息。
 洞窟を出ると冬だというのに太陽はぎらぎらと眩しかった。思想さえも萎えてしまうような暑さもあるのかも知れないと、ちらっと思った。



16 ビンチ村の午後

 女友達のノブ子さんがイタリアのフィレンツェ郊外に住んでいる。下町育ちのきっぷのいい女性である。何回か訪れ、泊めてもらったり町を案内してもらったりしたことがある。彼女がときたま帰国するとどこかの盛り場で会い、食事をして何時間も話す。
 もともとイタリアの美術史かなにかを調べに行ったらしい。レオナルドあたりを中心にしていたと聞いたことがある。彼女はイタリアに行ってすぐに自分の父親とほぼ同年のイタリア人ジノ・フィドルフィと同居するようになり、もう十年近くになる。品のいい、おだやかな、素敵な男である。
 フィレンツェは古い都である。旧市街の狭い通りには自動車の排気ガスが充満し、ドゥオモのそばの路地の奥には砂糖菓子のようなサンリオのファンシー商品を売る店があり、中世そのままに古い家具を修理する工房があり、決して質が高いとは言えない職人仕事も含めて、手仕事というものがいまだに生きている。
 フィレンツェはわれわれが歴史の授業の中で習った人々が息をする人間として歩き回っていた都市でもある。ミケランジェロの工房もあったし、コジモだって生きていた。マキャベリはたしかにここに住んでいたし、あのレオナルドだってこの町を歩き回ったのだ。
 あるときノブ子さんがレオナルドの家を見に行こうと言った。レオナルドに生家がありこどもの時代もあったのだとは何か奇妙な感じがするが、それは当然のことだと自分を納得させる。ノブ子さんはジノをせきたてて小さなフィエスタの後部座席にわたしを押し込めるとビンチ村へ向かった。
 フィレンツェからビンチ村へはほんの一時間というところである。今ではまあ近郊だと言っていい。車から見える風景、トスカーナ特有の緩やかな丘にレバノン杉の点在する様子は美しいと言って差し支えない。広大な農場とその奥の邸宅の組合せがいくつも現れる。「あのお城、どう?農場つきで一億も出せば買えるよ。お百姓が毎年ワインとか届けてくるしさ。」東京の猫の額のような家を売り払いレオナルド・ダ・ビンチの生誕の地の近くのパラッツォ(邸宅)の住人になって広大な農地を見渡しつつ年貢のワインを楽しむような生活が日本人の選択肢にはあるのだ。
 小高い山に向かっていくつもの丘陵がせり上がり、そのひとつが馬の背のように長々と尾根状に伸びている。その馬の背に家が集まっていて、そこがビンチ村である。あたりはオリーブの林。家々が途切れるあたり、村の一番奥にレオナルドの家はある。
 石を積んだ粗末な家である。当時のままに保存されているのは間違いない。床はなく土間である。ここで生まれた、ここで産湯をつかった。天井が高い。窓は小さくて、雨の日雪の日ならば室内は暗くそして寒々としていたに違いない。しかしその日は秋で、晴れていて、なにかしら素晴らしい午後だった。
 レオナルド、レオナルド。珍奇なカラクリをつぎつぎと考案し、芸術も技術もないまぜにしてあらゆる創造の神と交信した天才である。そしてわたしは天才の生家を見に来た観光客のひとりににすぎないが、しかし、やはり創造がしたいのであった。レオナルドの生まれた家の戸口のあたりに立って出たり入ったりし、そこを行ったり来たりしてもレオナルドの天才の残滓ががわたしに降りかかるわけでもなく、それは当然のこととしてわかっていたが、それでもそのあたりに何か天才の秘訣のようなものが潜んでいるのではないかと思うのだった。
 レオナルドの身長がどれくらいだったかはわからないけれど、その家の庭から見える風景は大きく変化しているとは思えない。わたしの目に映る風景はだからレオナルドのそれとたいした違いはないはずだ。そうした感覚はいってみればレオナルドの張りぼての中に入ってそのからっぽの目の位置に自分の瞳を合わせてみるようなもので、間違いなくわたしが観光客であることの証なのだった。
 わたしは持ってきたコンパクトカメラを出し、超ミニサイズの三脚をとりつけてそばの石垣に乗せた。ジノがその三脚を見て感心し、ほう、というような溜め息をついた。そう、わたしは世界に冠たる工業製品を生産する国から来たのである。
 じゃ、ちょっと待って。
 わたしはタイマーをセットし、レリーズボタンに触れると小走りにノブ子さんとジノの傍らに走り寄った。赤いLEDが北イタリアの青く晴れわたった空の下で輝き、点滅し、そして軽いシャッター音と共にわたしのビンチ村の午後が固着された。
 それからわたしたちはフィエスタに乗り込み、村の中心まで戻ってバルをみつけ、休息することにした。そこにもレオナルドの考案した奇妙で巨大なゲーム機があり、わたしたちはそのゲームマシンに埋もれるようにしてワインを何杯か飲んだ。その機械は木製で鏡のついた奇妙な構造を持っていた。なぜかセクシーな雰囲気の漂う、やわらかな拷問機械のようだった。
 どうだった?とノブ子さんが聞いた。
 オリーブだらけの村だな。
 的外れな返事をすると、ワインの酔いにまかせてわたしはやわらかな拷問についての想像の世界にのめり込んでいった。



