1 地下室願望
書斎を家の何処に配置するかということは重要な問題だ。個人的な願望を述べるなら、書斎は独立していて家族からあまり影響を受けず、しかしこちらからは家族に「アクセス」しやすい場所がいい。わたしは在宅でしごとをする時間も長いので、子供たちが家にいるときなどはその気配を感じているほうが安全の面からも望ましいと考えている。
事前に簡単に整理しておくと、わたしにとっての書斎は「考える・蓄積する・整理する・生産する(書く)」などと言った機能を持っている空間で「ホームオフィス」的なイメージをも同時に追っている。内緒で言うならばそこには「私的な工房」といった機能も付け加えたい。そこで工作したり壊したりするのだ。
書斎は家のどこにあればいいか。各自の趣味嗜好や作業の内容からの要請によって、いろんな位置が考えられる。家をつくろうとするとき、生活の場としての居間や個室とはすこし違って、書斎には住人の夢がかなり執念深くこびりついているように思える。
わたしが昔から考えていた書斎の位置は、半地下だった。たいした理由があるわけでもない。こどもの頃に住んでいた家の近くに学校があり、近所の子供たちの悪い遊び場だったのだが、そこには地下室があって食堂かなにかに使われていた。食堂の窓の外側には明り取りのために堀のように空間が取られていた。光の井戸みたいなものだろうか。その地下室は、だから窓がないのではなく多少の自然光が射し込んでいた。その地下室はこどもの目には不思議な空間に見えた。
地下は静かだ。土で囲まれていてずっしりと重い。空気だってそれほど軽くはない。石の家にはずっしりとした安定感があるが、それも地下室と比べればまだまだ軽い。安定した感じ、囲まれた感じ。
一方、窓のない地下は憂鬱だ。幽閉された気分になる。誰にでもいくつかの地下室の記憶があるはずだが、わたしの地下室の記憶はなにかヨーロッパ的な雰囲気と重なっているように思える。地下ではないけれども、冬を過ぎて早い春のロンドンの安宿は、そこが重く暗い空気の底の地下の一室であるかのように思えたものだ。
わたしが欲しいと思っていたのは、子供の時の記憶に従って窓のある半地下の空間だった。高いところにある窓から庭の緑が見えるような感じがいいなと思っていた。半分地下に広い空間を確保して、ひどく明るい照明で隈なく照らす。音もにぎやかにする。天井はあまり高くなくともよい。広さは、そう、四十畳ほど。床は木で出来ていて広々としている。禁欲的なトレーニングマシンがあったっていいだろうし、巨大な常緑樹が置いてあってもいい。
……イメージはどんどん膨らむものだ。そんな地下の書斎の夢は実現しなかった。しかし地下室の夢は捨てていない。地下ならばずいぶんと広い一部屋が確保できるはずだ、東京でも。まだ珍しい地下の多目的空間は自分自身にとっても比較的長い間刺激的であり続けるはずだ。
住む空間が刺激的かどうかは大切だ。空間の刺激というのは日々の生活をワクワクさせる要素として無視できない。実現しなかった地下室。実現しなかったその空間を実現させる為に夢が生き続ける。
2 チークの家を風が吹き抜けた
人間が生まれた土地を捨てて「逃げ出す」方向にはいくつかある。そのひとつは、熱帯である。
ジム・トンプソンはタイの伝統的なシルク産業を再興した米国人の実業家である。一九〇六年生まれ。第二次大戦中は米軍の情報機関に属してインドシナで活動し、その前は建築家だった。戦後タイに住んで絶滅寸前だったタイ・シルクを復活させ、実業家として成功した。一九六七年、休暇で滞在中のマレーシア・キャメロン高原で突然失踪し、その後の消息は途絶えたままである。彼の周囲を今も謎が取り巻いている。
彼の家はバンコクの中心部にある。ショッピングで賑わうサイアム・スクエァからほどちかい路地を入っていくと小さなクロン(運河)に突き当たってその路地は終わる。彼の住まいはその運河に面したタイ建築である。いまは記念館のようになっていて誰でも内部を見ることができる。入場料は恵まれないこどもたちの為に使われているようである。
建物は高床式になっていてピカピカに磨き上げられたチークでできている。運河に面した居間は二階の部分にあり、外に向けて広々と開け放たれ、あたり一面の熱帯の樹木が見えていて、高い天井にはシャンデリアが輝く。仏像の頭部、いくつもの石の置物。びっしりと彫刻を施した低いテーブルにゆったりとした椅子は西洋と東洋の融合のようにも見える。この居間の前には広い廊下があり、そこでは来客を迎えてタイ・ダンスなどが演じられたらしい。
