|
マスクの時代ふたたび(2003.05.26)
1995年の夏に私はパソコン通信の電子会議室に次のような文章を書いた。
***
生きることが憂鬱だと感じる日がある。それは私たちが毎日、毒を食らって生きているのだと改めて気づくからだ。
空気が汚い。息をすることが毒を取り込むことを意味する。水も食物も有害物質を含んでいる。私たちが生きるために呼吸し、飲み、食べる、そのような行為の全てが毒を取り込む行為であると感じるようになったのはいつの頃からだろうか。
自分自身の中に、日々毒が蓄積されていく。自分だけではない。都会も、森林も、南極も、ヒマラヤの高山も毒されている。砂漠は核実験場となり放射能汚染される。深海底には封印された核廃棄物が投棄される。数十年前ですら、さまざまな環境汚染は進行したいたにせよ、それは地球のごく一部のことだと思っていた。日本のどこかのコンビナートでは大気がひどく汚れ、住民は喘息に苦しんでいたし、それどころか同じ東京の、私が住んでいたのと同じ区内のどこかの交差点では排気ガスがひどいと聞かされていたものの、私の周囲には公害による喘息の患者はいなかった。汚染は抽象的な脅威だったわけである。
今、地球上に、もはや清浄な場所はない。これは衝撃的なコンセプトだ。そのような時代に、ひとり空気清浄器を置いた室内にこもり、高価な健康食品ばかりを食べて生きていくのは奇妙でかつ無意味な行為だ。どのように生きるのがいいかと言えば、その時代の標準的な量の毒を摂取しながら生きていく他はないだろう。それが時代の運命というものだ。
私にとって阪神大震災を象徴するものは防塵マスクだった。
一九九五年四月のはじめに神戸に行くことになった時、住吉駅近くで被災した知人に電話したらマスクを持って来るように言われた。神戸じゃ防塵マスク(それも本格的なやつ)を して町を歩いている人が少なくないと聞かされ、半信半疑ではあったが池袋の東急ハンズに行って花粉症用の一番メッシュの細かい防塵マスクを買った。新幹線は大阪までだったから、大阪から芦屋(その日は芦屋まで開通した日だった)まではJRの新快速に乗った。芦屋で降りて海側への階段を降りはじめた時、下から防塵マスクをした人が上がってきた。それがその時点での日常的な光景であったのは間違いない。それから国道2号線とJRに挟まれ、帯状に壊滅した住宅地を縫って歩き、摂津中山駅まで行った。
町ではマスクの人をしばしば見かけた。至るところで全壊ないしは半壊した建物を取り壊しており、なりふり構わぬ撤去作業の結果として、大量の粉塵やアスベストの微細な繊維が大気中を舞っていたが、人々はそのような事態が日常化しているために裸の喉を晒したまま町を行き来しているのだった。
阪神大震災の二ヵ月後に事件の主役の座を奪うようにして起きた一連のオウム関連の事件を象徴するものも、私にとってはまたもマスクである。
テレビのニュースの時間に流れた地下鉄オウム事件の映像は特異なものだったが、その異様さを象徴していたのは自衛隊の化学班の隊員が装備していたガスマスクだった。都市の日常に割り込むようにして化学戦争に用いられる防毒マスクが現れたのだ。空気中に毒を撒く人がいる。そのために空気を吸った人びとが倒れていく。
私の喉を毒が通過しないようにするにはどうしたらいいのかと考える時、毒を拒否することはだんだんと私を狂気へと追い込む気配すら感じられた。毒が 日常であり清浄が希有である時代なのである。今日もまた都市のどこかに毒がしかけられた。その毒は拡散しなかったが、毒が潜むという意識が私を毒する。私が防毒マスクをして町に出れば周囲の人たちは笑うだろう。その私が毒に出会えば周囲ではそれまで私を笑っていた人々が倒れ、私ひとりが無事なままでその光景を見ることになる。青酸ガスがしかけられた新宿の地下通路と倒壊したビルのゆらぐ神戸の路上の双方で、私はたぶん一瞬の戦争に出会っていたのだ。
それから数カ月して三十五度を越す夏の日が続く八月末の東京で、時間の経過と共に私の意識の中の毒の恐怖は薄れ、夏は終わる気配を見せない。あいかわらず路上は焦げ、熱気は空から降って来るのではなく路上から放射される。都市はエアコンをフル稼働させて冷気を作りだし、更なる熱を吐きだす。この熱気もまた正常とは思われない。東京はこのような熱帯ではなかった。バンコクのアスファルトに似ている。私たちはフライパンで焼かれる蟻みたいなもので、暑さゆえに走り回るが結局のところ逃げ出すことはできない。同じ頃、神戸でもマスクの人はほとんど見かけなくなっているに違いなかった。
本当に毒と大地震の恐怖が去ったのかどうか、誰も知らない。時間の経過と、その上でリスのように走るマスメディアとが、着実に事実そのものを時の彼方に押し流していく。私たちは忙しすぎ、無反省で厚顔である。謝罪すべき罪を正視せず、森林を破壊し、鳥や魚を滅ぼす。おそらく私の顔には厚顔なマスクが張りついているのだ。そのマスクは薄く透明で、皮膚と一体となって見分けがつかない。
はがそうか。
***
・・・そして2003年の春、思いもかけない時代が幕を開けた。この未知の病の登場は、昨年の秋に宣言されたテロルの時代よりも手に負えない真の恐怖の時代の始まりを意味しているのかもしれない。 AIDSと同様、私はSARSが天の罰ではないかと恐れている自分を発見する。私たちがしてはならない多くの禁忌を犯したために、この病が人間の世界に連れて来られたのではないか。この病がペストやスペイン風邪のような猛威を振るわないとは誰も言い切ることができない。私がカンボジアに向かうために成田空港に到着してすぐに不安な時間が始まり、機中でもドンムアン空港でシェムリアップ行の便を待つ間も、感染の不安が私を苦しめ続けた。私がSARSに襲われることはなく、とりたてて記録しておきたいとも思わない東京の日常が再び始まったのだが、それでもSARSの不安が去ることはない。1995年の夏のある日、化学防護マスクの一隊が去った後で、世界はよくなってきただろうか。善は増え、悪は減じ、英知はより多くの人の心に滲みこんできただろうか。私にはどんな答えも出すことはできない。ひとつだけ確かなことは、マスクが増殖し拡散して、今は誰もがマスクをつけて息をひそめる時代になったのだ。後世の歴史は今の時代をどんなふうに記述するだろうか。マスクの時代と呼ぶのだろうか。
(注)上2枚の写真は1995年4月初旬に神戸市内で、当時発売されたばかりのデジタルカメラ CASIO
QV-10で撮影された。下の写真は2003年5月、バンコクのドンムアン空港内で撮影された。 |