|
|
|
バイクタクシーのジョン 今回の旅は、今までになく多くの人々に出会った。なかでもまず、バイタク(バイクタクシー)のジョンとの出会いは、私にとって僥倖であった。カンボジアでは125ccまでのバイクなら無免許で運転できる。また、タクシー業を営むのに特別な許可は必要ないらしい。従って所得の低いこの国では、格好の副業なのである。当然その数は半端ではない。また、観光客、特に日本人をターゲットにした、最初から犯罪目的の者も少なからずおり、その真贋を見極めるのにはなかなか骨が折れる。 滞在二日目の19日、朝食を済ませ、いざ観光へ赴かんとする私に最初に話しかけてきたのがジョン氏である。なかなかの好青年であり、交渉態度も清潔であった(怪しいスマイルを浮かべ、妙に流暢な日本語で「トモダチ」などと言いながら握手を求めてくる輩には要注意!)。値段を決め、彼をタクシーに雇った。 丸一日過ごし、彼が安全な人間であることが理解できたので、私がプノンペンにいる間はバイタクをジョンのみで通した。おかげで当初予定していなかった、首都郊外にある遺跡などに足を運ぶことができた(信用できない人間と二人で郊外に出ることは危険極まりない)。また、地元の人しか行かないところにも連れて行ってもらい、貴重な経験ができた。 滞在期間もあと数日となったある日、ジョンは私を特別な場所に連れて行ってくれた。それは、「カンボジア日本友好橋」を渉り、南へ下った、トンレサップ川とメコン川が合流する地帯であり、夕方ともなればその一帯に屋台が並び、家族連れや恋人同士が涼みに来る場所である。対岸には高級ホテルやバーなどのネオンが輝いている。ジョンがある食べ物を進めてくれた。出てきたものはスルメである。これを、辛い薬味にレモンをかけたソースで食べるのである(非常に美味かった)。 私は、ポルポト政権時代の人々の生活について二、三質問を試みた。ポルポト率いる「クメールルージュ」が政権を掌握したのは1975年、後3年8ヶ月の間、粛清、虐殺、伝統文化の破壊が行われ、また民衆は農村への強制移住、共産主義理念による共同生活と過酷な労働を強いられることになる。たった30年前の現代史である。当時を知る人たちはまだまだ多いが、外国人の私が興味本位で訊けるようなことではない。26歳のジョンと親しくなり、タイミングを伺いつつようやく切り出した話題である。彼は当時を知る人から聞いた話をいくつか教えてくれた。話題はすぐに、明るいものへと替わった。 彼は将来について私に話してくれた。近い将来、外国に出稼ぎに行き、一財産築いた後帰国し、カンボジアで事業を始めたいという。ひとつは子供を宿した妻との将来を、今ひとつの理由は、貧しい母国の経済を慮ってのことである。また彼は今の仕事について、こうも述べた。カンボジアの経済は観光業で成り立っている、観光客が来なくなればこの国は終わりだ、自分はバイタクをやり、客に精一杯カンボジアの魅力をアピールしている、そうすれば彼らは母国に帰り、この国の素晴らしさを家族や友人に伝えるだろう、それを聞いた人たちはカンボジアに来たくなるだろう・・・。彼の素朴な愛国心は、眩く、私には触れることさえ叶わないような気がした。戦後の日本には、こういった若者が多くいたに違いない。 最終日、空港まで送ってくれたジョンと再会を誓い、お金を、契約していた額より少し多めに手渡した。(4/1) 無料語学学校 <貧=不幸?> 三月二十一日早朝、バスに乗り、首都プノンペンを出発、アンコール遺跡群から最も近い街シェムリアップに着いたのが午後二時頃だったと思う。私は既にチェックインしたゲストハウスで働くバイタクに連れられ、早速市内観光へと出かけた。彼がまず私を連れて行ったのは「キリングフィールド」である(プノンペンにもある)。プラプラ歩いているとお寺を発見。