アンコール遺跡−大衆化時代の楽しみ方を考える(2007.12.8)

2006年にカンボジアを訪れた外国人は170万人に達したという。この中の相当数の目的はアンコール遺跡だったという想像はそうまちがっていないはずだ。この数はこれからも飛躍的に増加していくことだろう。アンコール遺跡の真の大衆化の時代がはじまったのだ。
アンコール遺跡が大衆的な観光の対象となったのは1990年代に入ってからで、遺跡観光が本格化したのは1990年代の終わり頃だというのが私自身の印象だが、アンコール「観光」の歴史を考えてみると、西欧人がアンコールを訪れたのおそらく16世紀以降で、ポルトガル人やスペイン人が大航海時代の活動の一部としてカンボジアにまで至り、プノンペン付近を拠点に主に商業活動を展開した時期にアンコールに旅した記録がある。これら西欧人たちのアンコールへの旅は「観光」と呼んでも差し支えないだろう。
17世紀には鎖国前の時代に日本人が仏教聖地としてアンコールを訪問した記録(森本右近太夫など)がある。しかしその後長いあいだアンコールは一般の外国人(西欧人)にとっては遠い異国にある不思議な場所であり、想像力の中で夢見る対象でありつづけた。
その間、カンボジアはフランスによって植民地化され(1863年)、カンボジアの歴史研究がフランス主導ではじまる。その前後の時期はいわば探検と研究の時代であって、アンコールが西欧に紹介され、エキゾチックな夢を育んだ時期でもある。
たとえばフランスの保護国となる直前、フランス人の博物学者アンリ・ムオは1859年にアンコールに旅し、死後にその旅行記がアンコールを西欧にはじめて紹介した(とされている)。19世紀末には万博などでアンコールの文明が喧伝された。ただしそのエキゾチックな夢なるものが植民地主義の伸張とその正当化に奉仕するという側面があったことも否定できない。宗主国の文化的優位性のアピールと異文化に対するロマンチシズムがセットになっていた。
つまりアンコールは「植民地の時代」に西欧人が見た夢のひとつであり、「未開の地に隠された謎の文明」というエキゾチックな想念の象徴のひとつだった。私たち日本人のアンコールへの憧れにもこうした西欧経由のイメージの移入があると私個人は考えている。

西欧人による本格的なアンコール観光がはじまったのは20世紀初頭らしい。この時期、豪華客船による観光旅行の目的地のひとつがアンコールだった。船はサイゴンに停泊し、そこからアンコールを目指したという。移動には主に船が使われ、プノンペンから蒸気船でトンレサップを渡り、さらに小さな舟に乗り換えてシェムリアップ川をさかのぼってシェムリアップに至り、そこから牛車に乗って遺跡を目指した。アンコール・ワットの中に小屋があってそこに泊まった。当時、観光の対象になっていたのはアンコール・ワットとバイヨンだけだったらしい。当然のことだがこのような旅は富裕層にのみ許されたものだった。
20世紀初頭以降、フランスによる研究活動が本格化するのと並行してアンコール地域の整備が進められる。遺跡エリア内の周回道路が作られ、遺跡にとりついていた樹木の伐採や散乱する石材が整理される。崩壊していた遺跡は積みなおされて修復が行われた。
世界的なマス・ツーリズムの時代が到来するきっかけのひとつ旅客機の登場だった。旅の所用時間は短くなり、世界は小さくなった。それが本格化するのは第二次世界大戦後のことである。
カンボジアについていえば、観光の本格化は内戦の終結を待たなければならなかった。1953年の独立後、一時はそれなりの安定状態にあったものの、カンボジアの政情は次第に不安定化していき、1970年代には内戦、ポル・ポト時代、ベトナム占領時代と外国人がカンボジアに観光旅行に行くことを許さない厳しい状況が続いた。ようやく観光が可能になったのはパリ和平後のことだが、国内の治安はそれ以降も不安定であり、観光客が急増しはじめたのはポル・ポト派が弱体化し治安の回復が顕著になった1990年代末以降のことで、1990年代末に20万人だった外国人旅行者は2006年には冒頭で述べたように170万人に達する。

