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定年退職後、これといってすることもなく家で暇を持て余していた父が言った。 「アンコールワットを見てみたいな」 次の瞬間、僕の初カンボジア入国が決まった。 今まで親孝行らしい事もしていないし、ひとりじゃ行けないと言うし。 父を連れて行くという名目であり、僕自身がカンボジアという国に興味がある わけではなかった。カンボジアという国についても、ポルポト時代の内戦と地 雷のイメージだけで、知識は無に等しかった。 バンコクからプロペラ飛行機でシェムリアップへ。暑い。この国は寒くても2 5℃を下らない。 空港からそのままアンコールワットへ。信号も車線もない道路をバイクが行き 交う。バイクは殆ど、2人か3人の相乗りで、3人目がオレンジ色の法衣を纏 った僧侶だったりする。トラックの荷台に20人くらいの人が乗っている。あ らゆる看板は濃い色合いで鮮やか。途上国という言葉だけでは寂しく静かなイ メージが、到着僅か10分で僕の中で一変する。何だこの国は?パワーがみな ぎっている。 アンコールワットが目の前に広がった。印象はただ一言「美しい」。カンボジ アの豊かな自然の中にたたずむ左右対称のこの寺院と参道の左右にあるお堀が とても丁寧に、静かに、そして広大な力を放っているようで、無闇に感想を言 葉にする事がバカらしく思えた。 今から数百年前に、石を運んでこの寺院が造られ、回廊に張り巡らされたおび ただしい量のレリーフが人によって刻まれたという事実、そしてそれを守ろう とする人々の信仰の深さ。それがこの国であって、その事が内戦で不幸な歴史 を辿ったこの国のイメージをあっと言う間に飛び越えた。 バイヨンやタプロームなど主要な遺跡を廻る。どこへ行っても、物売りの小さ な子供たちが駆け寄ってくる。明るくて元気でたくましい。小さな子供たちの 純真無垢な眼差しに心が掴まれた。そしてそれは最後まで僕を放さなかった。 大人達もみんな活発で明るく、貧困で苦しいイメージを感じさせない。そう、 この国の人たちは負のイメージを感じさせない。日本人の方がよっぽど冷めて いて、疲れている。カンボジアは経済的には貧しいが、圧倒的に心が豊かなの だ。それが全身で分かってしまった。何て日本は冷めた国なんだろう。そう思 った。観光産業を土台に、内戦の傷から立ち上がり、明るく活発に、その中で 豊かな自然と共に自分たちのゆったりとした生活も失わず、純粋な信仰と共に 生きるカンボジアの人たちの心の素晴らしさを、時間が許す限り感じた。帰り の便を待つ空港で涙がこぼれた。帰りたくなかった。 帰国後、狂ったようにカンボジアに関する本を読みあさった。内戦時の異常な 状態はいまだ理解できない。同じ国の人たちが同じ国の人たちによって虐殺さ れるなんて事が、あの素晴らしい国で起きたということがあまりに異様に思え た。美しいアンコールワットがクメールルージュの聖域で、近づけば殺される なんてことがあまりに不自然だった。 それだけにカンボジアという国に対する気持ちは募るばかりだった。 1年後、導かれるように、再びカンボジアへ。 割と粗末だったはずのシェムリアップ空港が改装され、中がとても綺麗になっ て免税店まで。1年前、カンボジアの人が言っていた。 「今は3ヶ月毎に風景が変わる」 ドキッとした。この国も日本のようになる?経済発展をする事が、結果、この 国をどうするのだろう。そう考えると胸がつまった。 2度目のカンボジアは昨年、恥ずかしくも見落とした事が目に入った。遺跡の 途中で楽器を演奏している人たちがいる。よく見ると、義足である。地雷で足 を失ったのだ。仕事がなく、演奏をする事でお金を求めている。バケン山を下 る象の道。障碍を持った人や、ボロボロの服を着た少女が黙って座ったまま、 お金を求めていた。そこには1年前に見た、子供たちの明るく好奇心旺盛で無 垢な目の輝きはなかった。一瞬で心が圧迫された。これがもうひとつのカンボ ジア。経済発展が最優先で福祉が追いついていない。 帰国する日の午後、スラスランの畔で座ったまま、ずっとカンボジアの風景を 見ていた。 平穏な落ち着きを感じながら、心に飛び込んでくるこの国のあらゆる面が心を 揺らした。 やっぱり帰りたくなかった。 アメリカへ行った友達が言った。「日本はなんていい国なんだ。」 カンボジアへ行った僕は思った。「日本はなんて嫌な国なんだ。」 答えは簡単だ。 2度目のカンボジアで、美しい自然と、神秘的な遺跡群が変わらず暖かく僕を 待っていた。 ガイドブックの中に入り込んだような嬉しさと人のぬくもり。それに怖さと切 なさが混じった。 もっとこの国が知りたい。 何度でもこの国を訪れる事を決めた。 |