早速中に入ってみる。するとどこからかクメール人の少年数人が現れ、私に日本語で話しかけてきた。しばしの会話の後、少年たちはこの近所に学校があるのでぜひ今から立ち寄ってほしいと私にせがんだ。『大丈夫かな』とは思ったものの、はしゃぐ子供たちに逆らえず、彼らに従って歩くこと数分、私達はある小さな村(といっても家屋はほんの数件)へたどり着いた。そこでは、よくボランティアの広告などで見かける、所謂「青空教室」があり、二十人前後の生徒に僧侶が日本語を教えているところであった。ちょうどひらがなを全て覚え終わったところらしく、その日の授業は「にゃにゅにょ、ぎゃぎゅぎょ、ぴゃぴゅぴょ」といった音の発声練習であった。私は、先生に請われ正しい発音を教えた。バイタクをキリングフィールドに待たせていた私は、明日また来ることを約束しその場を去った。 翌日、念願のアンコールワットを見学し終えた私は、夕方再びバイタクを駆り例の学校へと出かけた。リュックの中にプレゼントとしてペン20本とノート2冊を携えて。その日は私の期待に反し日本語の授業はなかったが、代わりに校長先生にお会いすることができた。そして私はこの学校が親をなくした子供や、家が貧乏で学校に行けない子供達のために設立された、無料の語学学校であること、少数ではあるが世界各国のボランティア団体からの支援があることなどを改めて知った。校長先生は私のプレゼントを快く受け取ってくださり、翌日は4時から日本語の授業があるので、ぜひ来てほしいと言われた。私は、約束はできないがそのつもりでいると返事をした。翌日私がこの場所にいるであろうことは間違いなかった。 翌日4時、私は同じ場所にいた。が、今回は生徒の集まりが悪く、ハンモックに揺られながらしばらく待つ。結局5〜6人程度で授業を始めることにしたのだが、なんと遅れてきた先生が「今日は私は忙しいので教えられません」と言い、どこかへ行ってしまった。というわけで私一人でひらがなの読み方や簡単な挨拶などを教えた(約1ヵ月半ほどで頭に叩き込んだクメール語がここで少しだけ役に立った)。授業は約30分ほどだっただろうか、特に感動的な出来事もなく普通に終わった。 さて私が感じたことを二つほど。一つは子供達の授業態度である。一言で言えば注意力散漫である。授業中は私語を慎み、先生の言うことに集中して耳を傾ける、という考え方はたぶん持っていないか、知らないと思う。かといって勉強意欲が無いわけではなく(むしろその逆だと思うが)、なにか「勉強」あるいは「授業」というものに対する根本的な捉え方が日本人と異なるのではないか、という気がした。熱帯性気候が育んできた民族性であろうか。まあ、ただ単に私の授業が退屈だっただけなのかもしれないが・・・。もう一つは子供達の印象である。単純に考えて彼らの境遇は「悲惨」である。が、私にそういった印象を与えた子供は独りもいなかった。彼らはとても楽しそうであり、なんとなく羨ましい気さえした。私は考えた、我々が持つ「発展途上国」、「満足に教育も受けられない子供達」、「紙やペンさえ不足している学校」などのイメージは、「悲惨」、「不幸」、「かわいそう」といったマイナスのものばかりである。私自身そうであった。が、それは先進国の奢った価値観ではないだろうか。この学校の生徒から見れば、日本人の小学生は貴族のような環境で勉強している。では日本人の小学生は、彼らよりよりきらきらした目で、楽しそうに勉強しているだろうか?彼らより幸せそうに見えるだろうか?確かにこの語学学校にもう少しお金があれば、設備が整えられるし、そのほうが子供達にとっても勉強がし易いはずだ。ボランティアではなく、大学教育を受けた先生も雇えるだろう。しかしそれは単なる環境の向上であり、そのことが即「幸福」であるということにはならない。