ジム・トンプソンの書斎はこの運河に面した熱帯樹木の洪水を背にして、家の庭園(そこもまた樹木が溢れているのだが)に面した小さな窓を持つせまい空間である。ホテルのロビーにあるライティングデスクよりは大きい程度の小振りなデスク。デスクの上の大きなスタンドライト。書棚の隣に立つ仏像。息が詰まるほど東洋が濃密に感じられる場所である。タイを吸い込む。タイを呼吸する。熱帯の植物の香りで息が苦しくなるような気がする。
この書斎ばかりでなく彼の家自体もそうなのだが、白人が東洋に思い入れ、自分のイメージを伝統と融合しつつ実現したときの見本のような建物である。古い六軒の建物を買取り、運んできて、一軒の大きな母屋と召使達の為の小さな何軒かの建物につくりかえた。その中には十九世紀初頭の民家もあったということである。
床をきしませながら家を歩きまわる。居るだけでドキドキしてくるようなチークの王国である。風が建物を吹き抜けていく。クロンを渡ってくる風である。バンコクは近代化の過程で多くのクロンを埋めて、はじめは馬車のための、次には自動車の為の道路にした。今のバンコクはその結果アスファルトの焦げるただの熱い都会になりさがっている。
この家には空調設備などはない。窓という窓は開け放たれていたことだろう。蒸し暑いバンコクの生活は相当の忍耐を要した筈だ。蚊や熱帯の巨大なムカデやいろんな虫の侵入にも耐えなければならなかったに違いない。優雅に見える「バンコクのアメリカ人」の生活の実態はどのようなものだったか。
夜。木々は圧倒的な量の黒い影になる。居間のシャンデリアが輝き、大きなチークの家で賑やかなパーティが催される。それが終り、客が引けて静けさが戻る頃、大柄な白人がひとり居間の椅子に戻ってくる。元建築家・元情報機関員で今はタイ・シルクの実業家の、数年後には謎の失踪を遂げるはずのひとりの米国人はバンコクの夜の遠い雑踏に耳を澄ます。クロンを行き過ぎる小舟の音が近づいて遠ざかる。
バンコクの蒸し熱い夏、わたし自身も「逃亡者」の気分を味わいながら何日も何日もひたすら歩き回ったことがある。実際、その時わたしは何故か「逃亡者」に擬せられていたのだった。「ジム・トンプソンの家」にも何度となく足を運びそのチークの質量に圧倒され続けた。バンコクの有名な観光スポットであるから観光客は切れ目なく押し寄せる。その多くはこの家の主人の母国からであるようだった。
今わたしの手元には“Jim Thompson --The Legendary American of Thailand" という本がある。バンコクの有名な書店“D.K."で見つけたもので、彼の生涯を描いている。この本の中に、彼が書斎でデスクに向かっている写真がある。その肩には白いインコがとまっている。ペットだったということだ。初老の男がひとりで異国の伝統的な建築に住み、書斎でなにやら書き物をしている。その肩に白い大きなインコがとまっている……。
目を外に向けると梅雨曇りの空のはるか向こうに新宿副都心の高層ビル群がぼやけて見える。熱帯へわたしも飛んで行って、そこでひとりで朽ち果ててみたいものだ。それができるか出来ないかを考えている間に生涯は夢のように過ぎて終わるのだが。
3 屋根裏の秘密
昔パリの安宿の螺旋階段を上り詰めた七階だか八階のひどく天井の低い部屋に逗留していたことがあった。その宿にはエレベーターがなく、毎朝、螺旋階段をくるくると回って地上まで下りていき、近所のパン屋でパンを買い、新聞を買って又もや天国への階段とも思えるような螺旋を辿ってやっと部屋に戻り、息を切らせながら朝食が始まるのだった。ブタンガスコンロでカフェオレを作り、バターを出して来てパンをかじりながら新聞を読む。部屋には粗末なベットがひとつと古い衣装ダンス、肘を広げることもできないくらいの小さなちいさなテーブルがあった。それにそれに鏡が一枚。トイレは部屋の外で、共同だった。
朝、窓際に置いたテーブルに持たれて外を眺めつつゆっくりとパンをむしる。家々の屋根が幾つもいくつも重なって見えている。煙突がどの屋根にもごちゃごちゃと並んでいる。その部屋の窓の位置は、つまりパリのアパルトマンの屋根が連なって海のように見えるところにあった。ラジオもテレビもない。食事を終えるとミシュランのガイドブックを取り出して今日はどこへ行こうかと考える。地下鉄の定期を買ってあったから市内のどこへ行くのも気の向くままだ。考えるための時間は無限にあるように思え、しかし大したことを考えるわけでもなく時間がすぎていく。そんな具合に一ヵ月が過ぎてわたしはパリを離れた。
