コーケーへの旅(2002年1月)

2002年1月19日朝。 シェムリアップに着いたのは前日の夜だった。たった1泊しただけで、今回はコンポントムに行き、そこから真臘の都サンボー・プレイ・クックとアンコール期のもうひとつの都コーケーを目指すのだ。シェムリアップの市場、プサルーを出て国道6号をプノンペンに向かうピックアップトラックに乗り1時間40分、途中のコンポンクデイで降りた。ここまでは「インサイド」で快適。この 町にはジャヤヴァルマン七世によって作られた有名なラテライト橋(Spean Prap Tos。一般的にはSpean Kompong Kdeiと呼ばれる)がある。この橋を見て、1時間後に今日の最終目的地コンポントムに向かうためにまた別のピックアップトラックに乗った。今度は「アウトサイド」。要するに荷台だった。はげしく揺れながら走る車の荷台は不安定で危険を感じる事もあった。
このピックアップトラックの「インサイド」すなわち室内には運転手をふくめて7人が乗っている。前が3人、後ろが4人だ。「アウトサイド」には18人とバイクが1台。 この1台に合計25人が乗っているわけだ。はげしくゆれる荷台で女ばかり6人が車酔いして次々と吐いた。しかし皆よくしゃべり、笑う。人々の間を木の実やちいさなシジミのような貝など、ちょっとした食べ物が回ってくる。しかし埃がすごい。荷台に座っているのでお尻が痛くなる。結局この小旅行の最後までお尻の痛みにつきまとわれることになった。
国道6号はプノンペンからシェムリアップを経てタイ国境のポイペトを結ぶこの国の幹線道路だが道路の状態は良くない。しかし以前にくらべれば「クレーター」も姿を消し、快適になっている。日本が進めている完全舗装は2002年1月現在シェムリアップ空港−シェムリアップ−ロリュオス及びコンポントム−プノンペンが完成し、その他の区間でも工事が進んでいる。工事が終わればプノンペン−シェムリアップは3時間になるだろう。途中で立ち往生した自家用車の手助けをして30分も停車したピックアップはコンポントムに午後1時過ぎに着いた。
コンポントムに着いてすぐにするつもりだったのは、この町に住むひとりのモトドライバーを探すことだった。しかしトラックが町に着いたとき、そこに待っていたのは偶然にも探していた男、イム・ソコムだったのである。ソコムの名はカンボジアについてのサイトをやっているスコットランド人のアンディから聞いた。しかしアンディとは会ったことがない。 インターネット上の友人というわけだ。アンディとソコムは昨年秋にコーケーに行っており、ソコム自身はアンディとの旅をふくめてすでに3回、自分のバイクでコーケーに行っている。願ってもない相棒だ。私はその日の午後ソコムと日程について相談し、翌日サンボー・プレイ・クックに行ったあと3−4日をかけてコーケーに行く事にした。
翌20日は終日ソコムとサンボー・プレイ・クックで過ごした。サンボー・プレイ・クックまではコンポントムから1時間。レンガの小規模な遺跡が100以上も密集する特異な 場所である。 疎林の景観はなかなかいい。かつて真臘(チェンラ)の都があったところだ。アンコール地域に見られるような巨大建造物はここにはないが、扶南(フナン)からアンコールにいたる歴史の中で大変に重要な場所だ。建物はミーソンに似た雰囲気もある。祠堂壁面の空中宮殿は美しく印象的だ。夕方、市場で長袖のシャツを買った。
1月21日の朝6時半、いよいよコーケーへの旅が始まった。余計な荷物はソコムの家に預け、荷物は最小限にした。 サブザックの半分くらいの量だ。バイクは国道6号を少しシェムリアップ方向に戻るように走ってから国道12号に入り、北上する。未舗装だが平坦でそれほど悪い道ではない。ただし先行車の巻き上げる砂塵がものすごい。目の付近を完全にカバーする透明なゴーグルを持ってきて助かった。 朝日の中で私たちの影が路上に長く伸びている。
コンポントムから1時間半、緑豊かな 平野の風景の広がるコンポントム州からプレアヴィヘア州に入ると風景は一変する。 森の中の一本道を走るのだ。道の両脇の木々は砂塵のために真っ赤に染まっている。先行する車の巻き上げる土埃は木々に囲まれた紅い回廊に封じ込められ、なかなか薄れていかない。前方がまったく見えなくなるのでその度にバイクは減速し、前が見えてくるのを待つ。息も止めている。豊かな自然の中で砂塵にまみれて走り続ける自分たちの姿はかなり喜劇的だ。
朝9時、森を抜けて小さな村に着いた。プノム・ダイという名前だ。赤い土埃が舞っている。ここで小休止し、朝飯にすることにした。ここから西に折れると、まだ訪れる人の少ないプレア・カン(アンコールにあるプレア・カンとは別。Preah Khan of Kompong Svayと呼ばれている巨大遺跡。ジャヤヴァルマン7世によってチャンパ攻略の拠点として築かれた)まではわずか2時間で行けるが、今回は時間がなかったのであきらめた。食事を終えて村の風景をぼーっと見ていると、カンボジアで旅をしているんだなあという実感がわいてきた。