貧しい環境に「不幸」が全く見当たらないことは、私の価値観(先入観)を根底から覆した事実であった。(4/2) 食 カンボジア料理ははっきり言ってうまい。私はその秘密は味付けにあると思う。カンボジアの庶民的な料理といえば、「麺」、「炒飯」、「肉野菜炒め」といった我々にもおなじみのメニューばかりだが、それらの味付けの特徴は「コクのある薄味」である。ただ単に薄いのではなく、しっかりと主張をもった薄味なのである。ある意味日本人の味覚に合っていると思う。実際私はカンボジアの飯を不味いと言う日本人には一人も出会ったことがない。最初の頃は「このくそ熱いのにラーメンなんか食えるか」と思っていたが、しばらく滞在してみると、炎天下に汗をかきながらすするラーメンもなかなか味わい深い事を知った。そして食事の後は冷たいクメールデザートが待っている。私はこれにはまってしまい、一日2〜3回は欠かさず食べていた。クメールデザートの特徴はなんといっても冷たいココナッツミルクである。そこにタピオカ、あんこ、餅のようなもの、フルーツなどをお好みで入れ、甘みを増す物体(不明)を入れ、最後にかき氷をたっぷりとかけてかき込むのである(思い出しただけでもよだれが・・・)。こうした甘味屋台は夕方になってからしか店を出さないので、私はいつも日が暮れるのを待ち遠しく思っていた。ちなみに、デザートに限らず食事はほとんど屋台でとっていた。理由はいくつかあるが、まず値段が安い。ラーメンなら一杯平均1500〜2000リエル(4000リエル=1米ドル)。デザートなら500リエル程度。レストランで食べれば2ドルはかかるであろう・・・それでも日本の感覚からすれば安いが。また屋台のおばちゃんや、客とのコミュニケーションも楽しい。私が座るとまず周りの人々は一瞬驚いた表情をする。私が身振り手振りで注文すると、店のおばちゃんはニッコリして作ってくれる。小さい子供が「ハロー」と挨拶し、私もそれに返す。おばちゃんが「チョンチエ・チャッポン?(日本人か?)」といい私は「バー(はい)」と答える。隣のおっさんが箸を取ってくれる。・・・こうした現地の人との些細なコミュニケーションは、旅をよりいっそう思い出深いものにする。ただし衛生面は非常に悪い。ハエや砂埃が飛び回っているところで作られた料理なので、下手をすれば当たってしまう。(4/3) 値切る楽しみ ガイドブックにも書いてあることだが、カンボジアでは物に決まった値段が付いていない。しばらくいれば経験で大体の相場が分かってくるものだが、最初のうちはやはりふっかけられて高い値段で買ってしまうことが多い。 私が値切る楽しみを覚えたのは、滞在三日目頃からである。とにかく相手が言った値段が高いと感じた時はもちろん、真っ当な値段でも値切りに入る。その際に日本で覚えてきた片言のクメール語が大いに役に立った。「トライ(高い)」、「ソム(お願い)」、などといいながらこちらの希望する値段を言う。相手が女性なら「ロックスライ・スッアー(アナタキレイ)」を連発すればだいたい落ちる。或いは「チョンチエ・チャッポン、チョンチエ・クマイ、トモダチ(ニッポンジン、クメールジン、トモダチネ!)」というとたいていの人は笑い出す。相手が笑ったらもう半分は落ちた証拠である。「日本に比べれば相当安いんだし、生活の苦しいカンボジアの人々から値切らなくてもいいではないか」という意見もあるかもしれないが、それは見当違いである。値切るという行為は一種のコミュニケーションであると私は考える。私はなにも目くじらを立てて怒鳴り散らすわけではない。相手との駆け引きと交渉成立後の充実感、日本人だと思ってふっかけたら逆に値切られてしまい、苦笑いしながら悔しそうに品物を渡す店員、満足げにそれを受け取る私。そうした行為の後、私と店員にはある連帯感が生まれる。