わたしの屋根裏願望はこんなふうに海外の安宿の記憶に端を発している。
安宿というのはだいたいにおいて不便で窮屈だ。わたしが何故屋根裏に泊まったかといえばそれは簡単なことで、そこが一番安かったのだ。しかし結果として屋根裏は実に快適だった。隠遁の気分もする。塔に住んでいる気もする。塔に住むというのはたぶんある種象徴的な行為だろう。塔に住むということは塔の下の方に向かって呼びかけるということだ。塔ではなにかに没頭したり、なにかを発見したりすることができるように思う。
何十年来の願いがすこし叶い、屋根裏の部屋を手に入れてみると、そこはかとない解放感があるのは確かだ。その窓からは近隣の家々の屋根が遠くまで見え、多少は空に近く、日の光は十分過ぎる程に入ってくる。
そこにいるということは今までわたしがいたことのあるいくつもの屋根裏部屋を同時に呼び戻すということでもある。もちろんはっきりとそう考えているわけではない。しかし頭のどこかでいままでに滞在したことのある屋根裏部屋の記憶がくるくると回っているのは確かだ。部屋の記憶というものは当然のことながらその部屋のある町のこと、その町に行き着くまでの道程のこと、その町を歩いていたときの気持ち、その町で会ったひとのことなどを思い出させる。それらはセットになっていてどの記憶の部分からで他の部分に行くことができる。屋根裏の記憶はその部屋に辿り着くまでの息の切れる様子、その螺旋階段の脇のフロントに座っていた宿の女主人の表情、いつも行っていたパン屋の売り子の若い娘の容貌、サンミシェル大通りからその宿に行くまでの道筋、その宿を紹介してくれた日本人のことなどと密接に結びついているというわけだ。
屋根裏。これは一軒家においてはなかなかに秘密の場所である。
準備する場所であり雌伏する場所だ。舞台裏でありそこから出ていくための場所である。逃げて帰って来て再起を期す場所。からくりの潜む場所。からくりを造り出す場所。
できるならば天窓を取付け、そこから雲を見たり星を見たりしたいものだと思ったがそれは叶わなかった。しかし空中庭園にいるような気分でわたしは屋根裏暮らしを始めつつある。このまだ乱雑を極めるわたしの「空中庭園」にはどんな結実が見られるだろうか? それは自分自身にも定かではない。
4 アマ・ダブラムの麓にて
エベレストのベースキャンプを見下ろすカラ・パタール(黒い岩という意味を持つ)という丘に登った夜、高熱にうなされた。高山病である。その丘の高度は海抜五千五百メートルほど。秀麗なピラミッド型の岩峰プモリから伸びる山稜の末端近くのコブでエベレストの展望台である。
翌朝熱は引いたが体が衰弱していてふらついた。高度障害には下るのが一番である。わたしとシェルパのアン・テンバは濃い空気のある場所を求めて敗残兵のようにとぼとぼと下っていった。
イムジャ氷河との合流点にほどちかい或るバティ(茶店。宿を兼ねる)まで下り、そこで丸一日静養すると元気が回復してきた。翌日アン・テンバとわたしは足慣らしを兼ねてイムジャ氷河に日帰りで入ってみることにした。
イムジャ氷河に入ってすこし登ると一軒のバティがあった。そこは小高い場所にあって眺望に恵まれていた。正面にはアマ・ダブラムという名前の岩峰が聳えている。鉈で削ぎ落としたような岩壁に囲まれて巨人のように屹立している。その足元にあるすこし平坦な台地にはちいさな氷河湖が見えた。あそこに行ってみたい。どうだろう、あの氷河湖を見てみたいんだが……。アン・テンバは快諾すると先に立ってルートを探し始めた。
川床に下り、息を切らせて対岸の岩だらけの斜面を上り詰めると、台地が目の前に開けた。二千メートルもの岩壁が目の前にそびえている。氷河湖は目前に静かに広がっている。快晴である。ネパール・ヒマラヤはモンスーンが明けたばかり。霞む風景はここにはない。
湖の岸辺でアン・テンバは枯れ草を探しはじめた。どの枯れ草でもいいというのではない。彼は何種類かの枯れ草を捜し出して小さな束をつくると、地面に置いてポケットライターで火を付けた。草が燻り、やがて線香のような香りが立ち上った。膝をついて手を合わせると彼は祈り始めた。