17 三畳一間

 高校一年の時、半年ほどひとり暮らしをしたことがある。
 当時は家を建て替えていてその間わたしだけが家族と離れて下宿していたのである。下宿は家族の借りていたアパートの近くだったので食事などには不自由しなかった。
 下宿は三畳で半畳分の押入がついていた。家の玄関で靴を脱ぎ階段を上った正面で両隣に部屋があった。
 わたしの部屋にあるものと言ったら実に貧弱だった。机、椅子、電気コタツに布団。ラジオはあったがテレビはなかった。電話もない。
 壁と壁にに挟まれた廊下のような部屋である。コタツと布団は共存できない。 学校から帰ると本を読むくらいしかすることはない。家族のところに行って夕食をする。下宿に戻ってくるとあとは長い長い夜である。
 わたしは写真部に入っていて、一眼レフとベローズを無理して買い、接写に凝っていた。花をむしりオシベとメシベの構造に驚嘆し、花びらを通過してくる光りの優しさに惚れた。夜通しでファインダーを覗いていたこともあった。
 隣の部屋には大学生らしい男がいた。地味な暗い雰囲気の人だった。反対の隣の部屋は女性だった。化粧をしたことのないような、たぶん学生だった。しかしどちらもほとんど顔を合わせることはなく、壁を通して話し声が聞こえてくることも稀だった。
 西向きの部屋だった。西日がもろに当たる。曇りガラスを通して西日をいつまでも浴びているとへんになるかも知れないなと思ったりした。風邪で学校を休んだ日は夕陽がこたえた。
 ひとりで暮らすことははじめてだった。ほぼ完全な自由であるとわたしは思った。家族はほんの数分の距離に住んでいるのだったが。
 夜ごと天井から下がった明かりはうすぼんやりと部屋を照らし、わたしはコタツにもぐり込んで文庫本をいつまでも読み耽っていた。話すことはない。話さないことはわたしには新鮮だった。くすんだ色の壁が目の前に立ちはだかっていてその距離はあきれるほどに近かった。その壁に親近感を覚え、語りかけることはしなかったが。
 その後どこかの国の安宿に逗留することになった時、高校生の時分の下宿生活を思い出した。狭い部屋、わずかな持ち物、なんとなく自由な感じ、コミュニケーションの途絶、不確かな未来。それらがどこかの国の安宿とわたしの高校生時代の下宿の共通の属性だった。