食堂の向かいには小さな売店があって少女が店番をしている。こちらから水をくれとか言ってたのむと道路(これがつまり国道12号だ)を横切って持ってきてくれる。ソコムがバイクの整備をしている間、私は見るでもなく向かいのスモールビジネスの成り行きを見ていた。カンボジアだけでなくアジアのそこここで見られる光景だ。商いを営む人だけでなく一般の人々の生活も路上にある。「外」と「内」の関係がずいぶん違うように感じられる。「内」が閉じ、秘匿されるのではなく「内」が「外」に染み出しているようだ。
プノムダイを出て更に北上する。村をでるとすぐに地雷除去チームが作業している現場にでくわした。道路のすぐわきだ。更に北上すると国道沿いに点々と地雷の存在を示すマークが見られた。広範囲に地雷が残存していることを示している。現実に存在する地雷原に事実上はじめて出会った。地雷は「待つ兵器」だ。誰かに踏まれるまで長期間にわたって威力を保ちつつ残存し、その間恐怖をまきちらしつづける。森の中へと続く踏み跡は不気味に静まり返っていた。
12時15分、トベンミンチェイについた。コンポントムから6時間弱かかったことになる。プノムダイまでの国道12号は平坦で埃を除けば走りやすい道だが、ここから分かれてトベンミンチェイへの道は途中から山越えとなり、悪路となる。山越えを終えると高原のような雰囲気の台地にトベンミンチェイがある。この町はプレアヴィヘア州の州都であり、プレアヴィヘア(タウン)とも呼ばれる。西部劇に出てきそうな雰囲気の埃っぽい町だ。好きだな、と思った。これも西部の酒場みたいな感じの薄暗い店で熱いコーヒーにコンデンスミルクをたっぷり入れて飲む。30分ほど休んでコーケーへの最後の「攻撃」に向けて走り出した。
12時50分、町を出てコーケーへの道に入ると状況は更に悪くなった。道が大きくえぐられている箇所も多く、全体に深い砂地で極めて走りづらい。まるで砂漠である。何度も(何十回も)バイクを下りて歩くはめになった。一度転倒したが砂地なので怪我はしなかった。極めて消耗的な「戦い」だ。平均時速は10キロ程度まで落ちた。内腿の裏のシートに触れるあたりがすりむけているようだ。この道路状況では4輪駆動車でもむずかしいだろうと思った。まして雨期はすごいことになるはずだ。しかし意外に人の行き来がある。地元の人々、軍人、商人のバイクとすれちがう。コーケーへの道は悪路ではあるが僻地への道ではなく、道路沿いにはかなりの人口を抱えていることが推察される。
トベンミンチェイとコーケーの間にはいくつか村があるが、クーレンはその中でも大きな村だ。クーレンに着いたのは午後3時15分頃だった。レンタルビデオ屋兼雑貨店で休息する。ここは「ガソリンスタンド」も兼ねている。コカコーラが飲める最後の村だ。店を経営しているのは村の警官の家族。家長的雰囲気を漂わせた老人が「おまえはベトナム人か」という。田舎ではベトナムへの敵意は強い。歓迎されていないというサインだ。2月に実施される地方選挙を知らせる横断幕が青空になびく。
午後5時半、今日の目的地Srayang(スラヤン)村に到着した。コーケーの遺跡の10キロほど手前にある。村は小さく、1軒だけの食料品店に泊めてもらうことになった。村の共同風呂ともいうべき水浴場で上半身だけ洗い、ランプの明かりで夕食を食べる。町に働きに出ていたこの家の男たちが帰ってきていて、私たちのところにたずねてきた。彼らは10日ほど前に遺跡に行ってきたという。夜、外に出てみるとたくさんの星が見えた。その晩は小屋の中にハンモックを吊って寝た。小屋の建物はクメール人の家として一般的な高床式で、木のはしごを上って室内に入る。ハンモックで寝るのは始めての経験だった。男たちは(わたしたちが来たために)高床の1階部分、つまり屋外に寝た。夜半から寒くなり、よく 眠れなかった。朝はやく人の声で目がさめて外へ出てみると、寒さに耐えかねた男たちが焚き火で暖を取っていた。
22日朝。簡単な朝食のあと、7時すぎにコーケー遺跡をめざした。あたりは森というよりも林と呼ぶのがふさわしい。 地形は平坦だが、道はあいかわらず砂地で走りにくい。10キロに1時間弱をかけた。 途中で周囲が明るんでくる。美しい風景だが、その底に地雷の恐怖が潜んでいる事を否定できない。この付近では道路から出ることは危険だ。森が美しいからといってその中に踏み入っていくことはできない。このことはその数十分あとに現実となった。