どうしてお祈りをするんだい?わたしは彼の傍らに立ち、アマ・ダブラムの圧倒的な障壁を見上げながら言った。ああ、それはね。はじめて来た場所ではお祈りをするんですよ、神様に安全を祈るんです。……するとここは始めて来た場所なわけだ。そう、この台地に登ってきたのは今日が始めてです。
小さな日本の家を出てから既に一ヵ月が経っていた。朝日と共に起きて歩き続け、暗くなったらテントを張るか、時々はバティの床に寝る、そんな生活を繰り返していた。
毎朝、朝日は高峰の向こうで確かに輝くが谷間に踏まれた細道を辿るわたしたちにはなかなか届かない。夜の星の数と言ったらあまりにも空気が澄んでいてかつ光源がない為にその全体があたかも薄い雲のように見える程だ。そして月は切るように光る。
ヒマラヤ山中にも人は住み、小さな村があり交易が行われ宿場もあって、徒歩の行き来はそれなりに盛んである。ラマ教の坊主達の守る山寺もあり、その近くに野営したなら夕暮れには彼らの鳴らす銅鑼が物悲しく響く。
日本人と見間違うような風貌の人たちとすれ違いながら幾日も幾日も徒歩の旅行を続けて行くと、そこがインドとチベットの大陸同士の拮抗の中から生まれた巨大な褶曲の狭間であると俄には信じがたい。しかしここは日本ではない。微妙に歪んだ感覚が生まれる。
あまりにも静かである。眩しさに目を細めながら周囲の高峰群を眺め、足元の苔や枯れ草に目を落とし、息をつく。ここでさえも標高は四千五百メートルはあるだろう。空気は薄く乾いていて切れるように冷たい。そこに強烈な紫外線が鋭利な刃物のように降り注いでいる。
巨大なものが目の前に聳えている。荒々しい岩の壁である。その岩の壁はちっとも風化していず、切れ味が良く、妥協もない。思うがままのかたちでそこにあり、いささかの戸惑いもない。すごい造形だ。ああ、すごい、と呟きながら枯れた草の上に座っている。いろんなものが吹き飛ばされて木端微塵にされる。アン・テンバはザックを背負ったまま立って岸壁を仰いでいる。
石を積んで小屋を作り屋根をかけてここに住むことができる。実際、夏の放牧地としてイムジャ氷河の上流は使われているらしかった。ここに住んでヤクの乳を飲みチベットから来る商人たちとバクチをして生きて行くのも面白い。夜になれば芋を塩で煮た汁とチャパティの夕飯を食い、どぶろくを飲んでしたたかに酔い、板の間に転がって寝入るのだ。
さて、そろそろ下りましょう。体を大切にして下さい。
アン・テンバが微笑しながら言った。
そうだね。少々無理をしすぎたかも知れない。俺がこの台地に家を建てて住むのはどうも難しいようだ。
下って行く足元はすこし頼りなかった。アン・テンバはひょいひょいと身軽に岩の間を渡っていく。わたしは時々手をつきながら下りていく。なんとなく爽やかな敗北感が訪れる。
この風景のどのひとかけらも許容と妥協を暗示さえしてくれない。空気はわたしの生存を脅かすほどに希薄である。冬の生存は不可。耕作も不可。思索も恐らく不可。
5 父の書斎
わたしの父親はサラリーマンだった。
朝はやく出かけ、夜はこども達が起きている時間に帰ってくることはまずなかった。父の勤めていた会社には早朝会議というものがあり、それは始業時間のはるか前に始まるので、家を出るのは多分七時よりも前だったのではなかったかと思う。
朝起きると父親はいなくて、バター臭い小さなケーキとか絵本とかが置いてあることもあり、こどもにとってはそれは相当に楽しいプレゼントであった。高度成長期の日本のサラリーマンの家庭の雰囲気というものはたぶんどこでも似たようなものだったはずだ。
わたしが高校に入った頃引っ越した家で父親はようやく書斎を手に入れた。玄関脇の四畳半の洋室である。しかしそこでしごとをすることは稀だった。書類を書いたりするのは大概は布団の中だった。布団に入り、枕元に手帳や原稿用紙を置いた。ときにはウィスキーの瓶を脇においていることもあった。筆記用具は鉛筆である。万年筆を使うこともあった。
枕を抱えるようにして、暗いスタンドの灯る居間兼寝室で、父親はなにやらメモを書き留めたり原稿を書いたりしていた。その表情は淡々としたものであり、特に思い巡らしたり逡巡したりというような感じではなかった。暗くて書き物には不便なはずなのに何故かいつも布団の中が父親の書斎だった。
それ以前に住んでいた家ではわたし自身は身分不相応の立派な書斎を与えられていた。十二畳以上もある洋室で天井がとても高かった。窓からは古い武蔵野の面影をとどめる欅の巨木が何本も並んでいるのが見えた。その土地の地主であった隣家の防風林の名残である。