自然と会話が弾む(といっても片言のクメール語と片言の日本語でだが)。値段が下がったとしてもせいぜい10円20円の世界であり、私自身はっきりいってそんなことはどうでも良い。実際、何をいくら負けさせいくら得したかは全く思い出せないが、店員との会話や彼らの表情はいまでもはっきりと思い出せる。 我々にとって、物に値段が付いていないということは非常に不自然である。が、無言で品物を差し出し、無言で請求された金額を支払い店を後にすることは、果たして自然なのだろうか。(4/4) Genocide 1<トゥールスレン刑務所> その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、私はひやりとした冷気のようなものを感じた。季節は三月、カンボジアでは一年で最も暑い時期にあたる。が、先ほどまでのうだるような暑さはどこかへ消えてしまったかのようだ。 部屋の中央に鉄製のベッドがあり、傍らに鉄の足かせが無造作に置かれてある。壁には、拷問により既に息絶えた男の写真が一枚。先ほどからの寒気は止まらない。と同時に私はふと、ある奇妙な感覚、あえて言うなら幻覚のようなものを見た。照りつける太陽、時折そよぐやさしい風、庭に見えるやしの木、遠くから聞こえる喧騒、小鳥のさえずり・・・。明日をも知れぬ罪なき囚人達も、こうした光景を目にしたであろう。そして、一瞬、ほんの一瞬だけ安らぎを得たのではないだろうか?あるいは凄惨な拷問の果て、もはや虫の息たる男の体にも、日光が指し、気持ちの良い風が吹いたのではないか。彼はその瞬間、血まみれの頬を緩ませたのではないか? 人間は実に、地獄においてさえ安息を見出せるのである。それはなんと美しく崇高で、儚く、残酷な能力であろう。私は歩を進める。庭に、刑務所内の規則が書かれた看板がある。読みたくもないが、すばやく目を走らせる。内容はご想像にお任せする。そして次の棟には囚人の写真が無数に並べられてある。その顔の一つ一つが私をとらえて離さない。目を見開きこちらをにらみつける青年、すでに死を悟ったような無表情の老人、悲しみとあきらめの交じった表情の女性、幼い子供達・・・。なかにはいくつか、笑顔を見せている者がおり、私を打ちのめした。 別棟には拷問器具や、犠牲者の骸骨などが陳列されてあり、その二階に独房が残っている。二階へと上がる階段の壁には無数の政治的メッセージが落書きされており、私の胸をむかつかせた。日本語が無いことが幸いであったが。 「トゥールスレン刑務所(通称S-21)」はポルポト政権下において、反政府分子を強制収容するために使われた施設である。もとは高校であったらしい。マルクス主義では、教師、医者、僧侶、学者など、所謂インテリと呼ばれる階級に属するものは、それだけで罪を犯しているとされる(あるいは毛沢東思想においてであったかもしれないが、そのへんのところ、私はあまり詳しくは知らない。ちなみにポルポトは、毛沢東の優秀な生徒と言われていたらしい)。マルクス主義を理念とした社会主義体制、特にクメールルージュの目指した原始共産主義社会においてそれらの人々は無駄であるばかりか、害毒とされる。つまりそういった意味での「反政府分子」が収容されていたのである。当然、近代法治国家においては、そうした人々に「罪」はない。そうした理由で、約2万人もの人々がトゥールスレン刑務所に収容され、命を落としていった。生還者は実に6人である。(4/5) Genocide 2<キリングフィールド> トゥールスレン刑務所を見学した翌日、私はバイタクのジョンと共にキリングフィールドへと向かった。ちなみにこれは首都プノンペンでの話。語学学校の生徒と出会ったのはシェムリアップという街である。 バイクを降りた私はまず大きな仏塔へと歩を進めた。