18 小梨平暮らし

 二十一才になったばかりの夏、信州上高地の河童橋近くにあるキャンプ場に滞在したことがある。
 高校の時からすこしは山に登っていたが北アルプスは前年の剣岳がはじめてだった。そしてその年は上高地から穂高の涸沢カール(氷河圏谷)を経て奥穂に登り、岳沢を下って上高地に戻ったのだった。同行した仲間たちはそうそうに松本に下って行き、わたしひとりだけが残った。
 キャンプ場にツェルト(非常用に使われるごく軽いテントの一種)を張り、残った食料で食いつないだ。キャンプ場には小梨(こなし)平という名前がついていた。小梨の木から来ているのであろう。
 ツェルトの中は座るのもやっとと言った感じの狭苦しい空間である。中には薄い安物のシュラフと小型のコンロ、ローソク、いくつかの食器、ナイフ、わずかな衣類。そんなものが散らばっている。
 雨が来ると薄いナイロンの布地はすぐに濡れきってしまい、やがて雫が滴ってくる。そんな時は中で傘を差した。
 金がなかった。偶然のことで焼岳にあった小屋のおやじからボッカ(荷物を担ぎ上げること)のアルバイトをしないかと言われてコーラの瓶の入った木箱を担ぎ急な崩壊地形につけられた鎖場をおそるおそる通過したりした。山小屋で食わせてくれたカレーが実にうまかった。
 テント生活というのはなかなか面白いものだ。
 家のように堅牢ではなく、かと言って自然と肌を触れ合わせているわけでもない。風が吹けばその風に脅えずにはいられないが、その風のせいで皮膚の温度が下がっていくのわけではない。
 自然にかなり近く、しかしわずかに人工を残している。
 狭い狭い空間だから奇妙に安らぐ。鼻がつくくらい低い天井を見上げながら結構いろいろなことを考える。かたつむりのように自分が背負える分しか持てないから必然的に持物は厳選され、必要最小限度のものが身の回りに残る。生存のための最小の道具だ。そこにわずかでも「特になくとも済むもの」があると実に贅沢に見える。小さなラジオは天気を予測するための大切な情報機器だが、そこから流れてくる音楽のなんと豊かな気分に満ちていたことか。
 わたしのいたあたりにはたくさんのテントがあり滞在期間が長引くうちに友達が出来ていった。朝起きて食事を作り野天で食べていると近所のテントの連中と挨拶を交わすようになる。一番近くにあったのはある大学のテント村で、そこの管理人(?)の学生とはすぐに仲よくなった。
 日中はわたしは穂高の明神岳あたりに入ったり焼岳への荷上げのアルバイトをしていたりしたから彼と会うのは夕方だった。夕食を食べ終わる頃にはあたりは暗くなる。自分の狭くるしいツェルトと比べるとその大学のテントはまるで立派な住宅のように見えた。中に入れてもらい一緒に酒を飲んだりした。
 山の中では毎日晴天が続きキャンプ場では夜毎歌声が聞こえていたが、外の世界ではアポロが月に最初の人類を送り、その中継画像がキャンプ場の中の管理棟のテレビにも映し出されていた。
 スローモーションのように月の地面をジャンプしていく宇宙服が小鳥のさえずりすら聞こえる山の中のキャンプ場では不思議な違和感と共に見えた。
 夏のキャンプ場にいつまでも留まるのは変人である。
 大学のテントにはつぎつぎと学生たちが来ては去って行った。夜毎のキャンプファイア、歌、飯作り、そして別れ。わたしと「管理人」はそうしてまるで旅館の番頭のようにバスで松本に降りていく連中を見送り、テントに戻っていくのだった。毎日のように。
 学生たちと夕食をすませるとわたしは狭いツェルトに戻りロウソクの明かりで文庫本を読んだ。

 やがて山を降りる日が来た。
 別に降りなければならなかったわけではない。時間は無限にあるように思えたし生活自体は呑気で陽気だった。おびただしい人たちと会って別れていた。だがある日なんとなく「降りよう」と思ったのだ。ひとつの長い息をついたあとのちょっとした空白のようなものを感じた。
 「管理人」にさよならを言った。簡単な別れだった。
 夏の祭りが終わったあとのような気分だった。その年の夏の後でわたしは旅行と山登りを頻繁に繰り返すようになったのだと思う。



19 神々のLED

 深夜である。
 仕事の息が尽き、きょうはこれまでとワープロの火を落とし、あちこちの電源をオフにする。部屋の明かりを消して寝室に下りていく。これが毎日の繰り返しである。階段を下りがけに振り返るとひとつふたつの小さな赤い点が部屋のあちこちに見える。LEDの赤い色である。
 仮に。部屋にひしめく電子機器の全ての火を落とさずに部屋の明かりを消してみたら?
 電話、ワープロ、ファックス、パソコン、モデム。数えてみたことはないが仕事の部屋には数多くの電子機器がある。そのそれぞれに実に多くのLED表示が用いられている。色も様々である。赤、緑、黄。それらの色はユーザーであるわたしに機器の状態を伝えてくる。
 LEDの色と数はいわば機械からの報告である。それらの報告を特に意識せずにしかし視野のどこかに置きながら仕事をし、思いにふける。都市の街路は情報に満ちているが部屋の中のLEDもそれに劣らず華やかで饒舌である。
 これらの明かりはもしかすると部屋の中でひとりで仕事をするわたしにとっての雑踏であり都会の喧騒である。情報からの遮断は不安を増長する。LEDの明かりは過剰な情報がこの部屋にまで到達していることの象徴であり、ひとり部屋にこもってなにかを作り出そうとする者にとっての街路灯である。
 部屋の明かりを消す。
 窓の外を見ると新宿西口の高層ビル街区が見える。ビルの窓の大半は暗く、その輪郭が暗い空にうっすらと浮かび上がる。
 ビル群にまぶされた星。
 赤い明かりがいくつもいくつも点滅している。点滅しない明かりもある。そのあたりが星空のように見える。赤い星の集まった星雲のようである。
 機器の火を入れたまま部屋の明かりを消してみる。
 すると部屋の中に赤い星、緑の星が現れる。明滅しない蛍のようにも見える。掌の中の星である。