しかし父親には書斎はなかった。はっきりとは覚えていないが、その家でも父親はたぶん寝室で布団に入ってから手帳を取り出し、暗い明りの下でウィスキーをちびりちびりとやりながらメモを書きつけたり原稿を取り出したりしていたのではないかと思う。その頃の習慣から新しい家に移っても布団の中で書き物をする習慣がやめられなかったのかも知れない。
父親があまり愛用しなかった書斎にはたいして量はなかったが本が並べられていた。その大半はしごとの関係の広告の本であり文学的なものとか趣味のものとかはほとんどなかった。そして蔵書の大半にはこどもの落書きがしてあった。犯人はわたしである。
父親が亡くなってから蔵書を捨てるでもなくそのままにしておいた。そして家を新築することになったとき何冊かを残して本は捨てた。一冊一冊にわたしの落書きが書き込まれた父親の蔵書はブルドーザーの一掻きで家の柱や壁やあたりの泥といっしょくたになってどこかに運ばれていったのである。
腹這い書斎がほんとうに心地よかったのかどうか。父親はなぜ机に座って書き物をすることを好まなかったのか。いまとなっては聞くこともできない。確かなのは彼がその姿勢でいくつもの原稿やしごとのプランなどを書き上げたことだ。 もともと決して豊かでない家に育った父親は万事に節約家だったから書斎空間を楽しむことさえも「節約」したのかも知れない。
6 巨人の腕の中で
クレタ島の西端近く、ペロポネソス半島に最も接近したあたりに、カスティリという町がある。町は島の北岸に面していて夏はバカンスの長期滞在者で賑わうはずだが、わたしの訪れた二月はひとっこひとりいないといってもいいほどの静けさだった。
町はずれまでトラックに乗せてもらって来た。運転していた中年の男は何度も何度も身振りで「帰りに会ったら、また乗せてやるからな」と言っているようだった。そんな親切に何度も出会いながら島をほぼ一周して来て一週間が経とうとしていた。
町は小さくて人影もまばらだ。冷たい雨がぱらぱらと降っている。
ようやく探しあてた宿は誰もいなかった。主人はあそこで飲んでるよ、と近くにいた人が指差した方向には人々の溜まり場になっているらしいバーがあった。戻って来た主人は長身のドイツ人。ナチス・ドイツの将校が隠れて宿屋をやっているみたいな雰囲気の男だった。
宿は玄関から見て左にふた部屋右にひと部屋。正面には共同で使うシャワールームがある。それぞれの部屋には壁に添ってに四つのベッドが置かれ、真ん中はすっかり空いていた。部屋のドイツ的な清潔さにすこしドキリとする。右の奥の部屋は広いキッチンだった。広いテーブル、ガス台はもちろん、食器も揃っていて、しかも部屋全体が恐ろしく清潔だった。
この宿に客はわたしひとり。主人は、キッチンにある食器やガスは勝手に使っていいよと言うとわたしを残してバーに戻って行った。
町に出て食料品屋を探し、スパゲティとすこしの野菜と缶詰を買ってくる。雨が降ったり止んだりのどんよりした天気だ。夕刻、広いキッチンにぽつんとひとりいて、プロパンガスのコンロで湯を沸かし、カリフラワーを茹で、スパゲティがメインの簡素な食事を作る。雨の音が大きく聞こえる。
あっという間に食事は終わってしまうとあとは長い長い夜だ。キッチンの大きなテーブルに向かってなにを考えるでもなく、あてどもなく考える。雨脚は強くなり弱くなり止む気配がない。時計がゆるゆると回って行き、次第に深夜が近づいて、しかし主人は戻って来ない。
翌朝、海岸に散歩に行く。海岸からの眺めは奇妙だった。
さして長い海岸線ではない。その両端から海に向けて岬が伸びている。ふたつの岬は延々と伸びてだんだんに高度を落とし、はるか先でようやく海に没している。そのふたつの岬はまるで巨人の腕のように見える。つまりわたしが海岸に立って海を見ている視点が実は巨人の視点である、というような感じ。ダリ的な風景だと言ってもいい。岬には樹木の影はほとんどない。荒れた裸の腕である。
町に戻る。喫茶店に入りトルコ式のギリシャコーヒーを飲む。店にいたスイス人のカップルとなんとなく話し込んで時間が過ぎていく。わたしたちの部屋にこない?アパートを借りているの。女の方が言う。彼らについて粗末なアパートを訪れる。男は画家志望だった。朝起きて会社に行って昨日のサッカーの結果の話しかしないような生活なんて!と彼は搾り出すようにしゃべった。
雨は止まない。霧のように降り続ける。
宿に戻り、誰もいないキッチンのテーブルに向かう。湯が沸く音がする。