遺跡のすぐ手前(南側)では、Cambodian Mine Action Centerの60人ほどのチームが地雷除去活動を始めていた。昨日からこの地域で作業を始めたという。 隊長とおぼしき人物に作業の見学を申し出ると快く承諾してくれた。彼らの説明によると、まず遺跡周囲の地雷撤去を行い、その後遺跡内の地雷除去を行うとのことだった。 作業期間は2、3ヶ月を予定している。彼らは親切に地雷探知作業を見せてくれた。作業の現場は要するに道端である。 プラサート・トムの東側にある大きな塔門(the outer gopura)のすぐ南側100メートルほどの道路わきが今日の地雷撤去の現場である。遺跡周辺の道の周囲はすべて地雷埋設の可能性があるということなのだ。
Cambodian Mine Action Centerの活動を見学したあとでプラサート・トムに分け入った。この付近には地雷除去活動に携わる人々のほかにはわれわれしかいない。なんともぜいたくな遺跡訪問だ。the outer gopuraから西に進んでいくと、東側区画を抜けて西区画に至る。正面にはpyramid型の寺院基壇部が堂々とした姿を見せている。これを見にきたんだなと思った。このピラミッドには東側にひとつだけ階段が設けられている。 かつて上部には高い塔が立っていたが現在は消失している。崩れかけた階段を上って頂をめざした。
急な階段を上ってピラミッドの頂上に立つ。ようやく 夢に見たコーケーにやってきた。今回の旅で来れるとは思えなかったものが、なんとかたどり着けてうれしかった。わずか数時間の滞在のための往復24時間のバイク旅行。なんとも酔狂なことだ。 頂上からの眺めはすばらしく、森におおわれた平原のかなたにプノム・クーレンの姿が見えた。昼前にスラヤン村に戻り、すぐトベンミンチェイに向けて出発する。途中、再度転倒。悪路で苦労しながらトベンミンチェイに着いたのは午後4時半頃だった。その夜は町のゲストハウスに泊まり、レストランでソコムとビールを飲んだ。シャワーが気持いい。 その夜はゲストハウスのベッドに吊られた蚊帳の中で深い眠りについた。
1月23日。この日はコンポントムまで戻る 予定だ。 早朝、町はもやにつつまれ、その彼方からバイクやピックアップトラックが次々と姿を現す。トベンミンチェイは赤い土の道がやけに幅広く感じられる茫漠とした田舎町だが独特の魅力 を感じる。この町から2時間も北上すればChoam Khsantに至り、そこからタイとの国境をなすダンレック山脈上に位置するPreah Vihear Templeへの日帰りが可能だ。 カンボジアを陸路でくまなく巡る1ヶ月の旅は楽しいだろうなと思う。しかし今の私にはそれだけの休暇をとることは出来ない。今晩にはシェムリアップに戻り、熱いシャワーを浴びることができるだろう。
町の中心部にある一軒の店の前にたくさんのバイクが集まっている。地元の人々が朝食をとりに来る店らしい。ミートボールや肉、野菜がたっぷり入った麺類がこの日の朝食だった。それに熱いコーヒーを飲む。昨夜ゲストハウスの前で出会った保健衛生関連のNGOのメンバー(クメール人)から「こっちに来て住めばいいのに」と言われたことを思い出していた。そういう選択肢もあるのだ。アンコール遺跡にはじまった私のカンボジアへの興味が 広がって、少しカンボジアそのものにシフトしつつある気がした。私はどこにいくのか?
トベンミンチェイを朝7時半に出発して、コンポントムに向けて山を下りていった。悪路だが昨日に比べれば楽なものだ。しかし途中またも転倒。怪我はなかった。下からでこぼこの道をふさぐようにして大型トラックが登ってくる。その速度はとても遅く、ゆっくりと歩く程度だ。走行してすれ違うことはできない。バイクを下りた私は道路の中央に立ち、大型トラックに向かってシャッターを切る。こんなこと日本ではしたことがない。デジタルカメラの液晶ファインダーの中でトラックがずんずん大きくなる。
一度通っただけなのに、コンポントムまでの道はもはやなじみのあるといってもいい気持だった。赤い土、舞い上がる土ぼこり、赤く染まった道路わきの樹木。なにか抗いがたい魅力のある風土だ。荒々しいが飼いならされていない魅力とでもいったらいいだろうか。
プレアヴィヘール州からコンポントム州に入ると風景は再び緑豊かな平野へと変わる。バイクはほぼ6時間でコンポントムに戻ってきた。ソコムの家で休憩し、それから彼に別れを告げてシェムリアップ行きのピックアップに乗りこんだ。
国道6号をシェムリアップに向かって走った。途中で夕暮れになり、太陽が黄色く輝きながら落ちていった。それから夜になり、暗い夜道を走り、夜8時頃になってプサルーに到着した。プサルーからはバイタクでまっすぐプサチャへ向かった。プサチャからは荷物を預けてあるいつもの宿へと歩いていった。宿では立派なツインルームを用意していてくれた。輝くように白いシーツ、熱いシャワー、冷えたビール。シェムリアップの安楽な生活に戻ってきた。その日はこれまでにないほどおそくまで町にいた。 翌日から3日間をシェムリアップで過ごした。快適な生活だったが、激しさに欠けていた。少し物悲しい日々がゆっくりと過ぎていった。

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