その中はガラス張りになっており、犠牲者の髑髏が無数に陳列されてある。さらに歩を進めると、ポルポト政権における虐殺の簡単な説明が書かれた看板がある。そしてその先には所謂「マスグレイヴ」、虐殺の犠牲者が埋められた穴を掘り返したものが無数に開いており、そのいくつかには発見された遺骨から推定した、埋められていた遺体の数や種類が書かれてある。首なし死体用の穴、女性用の穴、子供用の穴・・・。ふと見渡せば、広々とした田園が広がっており、乾季の乾燥した大地にやしの木が点在している。空は青々として快晴である。私はまた、トゥールスレン刑務所で感じたあの幻視感にとらわれた。キリングフィールドは、クメールルージュによる虐殺の舞台とならなければ、片田舎ののどかな平野でしかなかったであろう。 トゥールスレン刑務所と、キリングフィールドを見学し終えた私には、思想というものがこの上もなく奇異なものに思えてきた。人類の未来のため、より良い社会のため説かれた哲学が(マルクス主義はそもそもは哲学思想である)、ポルポト、毛沢東、スターリンといった人類史上に残る大虐殺者を生んだことは皮肉である。マルクス主義に限らず、思想の名において罪なき人々が命を落とすという事実は、今まさに起こっている。民主主義を唯一絶対の「思想」とし、国際法を無視してまで道義なき戦争を行うアメリカ、イスラム原理主義「思想」による無差別テロ・・・。思想が人を狂わせるのか、それとも狂った人間が思想を掲げ、自らの狂気を正当化するのだろうか?(4/6) 不良坊主 アンコールワットをあらかた見て回った後、私は寺院を東側から抜け、森を散策してみることにした。数分歩くとなにやら寺らしい建物が見え、その方向からかすかに読経の声が聞こえてくる。建物に近づくとハンモックに揺られながらお経を読む若い僧侶の姿が見えた。他に人影はない。が、遠くの方になにやら露店らしきものを発見、ペットボトルの水も暑さで既にお湯と化しており、その店でなにか冷たい飲み物でも、と思い近づいていくと店番をしているのは写真などで見るオレンジ色の布をまとった若い僧侶であった。彼は私に、ドリンクを1ドルで売りつけようとした。それを2000リエル(1ドル=4000リエル)に値切り、請われるままに私は店の傍らに腰を下ろした。しばらくすると暇そうな若者が何人か現れ、私を珍しそうに眺めた。ある者が私に尋ねた「どうやってそんな立派な髭を生やしたのか?」私の隣に座っている少年は、私の顔(たぶん髭)を飽きずに眺めている。クメール人女性が肌の白さを美しさの基準とするように、男性は立派な髭を男性的魅力の基準としているのだろうか?しばらく彼らと談笑していると、新たに一人の若い僧侶がやってきた。よく見ると彼の腕にタトゥが・・・。元はチンピラだったのだろうか?まあ何があったのかは知らないが、今は仏の道に帰依しているのであり、立派なことではないか・・・と思いきや、その坊主はなんとおもむろにタバコを吸い始めたではないか!私がすぐさま問いただすと「坊主でもタバコは吸っていいんだよ」と彼。そして時折携帯で誰かと話をしている。上座仏教とはもっと戒律の厳しいものだと思っていたが、店番の坊主といいタトゥの坊主といい一体どうなっているのだ。だいたい僧侶はお金に触れてはいけないのではなかったか?タトゥの坊主はにやにやしながら「俺たち僧侶は女の子に触れられないんだぜ」などと言っていたが、時折遠くに見える女性観光客に「ハロー」と声をかけている姿を見れば、彼らの煩悩の炎はまだまだ消えていないことは明らかである。お釈迦様は彼岸でさぞかし嘆いておられることだろう。とにかく彼らには、修行を積んで、将来は民衆から尊敬される立派な僧となってもらいたい・・・無理か。(4/8) ウドンの姉妹 ウドン(食べ物ではない)は、17世紀初頭から19世紀末まで王都が築かれたカンボジアの古都である。