あの岬はまるでギリシャ神話の巨人のようだ。なにかを暗示しているとしか思えない。シンボリックな風景というものは神秘的なもの・神話的なものを無理やりにでも信じさせる力を持つようだな。ここはおそらく神々の遊び場だ。
その夜、巨人の腕の中でわたしはここまでの旅程を振り返り、ずいぶん遠くまで来たなと思い、まだ帰らない、もうすこし続けようと思った。
7 喫茶店書斎の悦楽
自宅に書斎とおぼしき空間を確保した後でも、一番ものを考えられる場所はどこか考えてみるとそれは電車の中(で座っている時)と喫茶店であることに気がついた。
喫茶店というのは不思議な場所だ。いろんな国に喫茶店らしき店があり、その雰囲気は似通っている。席と席が近づき過ぎていても離れ過ぎていても喫茶店としての雰囲気は出来てこない。どちらかというと人との距離が遠すぎるよりも近い方がおもしろい出来事が起きそうだ。公園ではなくわざわざ人がいる場所(喫茶店)に行く意味のひとつは場所の目的についての暗黙の了解があるからかも知れない。誰かと会話していろんな気持ちや情報をやりとりする場所。ことばの自由市場みたいなものだ。
店にいる人と人とは無視しつつお互いを意識している。その具合がうまくいっていると緊張感のあるおもしろい場が出来上がる。
ところでこの市場では自分自身との会話も行われる。自分の座っているイスと目の前のテーブルとその周囲の一平方メートルくらいの広さの不可侵領域を一時間五百円位で借り、その場所で自分と相談したり自分に詰問したりするわけだ。本を読んで自分自身に聞かせる人もいる。
場末のセンスの悪い店は最高の書斎である。座り心地の悪いイス。常連の客が大声で話していたり店の人間が私語に熱中しているような店だ。誰もこちらには興味を示さない。空いている。
もちろん静かで雰囲気のいい店がダメだというわけではない。
大量の書類とか道具を持って行けるわけではない。小脇に抱えられる程度の量の、いわば「一仕事」程度の材料を持って行く。それもその仕事を終えるのが目的ではなく、そのしごとに「目鼻をつける」程度の見通しを立てる為のアイディアスケッチをしに行く。
店は何軒かの中からその日の気分によって選ぶ。ファストフードの明るくてザワザワする雰囲気がいい時もあるし静かで凝ったインテリアの店が気分に合っている日もある。店がなかなか決まらない時は気持ちも不安定だ。
書類を取り出し、ついでに電卓とかシャープペンシルとか、いくつかの道具を取り出してテーブルの上に置く。なにかを注文し、それがテーブルの上に置かれるまではなんとなく宙ぶらりんだ。コーヒーかなにかが来てそれを見つめると、そこから「書斎の時間」が始まる。
せいぜい一時間か二時間。それくらいしかわたしにとっての「書斎の時間」は続かない。やがて集中していた気持が弛緩しはじめ人の声が耳に入ってくるようになったら一平方メートルの書斎は消滅している。東京に何千もあるはずの喫茶店のひとつの一隅にすわっている喫茶店の客であるわたしがそこにいるだけだ。家に戻り、わが家のしごと部屋にこもって喫茶店書斎で書き始めたアイディアスケッチに肉づけしていく職人的な時間が始まる。
8 電子書斎の光と影
高校生の頃飛騨高山にひとりで旅行に行き、おみやげに石油ランプを買って来たことがある。ランプに火を入れてみるとそれはそれは素敵な明りだった。しかし石油の臭いがたまらない。かなりのあいだ我慢して点けて得意になっていたが結局臭いに負けて実用化するのは諦めた。
その後山歩きをするようになり冬の山などでローソク一本の明りで夜を過ごすことがあった。そのローソクが明りであり同時に暖房であるわけである。雪に穴を掘って冬眠する熊のような姿で夜を過ごす時などローソクに照らされて輝く雪の穴はなかなかに美しいものだった。
室内の照明に関して言えば部屋に光と影の部分があるのが好きだ。光源は点照明がいい。イサム・ノグチのデザインした和紙を使った照明が氾濫しているがわたしもあれが好きである。和紙を通って来る白熱電球の光は行灯(あんどん)を彷彿とさせてすばらしい。行灯の明りで生活したことなどないのだが。ただし白熱電球は発熱するのがつらい。
書斎の明りは実用的な部分と雰囲気の演出の部分の双方を兼ね備えているのがいいように思う。事務的な、量をこなす仕事と言ったらいいのか、どんどん片づけるような作業だったら蛍光灯の明るい部屋がいいだろう。じっくり考えながらアイディアをまとめたりそれを展開したり、デリケートな作業が続くのならばスポットに近い照らし方をした部屋の方がいいかも知れない。