 もう深夜。
 機器の火を落とし部屋を明かりを消して階段を下りていくとわたしの部屋の赤い星の群は束の間の眠りにつく。
 窓の外の星は明滅を続け、朝を迎え、また夜となり。



20 探偵志願


 子供が生まれると洗礼を受けるようにコミュニケーション用のチップを身体のどこかに埋め込む。そんな時代がわたしの子供たちが生きている間に実現するのではないかと恐れそして夢見る。そのチップにバグが発見されたらリコールするのも大変だろうと思うけれど。
 コンピュータの操作は思考そのもの。最新鋭の戦闘機のパイロットに似て外界を肉眼で見る必要はない。一種の生き物であるやわらかなヘルメットの中にコンピュータと人間の共生する世界が広がる。
 もはやどんなSFも威力がない。技術が疾駆しひっそりと考えて思いつく作家の想像力を凌駕する時代なのだと夢うつつに考えるのは新宿の午前の喫茶店の大きなテーブルの前に座ったわたしである。店内には客はほとんどいない。店の女の子は手持ち無沙汰。惚けたような時間が流れていく。
 肉体に埋め込んだコンピュータではなくやっと手のひらサイズになったパソコンを目の前においてうれしい。この程度の機械の肉体への接近がしかし現実に仕事や生活のスタイルを変えていくのなら、これから先われわれに与えられる未来というものは実に輝かしいではないか。しかし一方では自分が石器を持ってうれしがっている人類のはるかな祖先のような気もする。
 どこまでも小型化し高性能化していくコンピュータ、そしてマイクロマシン。機械と人間の境があいまいになりおたがいが犯しあい、愛し合うような時代はかつてあっただろうか。
 コーヒーを一口飲み、書類を広げる。
 ポチポチと手のひらサイズのコンピュータの極小のキーを押し、システム手帳のページを繰り、いくつかのアイディアをスケッチする。まあ快適な午前の移動書斎である。喫茶店は適度に空いているに限る。
 漂流しつつ仕事をしコミュニケートする。このスタイルが好きだ。電話、ファックス、書類、ノート、計算機、筆記具、ラジオ、テレビ、テープレコーダー。こんな道具がごく普通の鞄の中にすんなりと入り、たいした重さでもない時代である。
 仕事のスタイルについて気がつくと考えていることが多い。自分はどんな仕事のスタイルを目指しているのか。思い当たったのはミステリー小説の中の探偵たちのことだ。彼らは膨大な書類を持たない代わりに人間データベースを持っている。事件が起きると誰かに電話したり会ったりするのである。個人向けの情報機器を駆使する探偵にはまだ会ったことがない。
 カウボーイであれ私立探偵であれ、なんらかの通俗的なモデルを追ってこの世を生きたいと現代のフリーランスのはしくれであるわたしは思う。残る課題は肉体的なタフネスであろう。
 仕事は生きるためであり食うためだ。しかしそのわずか向こうにあるのは未だかつて存在したことのないモデルを自分が提出してみたいという願望である。
 それはなんのモデルなのか。生き方。仕事のやり方。コミュニケーションの方法。人との関わり方。自分でもよくわからない。しかし新しい生き方があと薄いベール一枚の向こうにあるような気がする。
 客が増えて来る。
 大きなテーブルをひとりで専有する午前の裕福な時間が終りかけている。
 電子小道具を片づけ、枝に乗って飛び立つ寸前のカラスのような気分でコーヒーを飲み干してあたりを見回す。枝を蹴って一飛びすればあとは新宿のアジアの雑踏である。獲物は見つかるだろうか。

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