プノンペンからバイタクを駆り、郊外へ走ること約1時間、私とバイタクのジョンはある丘のふもとにたどり着いた。丘の上には、ウドン繁栄の時代に築かれた仏跡が建ち並んでいる。上り口付近で冷たいドリンクを売っている家族(母親と幼い姉妹)がおり、ジョンがなにかを尋ねた。私は、姉妹が扇子を持っていることに気が付き、『日本人観光客からもらったのかな』と思った。私とジョンが丘を登り、参道の石段の前で入場料を払っていると、後ろから先ほどの姉妹が駆け上ってくる。そして我々が石段を登り始めると彼女らもあとからついてきた。しかもその姉妹は先ほどの扇子で両サイドから私を扇ぎはじめた。『なるほど、なにも言わないがあとで金をせびるつもりだな』。 カンボジアでは何かにつけ金をせびってくる子供が大勢いる。私は、そうした子供らの態度に不快感を感じればお金は上げない。逆になんとなくかわいらしく感じれば上げることにしている。さて、この姉妹が炎天下、私を扇子で扇ぎながら、急な石段を苦もなく上っていく姿には、既に何度も何度もそれを繰り返してきたことを物語るある種の洗練があった。その仕事振りは、私の目には非常にけなげに映った。ちなみに妹の方は裸足であった。早くも私はお礼に幾らかと、腕にはめていたブレスレットでも上げようと心に決めた。とりわけ私の気に入ったのは、幼い妹の顔つきである。10歳に満たないこの少女は目に力を持っていた(うまく表現できないが)。また彼女は、生活が彼らカンボジアの子供達に身につけさせたあの熟練の商人の様な笑みは決して浮かべなかった。大きくなったら美人になるだろう、と私は勝手に確信した。 寺院の入り口のあたりでまたドリンクを売っていたので、私は水と、姉妹にコーラを一本ずつ買った。が、彼女たちは飲もうとしない。後で飲むのか、それとも持って帰り売りものにするのだろうか。寺院は非常に古く、ある意味粗末な印象があった。クメールルージュによって壊されたものもいくつかあった。姉は私に、仏壇へのお供え物を差し出した。私は内心『なるほど』と思いつつ彼女の言い値を支払った。 こうした遺跡には必ずといっていいほど年齢不詳のジジイがいる。僧侶でもない(僧服を着ていないので)、商売をやっているわけでもない、管理人(?)でもない謎のジジイである。歴史の語りべ、といったところか。ジョンはそうしたジジイに敬意を表した後、私のことを簡単に紹介する。私はすくないお布施を納める。ジジイは我々に、「涼み台(正式名称不明)」で休んでいくよう勧めた。「涼み台」とは、竹で創った台である。高さは大人の膝あたりまで、用途はその名の通り(命名したのは私だが)上に寝そべって涼むのである。竹の感触と丘を吹きぬける風が非常に心地いい。先ほどまでの疲れが出たのか、私はすぐに眠くなった。ジョンは何やらジジイと話し込んでいる。例の姉妹はなんと遺跡内を走り回ってふざけあっている。くそ暑いのに元気なことだ。 30分ほど休んだ後、ジジイに別れを告げ出発。今度は下り坂である。いくつかの遺跡を過ぎると、屋台や露店、学校などがあり、あとは何もない道路を歩いてもとの場所にたどり着く。日はいよいよ高い。先ほどから何も口にしていない姉妹が気の毒になり、私の水を勧めるが、遠慮してかあまり飲まない。しばらくして、出発地点にある露店が見えてきた。妹が私に告げた 「ミスター、1ドルちょうだい・・・」 「1ドルでいいの?」 「チャー(うん)」 私は彼女と姉に1ドルずつ渡した。今これを書いていて、もっと上げてもよかったかな、と後悔している。姉妹は母親のもとに駆け寄りアイスボックスの中から冷たい飲み物を取り出し、勢いよく飲んだ。私は先ほどから、妹の方に私が長年愛用してきたスウォッチを上げようと考えていた。