複数の照明装置を部屋に忍ばせておく。昼間は蛍光灯の明るい部屋。夜になると白熱電球が幾つも輝く光と影のある部屋。深夜は手元だけが明るいスポットに照らされたほとんどが闇の領域の部屋。そんなふうにいくつものモードを持った照明システムが欲しい。
かつて日本の家はひとつの部屋にひとつの照明というような場合が多かったように思う。天井から裸電球が下がっているだけの部屋。次に蛍光灯が奇妙に明るい(或いは明るすぎる)部屋を作り出していた時代が来た。そして今、光源は複数になり多様になりつつあるようだ。天井から下がる明りは時代遅れになり床で光り壁で光る。
自分のしごと場には今現在七つの光源を置いている。
天井には配線されたレールを設置してあり、そこには様々な照明器具を取りつけることができる。今はクリプトン電球のスポットをふたつと白熱電球のペンダントをひとつ付けている。
デスクの付近にはCRTを照らす蛍光灯(アーム付)と白熱電球のいわゆるZライト。床にはイサム・ノグチの和紙のスタンドがひとつ、あと蛍光灯のスタンドがもうひとつのデスクの上にある。しかし部屋全体を照らす役割を持った明りはひとつもなく、どれもが小さな部分部分を照らしている。結果的に夜の部屋の空気の粒子は輝いてみえることはなく壁は照明の反射板の役割を果たさない。こういう照明のスタイルをとっていると欲しい照明器具が際限もなく増えて来る。どれもこれもクセのあるやつばかりである。
部屋にいて明りを見ていると、ときとして衝動的に「どうして人工の明りってのはこんなに羊みたいにおとなしいのか」と思うことがある。
ここには閉じ込められた火はなく閉じ込められた暴力もない。「‥‥太陽の黄金の林檎。」とわたしは呟き、太陽のひとかけらを採取に向かうひとびとのことを描いた小説家のことを思い出す。
よく制御された都会のひとつの部屋の静謐な明りを見て思うにはそのストーリーは似合わなかったかも知れないが。
9 寒い部屋
ソ連軍の戦車部隊がアム・ダリヤを越えてアフガニスタンに侵入する前の年のことである。
アフガニスタンの北の辺境でソ連との国境に位置する都市マザリ・シャリフに滞在したことがある。なぜそこに行ったかと言えばたいした理由もない。町にはアリのモスクと呼ばれる青いタイルの美しい回教寺院があり、それが見たかったとも言える。しかしカブールからは乗合バスで片道十時間ほどもかかる行程である。物好きという他はない。
ちなみにこの時わたしがカブールからマザリ・シャリフへと辿った道を逆行してソ連軍はカブールに攻め込んだのである。その道は途中ヒンズークシュ山脈を越え砂漠と荒れ野をひた走るのだが、ソ連はこのルートの整備の為に力を注いでいたようである。
冬のアフガニスタンは寒い。雪は多くはないがカブールの路地は凍りついている。カブールをまだ夜が明けない早朝に出発した。外人の旅行者のたまり場になっていた「イスタンブールレストラン」の前に黒いクルマが近寄って来て寒さに震えながら待っていたわたしをピックアップし、バスターミナルまで連れて行った。そこからベンツのバスに乗ってマザリ・シャリフへと出発したのだった。カブールを出るとあたりの平原は白い雪の原になり果てていて、あらゆる景色は白い。道路は空と溶け合い、その境目は見えない。運転手は身を乗り出して道路の伸びる方向を見定めようとしている‥‥。
やがて山が迫りバスは山並みに分け入る。高度を上げ、山容は険しさを増して行く。バスの登高はサーラン峠を境にして長い下降へと変わる。
車窓から見える山は赤い色青い色。西遊記を思い起こす。両側から崖が迫る廊下のような地形がほんとうに唐突に終るとバスは兎のように平原へと走り出る。あたり一面に薄く雪が積もり空からもちいさな雪片が絶え間なく落ちて来る。その平原はゆるやかに傾いている。低くなって行くその先は中央アジアの大河アム・ダリヤである。
マザリ・シャリフで探し当てた宿はまず最低の安宿だった。部屋には硬いベッドがあるきりで毛布すらない。
部屋にはストーブがあるが薪は買わなければならない。小脇に抱えられそうな薪(というよりも小枝の束)を宿で買い、それを部屋に持ち帰って自分で火をつけて燃やす。そのひと束の枝はあっと言う間に燃え尽き、部屋は一瞬だけ天国のように暖まったあとであっという間に氷のように冷えて行く。物価からすると異様に高い薪の値段もこの国の荒れ方を見れば胸が痛む。この国にはほとんど樹木がないのだ。