観光客の急増にともなって、アンコール観光にはホテルの急増、土地バブルとその結果としての住民追い出し、環境破壊、周辺住民の生活(=文化)の変質といった負の側面が見えはじめた。遺跡の損傷が懸念され、観光客と遺跡との距離を遠ざけるために遺跡内に木で歩道を作ったり、壁面レリーフに触れないように手すりをつけるといった変化が起きた。
近いうちに遺跡観光の「飽和」状況が起きるのは間違いない。シェムリアップは遺跡観光の拠点からリゾート都市へと変貌し、遺跡はリゾートの付加価値となっていくだろう。有名な遺跡では入場者がキャパシティを超え、『最後の晩餐』、ピサの斜塔、ネフェルタリの墓のようになんらかの入場制限が行われるにちがいない。
アンコール観光の飽和の結果として、遺跡観光のスプロール化も懸念される。コー・ケーに代表されるアンコール地域以外への観光客の分散=地方のシェムリアップ化が進んでいくことだろう。これらの遺跡を道路ネットワークで結ぶ計画も進んでいる。コー・ケー、バンテアイ・チュマール、プレア・ヴィヘア、サンボー・プレイ・クック、ワット・プーなどとのネットワークが完成すれば観光客は観光バスでこれらの遺跡を回るようになるだろう。
こうした中で遺跡の静寂は失われていく。観光の大衆化とはこういうものだ。
しかし「昔はよかった」と嘆くのも疑問だ。まず根本的な問題として、観光客は常に遺跡の静寂を壊す側にいる。自分は行ってもいいが他人は静寂を壊すから行くなという議論には無理があるだろう。
世界には観光客であふれ、それでも魅力を失っていない観光地がある。たとえばパリ、ローマ、ヴェネツィア、京都などは今でも魅力的な土地だが、アンコールもまたこれらの観光都市と同様に魅力的な土地として生きていく運命にある。
では観光客であふれるアンコールをどのように味わい、楽しめばいいのだろうか。
現実的な解決のひとつはひとの行かない時期に行くことだ。冬のパリやヴェネツィアは、あれほど観光地であっても、ひとが少なくて観光しやすい。
観光客の行動はガイドブックなどの情報をなぞることが少なくない。
その結果、観光客はある特定の時間帯にある特定の場所に周中しがちだ。午前中のアンコール・ワット、夕暮れ時のプノム・バケンなどがその典型だ。そういう定型的行動パターンから外れれば、静かに遺跡を楽しめる可能性がある。以前、真昼のプノム・バケンに行ったら数人の旅行者が昼寝しているだけの実に静かな場所だった。
つまり旅のステレオタイプから抜け出せるかどうかがひとつのポイントだと思う。

ある遺跡にひとがあふれていたとする。ではその遺跡は魅力を失っていて、見る価値もないのだろうか。遺跡を雰囲気としてとらえる場合はそうかもしれない。しかし対象物を見るとき、その見方には「雰囲気を味わう」以外にたくさんの方法があるはずだ。
たとえばクメール遺跡の建築様式に関心がありある程度の知識があるひとは静寂にこだわることはないだろう。つまり知識の多寡も関係してくる。アンコールについて、クメール遺跡についていくらかでも勉強したひとならば、自分の関心の方向から遺跡を見ることができることになる。
対象物についてどれだけ学び理解するかによって楽しみの質も量も変わってくるということだ。
目の前にある遺跡は迫力があるが、正当な想像力によって見えないものを見ようとする試みがあってもいい。正当な、といったのは、とんでもない思いこみ、錯覚、誤解の結果として想像力が生みだすイメージはほとんど意味がないとわたしが考えているからだ。想像力を駆使するためには最低限の知識が必要だ。
ひとの行かない遺跡に行くという選択肢もある。カンボジアにはおそらく数千もの遺跡があり、その大半はすでに消失しているかほとんど原型を残していないにせよ、それでも相当数の遺跡が現存していると考えられる。有名遺跡に観光客が集中する一方で、それ以外のあまり有名ではない遺跡に行くひとは稀である。有名ではないということは、ほとんどの場合、遺跡そのものに観光の対象としての価値がないということだ。つまり規模が小さい、ひどく崩れている、拠点都市から遠い、地雷などの危険がある、といった悪条件をものともせずにそこに行き、楽しめるかどうかはそのひと次第であって、ひとによってはまったくの時間のムダだと感じられるかもしれない。
ところで大半の旅行者は遺跡に興味はあってもそれにのめりこむほど好きだというわけではない。そうしたひとたちにとっては、ゆったりとした旅の時間の中のアトラクションのひとつとして遺跡観光がある。その場合、遺跡観光とその他の要素をうまく組み合わせるという方法もひとつの解決策だ。遺跡をたくさん回るより、たとえばシェムエリアップ周辺の田園地帯をのんびりと歩く一日を織り込むほうが結局のところ遺跡とそれらを生んだ文化的背景をよく理解できるかもしれない。
アンコール・ワット以外のカンボジアはよく知られていないが、私個人はその歴史や現代社会もなかなか面白いと感じている。個人的な経験からいえば、アンコールは私にとってカンボジアへの入口だったし、カンボジアのみならず歴史や社会そのものへの入口だった。こうした「入口」が何であるかはひとによってさまざまだろうが、アンコールはそこから何かに向けて出発する入口としての可能性を持つ存在だと思う。

いろいろと述べてきたが、遺跡を取り巻く環境がしだいに騒がしくなり、聖なる雰囲気が失われて通俗的になっていくのは時の流れとはいえ残念なことだ。私が19世紀中葉の旅人であったならどんなにすばらしい光景を、それらをとりまく静寂と美的荒廃に出会えたことか。
このことに関連して、戦慄とともに思うことがある。ポル・ポト時代のアンコール遺跡の大半は真の不気味な静寂の中にあったはずだ。恐怖の時代が静寂を取り戻すことになったとはなんとも皮肉だ。「アンコール遺跡の大半は」といったのは、収容所として悲劇の現場となった遺跡もあったからである。
残念ながら時は後戻りしない。遺跡が観光客であふれる明日もそれはある種の必然だ。その時代を受け入れつつ私たちは生き、時代の制約の中で楽しむ運命を負っている。
それではこれからもいい旅を。
 

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