このスウォッチは行きの飛行機のなかで壊れていることが判明し、恐らく修理に出さなければ直らないだろうと思っていたが、思い立ったのも何かの縁であろうと考え、あげた。非常にカラフルで綺麗な柄の一品である。私は少女を呼び、時計を彼女の細い腕に巻いた。彼女はにこりともせず、礼も言わず、自分の腕に巻かれた時計を不思議そうに眺めた。家族や友人らが、その時計を覗きあっている。私は姉にブレスレットを上げ、バイタクのジョンと共にウドンの地を後にした。少女は今もあのスウォッチを細い腕に巻いているのだろうか。(4/10) できない、という悦び<ある民族楽器との出会い> シェムリアップという街でとった宿で、日本人のバックパッカーと知り合った。彼は既に2ヶ月もアジアを旅しているらしい。ちょっと見には日本人だと判別しにくいほど真っ黒に焼た肌が印象的である。彼は民族楽器を演奏するという。そこで手持ちの小さな楽器をいくつか演奏してもらったが、その中のひとつが、非常に私の印象に残った。その楽器を的確に表現する文章能力は私にはないが、ある種のマラカスのような打楽器だと思っていただければよい。アフリカの楽器であるらしい。 ボストンにいたときに、BABALOOというラテンバンドに在籍しており、そのバンドで私はギターはもちろん、数種のパーカッションも叩いていた。特に私のお気に入りはコンガであった。また、バークリーの授業でもワールドパーカッションや、アフリカンドラムなどを習ったこともあり、私にとってパーカッションはギターに次ぐ身近な楽器でもある。そうしたパーカションへの思いは以前からあり、まとまったお金が入ったらコンガを買おう、と私はひそかに計画していた。さて、先日京都に買い物に出かけた際、民族楽器屋があったのをふと思い出し、何気なくよってみると、カンボジアで出会った例の楽器が置いてあった。安価であったので、迷わず買った。そして目下練習中であるが、これが難しい!そして何よりその「難しい」ということが楽しくて仕方がない。全く情報のないこの楽器(名前さえも知らない)を、記憶を頼りに演奏方法を模索し、少しずつコツをつかんで上達していくという過程がこの上なく楽しいのである。簡単に演奏できる楽器なら、こんなに楽しいと思わなかったであろう(もちろん厳密な意味で簡単に演奏できる楽器などないが)。つまり「できない」ということが練習意欲をかきたてるのである。その根底にあるのが「かっこいい、俺もできるようになりたい!」という情熱である。楽器を演奏する今の若者に、こういう感覚があるだろうか? とにかく、こんなに楽しく楽器を練習するのは何年ぶりのことだろう。私は好奇心旺盛なほうで、一日中何かに没頭するということは珍しくないことだが、本業の音楽においては久しくなかったことである。期待していた仕事のあてがはずれ、悶々としていただけに、音楽上の新たな楽しみを発見できたことは私にとって幸いであった。 練習するぞ!(4/13) 記憶の儚さ 帰国してから早2週間が過ぎた。 カンボジアのあの強烈な日差しと共に私の目に焼きついた数々のヴィジョンは、いまやその色彩を失いつつある。 関空からの帰路、電車の中から見える高層ビルの群れは、私の目には白昼夢のような、いかにも危うい存在に映った。が、いまや目が覚めれば消えていそうだと感じたその存在の危うさは、既にしてそれらの持つ確固たる意味を取り戻している。 それは、残念ながら(幸福にも)私がこの「文明」を生きる「現実的」な死人の群れから未だはぐれていないということだ。とすれば、帰国後の体調不良は私が信じた「現実」の最後のはかない抵抗であったのだろうか? ・・・あの照りつける太陽は本当に存在したのだろうか? 私はまた、旅に出るであろう。(4/14 カンボジア紀行 了) 八幡謙介さんのホームページ |