部屋の気温は外気とかわらないかのようだ。シュラフを取り出し、あるだけの衣類を身につけるが、それでも体が震えるほど寒い。あまりの寒さに耐え兼ねて宿を出て町を歩く。雪が降り続いている。商店があるにはあるが品物はほとんどない。食堂を見つけてそこに入っていく。ストーブのまわりに何人かの男たちがかたまって暖をとっている。店は閑散としていて寒々としている。わたしも男たちの間に割り込んでストーブの暖かさを夢のようだと思う。入口が開いて雪まみれになった警官が入ってくる。ソ連風の分厚いコートを着ている。彼が近寄ってくるとあたりの空気が冷え冷えとする。寒い男‥‥、と呟いてみる。
アリのモスクは降りしきる雪の向こうに青いドームを見せていた。この青さはたしかに美しい、と靴の中でこごえる指を動かしながら思う。
アム・ダリヤが見たい。中央アジアを流れる大河なんて素敵なイメージじゃないか。しかし寒さがわたしを怠惰にする。もうどこへも行きたくない。
部屋に戻る。窓ガラスが割れていることに気がつく。裸電球ひとつ、毛布もないベッド。宝物のような薪を燃やし始めると部屋が暖まり、気持ちまでも溶けて行くような気がする。まるでマッチ売りの少女みたいだ。部屋が凍えるまでにはあとすこし時間がある。
10 深夜の台所でぼくは考える
深夜、すこし空腹を感じて部屋を出て暗い階段を下りていく。
台所に行って明りをつけ、冷蔵庫を開けてなにか軽い食べ物はないかと探してみる。たいしたものはない。ハムの残りが少々、チーズのかけら。まあそれで我慢しよう。食べ過ぎるのはよくない。
最近太ってきた。太るということは或るひとつの精神的な世界を失うということだ。‥‥それはよくわかっている。しかし現に空腹なのだ。一本のビールが与えてくれる愉悦はわたし自身にとっての麻薬みたいなもので日々繰り返されるささやかな堕落だ。
誘惑に負けて缶ビールを出し立ったままビールを飲みハムをかじる。静かだ。ここでなら小説が書けそうな気がする、台所の隅にちいさなテーブルを置いて、とひとりでつぶやいてその思いつきに笑ってしまう。
なぜ台所なら書けて書斎じゃ書けないんだ?
谷川俊太郎の詩でたしかそんなのがあった。深夜、台所で、君に話しかけたかった‥‥とか言うような詩だったが忘れてしまった。読んだのはもう二十年も前に違いない。そのときは台所で「君」に語りかける心境なんてかけらほども理解できなかったものだ。
深夜の台所は恰好の書斎である。
あまりに狭い台所はもちろん無理だ。簡単な食事のできるテーブルがあるようなダイニングキッチンのようなスタイルの台所が深夜の書斎には理想的だ。台所の小さなイスに座って考えるでもなく考えるという行為におおげさに言えば考えることの秘密がかくれているような気がする。
しごとを終えたあとの場所というのは台所に限らず不思議なことに思考に適しているように思える。店じまいしたあとの喫茶店やバーのカウンターなんていうのも思う場所としては優れている。その秘密はなんなのだろうか。思考が目的ではない、どちらかと言うと体を動かすような場所が、一日の役目を終えてその空間を弛緩させる。そんな場所に忍び込んでものを考える。
昼間の台所はだめだ。その空間は食事を作るという目的に向かって走っているかのようで考える場所とは言い難い。
台所は環境としては書斎とは異質であろう。ガス台やステンレスのシンクの鈍い光り。食器や調味料、ゴミ箱、冷蔵庫の唸り声、蛍光灯の冷たい明るさ。ものを考えるために調整された場所ではない。むしろその逆だ。忙しく体を動かす場所なのだ。
わたしの場合台所で書類を広げたことはない。しかし広い台所でひとりで時間を持て余して浮かんで来るいくつもの思いを追いかけていた記憶はある。そのとき実際には貧しかったのに奇妙に豊かな気がした。外は雨で、時間は無限にあるように思えた。しごとはなく結婚もしていなかったから、どこに行き何をして生きていってもいいのだった。もの悲しく、しかしロマンチックではなかった。鍋がカタカタと鳴っていた。プロパンガスの青い火を見ながら明日はどこに行こうかと考えていた。
思いがずいぶんと遠くへひとりで旅していた。
ちりぢりになった思いを集め常識的な世界に戻ることにしよう。ビールは飲み終えた。書斎に戻りいくつかのしごとを片づけよう。今夜はすぐには寝られそうにもない。
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